第2話 夜禮黎明(やらい・れいめい)
娃瑙姫は不機嫌だった。
今日、本日、悠那(ゆうな)八年の縞月(こうづき:太陽暦で三月)の八日。
特に何があるというわけでもないこの普通の日に、幼馴染みの伊周(これちか)がまた妻を連れて遊びに来た。
伊周は幼い頃、娃瑙姫とともに山々を走り回って遊んだ仲間の一人だった。
姫が成長し、外で遊ぶことを禁じられても、伊周だけは幾度となく屋敷にやって来て相手をしてくれた。
和歌の勝負をしたり、貝合わせのような女の遊びをしたり、ときには宮仕えの仕事の話を聞かせてもくれた。
姫が好きな蛇やとかげ、亀をこっそり持ってきてくれたこともある。
なんとなく、ああ、たぶんこいつと結婚するんだなあ、と姫は考えていた。おそらく両親もそのつもりで彼を招いていたに違いない。
ところが今から一年前、娃瑙姫が十三才の春、あっさりと伊周は別の女性と結婚した。
なんだか失恋とも言い難い、もやもやした気分で胸が満たされてしまい、しばらく疎遠になっていた。それが、最近になってまたしても遊びにやって来るようになったのだ。
いったい、何の用なんだか。
顔を合わせるのも億劫なのに、決まって妻も一緒に牛車に乗せて連れてくるのだ。もうはっきり言って冗談ではない。嫉妬、とは認めたくなかった。
「恐い顔、されてますよ」
紗羅が指摘しても、そう簡単には直せそうにない。
廊下の向こうより、幼い頃から聞き慣れた足音が近づいて来た。
御簾から出ると、そこには伊周がいた。普段着である卯花(うのはな)の狩衣(かりぎぬ)を着ている。
「よう」
手を上げて、挨拶してきた。
「ようっ」
内心の動揺を隠し、姫も同じ仕草で答えた。手の動きが若干ぎこちない。
大人の男に成長した伊周は、ひいき目なしでも凜々しく見える。
力強い眉に、真っ直ぐで迷いのない目。きりっと引き締まった口元。男らしい顔つきのなかに、つい昔の面影を探してしまう。
「なんだ、また増えてないか」
娃瑙姫の部屋は、爬虫類の巣窟だ。そこかしこ、いたるところに蛇やとかげがいる。珍しい海の向こうに住むものまでいた。
「まあねー、でもみんな、可愛い私の子よ」
「お前なあ、そんなこと言ってるから男が寄ってこないんだよ。男から恋文が届いたことあんのか?」
こいつっ……。
剣呑な顔になるのに気づき、扇で隠した。目だけで見やる。
夕顔がちろりと冷たい舌で頬を舐めてくれた。慰めているつもりのようだ。
ありがと。やさしい子ね。
「なあ、媚子(びし)も来てるんだ。また異国の蛇とかとかげを見せて欲しいって言ってたぞ。会って話相手になってやってくれんか」
……無言。
媚子というのは彼の妻の名である。
「沙羅! いないの!? 出掛けるわよ!!」
「おいおい、娃瑙」
夕顔を体に巻き付けると、娃瑙姫はそそくさと自分の部屋を出て行った。
あとには困り顔の男が一人残されていた。
自分でも大人げないとは思う。
けれどこれ以上、あいつの幸せそうな顔を見ていられない。
どかどかと床を踏み鳴らして歩いてゆくと、庭先に沙羅の姿が見えた。娃瑙姫は戸惑う沙羅の首根っこをつかんで牛車に乗り込んだ。
屋敷の中から母の咎める声が飛んでくる。伊周夫妻がせっかく来てくれたのに、なんやらかんやら。聞こえないふりをした。
すーいませ~ん、と心の中でベロを出す。
御者の牛飼いに命じて、娃瑙姫は牛車を天爛の都(てんらんのみやこ)の目抜き通り、白条(はくじょう)通りへと走らせた。
――さて、家を出たはいいが、どこへ行こう。
すでに夕暮れが迫っていた。牛車の簾から西日が差し込んでくる。あーあ、と聞こえよがしに呟いてぐたっと牛車の壁にもたれた。
牛車は乗り心地は悪くないが、遅いのが難点だ。
今の気分としては、思いっ切りかっとばしたい。師匠の識神(しきがみ)に乗せてもらって空を飛んだときは実に気持ちよかった。
横を向くと、沙羅がこっちをジト目で見ている。伊周から逃げたことはお見通しなのだ。
「それで、どこへ行かれるおつもりですか」
「う~ん……」
羞天姫(しゅうてんひめ)のところへは、ついこの間遊びに行ったばかりだ。別に気兼ねする仲ではないが、今は時間が時間だ。夕方から夜にかけて、恋人たちの時間になる。
あのコは、もてもてだからねぇ……。
いつぞやのように男と会っているところに出くわすのは御免だった。
そう考えてみると、この時間帯に出掛けていける場所など限られている。
ふと、先程の思い出から、久しぶりに師匠に挨拶をしようと思い立った。
急ぎ、道を折れ、物を売る市場へと車を進める。萬(まん)の通りから数区画先にお目当ての店があった。宮中御用達の乳製品専門店、その出店である。ここには高価な乳菓子が売っている。
山羊の乳を一日かけて煮込んだ甘味、『蘇(そ)』を五つばかり包んでもらい、都の外れ、『藍の裏(あいのり)』まで牛車をひた走らせた。
蘇はかなりの高級品だが、あの師匠に挨拶に行くのだから、これくらいはしなければいけないだろう。自分だって滅多に口にしない。
手元の蘇を見て思わず、ごくっとつばを飲んだ。
だめ、だめ、とか思いつつも――。
とっても素晴らしく甘い香りが包みから漂ってくるので、娃瑙は我慢できず蘇を一つ口に放り込んでしまった。
舌の上でゆっくりと溶けて、喉の奥や頬の裏にまで濃い甘みが広がる。手土産に手をつけるとは信じ難い非常識だが、それでもこの味覚には逆らえない。
女の子は、甘いものには弱いのよ~。そういう生き物なんだから。
さっきまでの憂鬱な気分がいっぺんに頭から消え去った。
「ね、沙羅もひとつどう?」
「結構です」
この無愛想な侍女は、いつもこうだ。美味しいものを薦めても、決して受け取らない。首を縦に振らない。
聞けば、心に緩みができるから、という理由だった。阿呆らしい。
悪戯心が湧き、娃瑙姫は手元で隠すようにして、そっとひとつ包み紙を広げた。
「あのさ、沙羅、ちょっと相談事があるんだけど。耳貸してくれる?」
「なんでしょう。姫さま」
仕事の話とでも思ったのか、沙羅は真面目な顔でずいっと近づいてきた。
「目、つむって」
「なぜですか」
「い・い・か・ら。姫命令よ」
「はぁ、姫命令ですか」
沙羅が目を瞑り、目論見通り軽く溜息を吐いたとき、娃瑙姫はすかさず蘇を彼女の唇に挟み込んだ。そのまま掌で口腔内へ押す。
「うぐっ!?」
虚を突かれ、目を白黒させる沙羅。
「やたっ!」
勝ち誇る娃瑙姫。
沙羅は口をむごむごさせ、抵抗するような素振りを見せていたが、その内にその目が段々とトロンとし始め、緊張していたほっぺがくにゃりと崩れた。
甘味と言えば、くだものか、あとはせいぜい甘茶蔓の出汁くらいのものしかない。それでも随分と甘いほうだが、とてもとても蘇には敵わない。
蘇の中心部分は一番甘みの濃い場所で、そこだけを別名『醍醐』と言う。物事の真髄を意味する醍醐味の語源となっている。
まさに高級菓子の醍醐味を味わって、沙羅は至福の瞬間に滑って落ちた。
南国の女戦士、ここに陥落。
「ね、ね、おいしいでしょ」
「う、ううう~」
ほっぺを両手で押さえてイヤイヤをするように首を振った。銀髪が一緒に揺れて短く空を切る。それを見て思わず可愛い、と思う娃瑙姫だった。三年近く雇っているのに、彼女のこんな顔は初めて見る。
「これからは、おいしいもの、拒んじゃだめよ」
声にならない声を上げたが、抗議の声ではないように思えた。
まもなく藍の裏に到着する。すでに日は沈み、街々に飾られた行灯がぽんわりと闇の中に滲んでいた。
都の外れにある藍の裏、そのまた外れに、夜禮黎明(やらい・れいめい)の住む家はあった。
都随一の陰陽師が住む家とは思えないほど、意外にも簡素である。
小綺麗にしてはあったが庭木は少なく、戸板や壁は単に切って張ったような感じで何の装飾もされていない。のっぺらぼうのような家だった。
娃瑙姫が夜禮黎明と出会ったのはまだこどもの頃のことだ。
もとはと言えば教育係として父に雇われて屋敷に招かれたのである。つまりは家庭教師であった。そのときはまだ彼の名はあまり世に知られていなかった。強力な陰陽師として名を馳せるのはもう少しあとの話になる。
もちろん、両親は娘に陰陽道を教えようと思って彼を雇ったわけではない。
最初は普通に、和歌や書道、琴などの楽器を教わっていた。この辺りの教養も並外れているのが黎明の常人ではないところだ。
娃瑙姫はいつの頃からか、自分に物を教えている男が異能者であることに勘づいていた。そしてある時、実際に術を使っているところを目撃し、是非とも教えて欲しいと懇願したのだ。
姫は幼い頃から好奇心が強かった。自分の知らないものに対して強烈に心惹かれた。怪しげな術を使う男に何ら恐怖を抱くことなく、ばかりか尊敬の念すら胸に生じていた。
そうして、娃瑙姫は数年間こっそりと黎明から妖術を習ったのだった。
夜禮黎明が陰陽師として名が売れ始めた頃と、妖術を教えていたことが両親にバレて桜井家の屋敷を出禁になったのは同じ頃である。
黎明の家の門前に、ひとつだけぽつん、と明かりが灯っている。
牛車を止めると、いつの間にか明かりの下に童子が立っていた。識神である。いつも同じ顔をしているからすぐ分かる。木や紙を媒介にして創る家来のことだが、実は誰か原型になっている人間がいるらしい。生前の姿をそのまま真似ているのだ。
「こんばんわ。お師匠さま、いらっしゃいます?」
「お久しぶりです、娃瑙姫さま。少々、お待ち下さい」
慇懃に礼をして、童子は下がった。
夜の虫が鳴いている。もう啓蟄は過ぎていた。じきに桜の花も咲くだろう。
戻って来た童子に連れられて、娃瑙姫と沙羅の二人は家の敷地へ入った。じめじめした玄関を通り、暗い廊下を渡る。
居間へ通されると、そこに黎明が肘をついて寝そべっていた。着古してすすけた朽葉(くちば)色の直垂(ひたたれ)を、胸元でだらしなくはだけている。
「姫、実に何ヶ月ぶりだろうか」
「ご無沙汰しております、お師匠さま」
ぼさぼさ頭で、ざっくばらんな喋り方。それが不思議と下品に見えない。
この態度は娃瑙姫に対して気を許している証拠だった。外では肩肘張って都随一の陰陽師のイメージを壊さないよう気を付けているが、このだらけた姿こそ本当の彼であった。
黎明は起き上がり、キセルに葉を詰めて火を付けた。
「で、今日は何の用だね」
「あ、いえ、突然お邪魔して申し訳ありません。ふと、つい思い立って、久方ぶりに師匠のお顔を見たくなりまして」
黎明は、ふ~んという目つきで姫を眺めた。顔を横へ向け、口から煙りをゆっくり吐く。
意図せず、視線を逸らしてしまった。
師匠の前に立つと自分を見透かされる気がする。
姫はたった今思い出したかのように手土産を渡した。五つから三つに減ってしまった蘇の包み紙。静かな部屋に、甘い香りが匂い立った。
「おお、これはこれは。ご丁寧にどうも、姫。ありがたく頂戴しよう」
師匠は一回りも年上とは思えないほど無邪気に乳菓子を取り出し、ぽんぽんぽんと立て続けに口の中へと放り込んでいった。せっかくの高級品、もう少し味わって欲しいと思う。
「こっちは何のもてなしもできんで、悪いな」
「いえいえ、いいんです」
突然、約束(アポ)なしで訪問したのだからしょうがない。
「そう言えば、裳着(もぎ)のお祝いをしてないな。姫、いくつになった」
「数えで十四です。お祝いの品、今からでも遅くないですよ?」
「ふひっ。そういう、姫の遠慮のないとこは好きじゃな。いいだろう、あとで何か贈ろう」
先ほどの識神の童子が茶を煎れて持ってきた。
「最近はよく姫の噂を聞くぞ。先日の宮中での化け物退治も見事成し遂げたそうだな。だいぶ腕前が上がったようで、儂もうれしい」
姫が夜禮黎明から学んだ術とは『むしくり(虫繰り)』と言って、昆虫やクモ、蛇、とかげなど(これらはひっくるめて『虫』と呼ばれた)を自らの眷属にするものである。
幼少時より蛇やとかげが大好きだった姫にはうってつけの術だった。一方で、残念ながら識神を始めとする本来の陰陽道はあまり身につかなかった。
「それにしても、こんなすごい蛇を手に入れるとはのう。たいしたもんだ」
黎明は姫の体に絡んでいる夕顔の短い小さな手を、ぴこぴこと摘まんだ。
夕顔のほうは彼の指を掴もうと手を広げてぱたぱた動かすも、指先がかするにとどまる。
「しかし、これは……蛇と言ってよいのか……」
後ろで侍女が、聞こえるかどうかの声で「ながい、とかげです」とぼそっと呟いた。
確かに手足のある蛇は変だ。それは姫も分かる。
けれど長いこと蛇に触れてきた姫だからこそ、これはとかげではなく蛇だと断言できた。蛇としての特徴を多く持っているのだ。
獲物を食べるときは顎を外して丸呑みし、肋骨で砕いて消化する。動くときは蛇腹の鱗で這って進む。顎の先端に二本長い牙が生えており、ここから毒が出る。
「夕顔は、れっきとした蛇です。師匠」
「わかったわかった。で、どの層まで契約した? まさか最後までいっとらんだろうな」
「しました」
「そうか、したのか。なにっ、した?」
『虫繰り』に限らず眷属と契約する場合、言い交わす条件に階層(レベル)がある。
低い階層では簡単な命令を聞くようになるだけだが、階層が高くなるにつれて感覚の共有や意識の交換など、強力で危険なものになっていく。
「姫、いかんと言ったではないか。蛇女になるつもりか? もしくはとかげ女に」
「大丈夫ですって。そんな事態、そうそうないですって」
最終階層まで契約すると、意思疎通(コミュニケーション)が明瞭に行えるようになって、とっても便利なのだ。ちなみに姫が最後まで契約しているのは大蛇の夕顔だけである。
黎明は参ったなあという表情を浮かべ、がしがしと頭を掻いた。
「ふぅむ。姫は昔から恐いもん知らずでいかん。こりゃ、護衛がしっかりしてくれんと。そっちの娘、腕前はたしかなのか。どうなのだ?」
沙羅と黎明はあまり面識がない。沙羅は姫の護衛で間違いないが、しかして一般的に護衛とは屈強な男と相場が決まっている。一見華奢に見える線の細いおなごに護衛が務まると思えないのも無理はなかった。
おまけに沙羅は倭の国にはない、褐色の肌に銀色の髪を持っている。これが偏見を産む。
残念ながら夜禮黎明はちょっと古い考えをするタイプの人間であった。
「どう、とは」
沙羅が短い返事をした。ぶっきらぼうだ。
「腕が立つかどうか、と聞いている」
「試してみればいい」
「ほ」
ありゃりゃ。
娃瑙姫は急に部屋の空気が冷たくなったのを感じた。
師匠はいい大人のくせしてひどく負けず嫌いで、挑発を受け流せない性格をしている。
一方沙羅のほうはというと、こちらも言い合いやケンカとなれば一歩も引かない。
この娘はもともと遙か南にあるという、熱い空を仰いで浮かぶ島の出身で、話す言葉も違っていたらしい。それがどこをどう巡ってこの天爛の都まで来たかは知らないが、初めて会ったときは荒くれ者の集団のなかで男のように振る舞っていた。
当然、気性も激しくなるわけである。
娃瑙は取り返しがつかなくなる前に話を収拾したかった。
が、すでに手遅れのようだった。二人は目線を決して離さず、睨み合っている。
信じらんない。あれだけしか、受け答えしてないのに……。
師匠へのご挨拶が、伊周からの逃避が、どういうわけかおかしな方向へ迷入し始めた。
「腕前を見てやろう。ちょっと儂へ切りつけてみよ」
「無意味な殺生はしない」
「大丈夫だ。そこらの剣士では傷ひとつ付けられんよ」
沙羅のまなじりが一瞬ぴくりと痙攣した。
怒っている。誇りを傷つけられたのだろう。
行きに牛車の中で見せた、溶けて締まりのなくなった顔とは別人のようだ。
ああ、この娘にそんなこと言ったら、ほんとにやってしまうわ。
いざとなれば夕顔に命じて沙羅を止めるつもりでいた。計算外だったのは沙羅がもう行動に移していたことだった。気が短いにもほどがある。
「はっ!!」
気合いの声とともに、黎明に向かって跳躍した。自慢の二本の短刀を彼の顔めがけて交互に振り下ろす。黎明の顔は和紙のようにびりっと破れた。
「おお、見事な太刀筋」
驚いたのは沙羅のほうだった。
ぱきり。
乾いた音を出して、持っていた短刀が一本折れた。
折れて、木の床にとすっと刺さる。
「あっ、あああっ、刀がっ」
さっきまでの威勢はどこへやら、「かたながあぁ~」と情けない声を漏らしてへたり込んだ。
「まあまあ、慌てなさんな。お嬢さん」
引き裂かれた顔のまま、黎明は喋っている。
吹き込んだ風が、破れた顔をたなびかせた。紙に描かれた顔のように、風に揺れるたびに変な顔になる。
娃瑙姫にはその顔が、なんだか笑っているようにも見えた。
黎明の体がぱたりと崩れて消えた。
あとには薄い古びて黄ばんだ紙と、木の棒が三本。
あれは、身代わりの識神?
はっと気付けば、黎明はいつの間にか沙羅の間合いに立っている。折れた刀身を床から拾い、沙羅の左手にある片割れにくっつけた。
「ほれ、元通り」
折れたはずの刀が繋がった。折れた痕跡もない。
沙羅はきつねにつままれたような顔をして、両手の短刀を見比べていた。
娃瑙姫には師匠が何をしたのか全く見極められなかった。
おそらく幻術なのだろうが、どこまでが実で、どこからが虚か分からない。
刀は本当に折れたのだろうか。それとも折れたように見えただけで実際は折れていないのだろうか。
「いや、おっそろしく乱暴な娘っこだな。切れと言われて本当にやるか? 冗談の通じん奴だ。儂だったから良かったものを、ほかの人間だったら死んでたかもしれんのだぞ? ちょっとお仕置きしとこう」
黎明は内庭と隔てる壁に近づくと、壁の割れ目から蔦を伸ばしていた月下草に手を伸ばした。月夜の霊気を受けて咲く青い花を一輪摘まむ。
それを手のひらに置いてふっと息を吹きかけると、宙を行ったり来たりを繰り返しながら沙羅の頭に狙い澄ましたかのようにふんわりと乗った。
「あら、お花乗っけて、かーわいい」
娃瑙姫がからかって褒めたのと同時だった。
沙羅は短い悲鳴を上げて、そのままうつ伏せに倒れ込んだ。
「どうしたの、沙羅ちゃん」
「姫さま、う、動けません。濡れた毛布にくるまれているみたい……。きゅう……」
腕自慢もこうなっては形無しだった。娃瑙姫は苦笑した。
「すみません、師匠。うちの雇い人が粗忽もので」
「いやいや、まあ腕前は分かったから別にいい」
「師匠にいきなり斬りかかるとか、まったく、あとできつくお灸を据えてやります」
「まあまあ、許してやれ。今儂がこうしてお仕置きしておるのだから」
「少々、胸が大きいからと言って調子に乗りすぎなのです」
「剣の腕の話だったはずでは?」
「ひ、ひ・め・さ・まぁっ?」
「剣の話よ、沙羅ちゃん。いっつも思ってたの。刀振るときえらく揺れてるけど、重くないの」
「何の話をしてやがりますかっ!」
「儂が思うに、あれで上手く重心を移動させているのだろ」
「うぎぎ……」
あー、沙羅をいじるの楽しい。
ひしゃげて動けずにいる沙羅の袂に座り込み、いつもは触らしてくれない銀色の輝く髪を思いっきり堪能したのだった。
「私のことは心配無用ですよ。沙羅ちゃんだけでなく、夕顔たちもいますし」
たとえ最後まで契約しても、要は命に関わるような事態にならなければいいのだ。そりゃ自分だって人の身を捨てたくはない。まだまだ人生これからだ。
「それよりご自分はどうなんです? なんかその、いろいろ大変そうですけど」
黎明は陰陽師として貴族や金持ちに引っ張りだこである。自然、しがらみは増える。娃瑙は師匠が面倒ごとに巻き込まれた話をチラホラ聞く。
「ああ、大変だよ、まったく。『むーむー』のグチを聞いてやったり、護霊の帝(ごりょうのみかど)の恋バナの相談をしたり」
「むっ、むーむー、って」
たぶん、先の太政大臣の望月宗形(もちづき・むなかた)のことだろう。今はちょっと落ち目だが、元・最高権力者だ。三高家の当主でもある。
それを「むーむー」呼ばわりとは。
それに、護霊の帝の恋愛相談とか、師匠は娃瑙姫の想像よりもずっと深く権力の中枢に関わっているようだ。しかしそれでは……。
「それでは、敵も多いんじゃあないですか」
「ん? まあな。玻璃磨のクソ坊主とか燕角のガキんちょとか、よくちょっかい出してくる。あと普通に刺客が殺しに来るぞ。かかか、もう飽きたがな」
「えっ、うそ。こんなボロ屋に住んでて、大丈夫なんですか?」
警備もいないのに。よくも今まで無事に暮らしてきたものだと感心する。
「ボロってはっきり言うな。これでも気に入っとる。誰も巻き込まんようにするには、こういう場所がいいのだ。だいたい、襲われるときはどこにいても襲われる」
不安な気持ちはぬぐえないまま、手はいまだに沙羅の髪をわしゃわしゃしていると、「名が売れるとはそういうことだ。他人事ではないぞ。『へびとかげの君』に目を付けてる奴らもきっとおる」と師匠は警告をしてきた。
「え~、脅かさないでください」
ふと、黎明は飄々とした態度から打って変わり、急に真面目な顔になった。
「いや脅しではない。う~~む、話そうかどうか迷っていたが、今夜来てくれたのも天の配剤かもしれん。実はな、姫に伝えておきたいことがあったのだ」
黎明はそう前置きをしてからこんな話をした。
先日のこと、手遊びに占いをしていたら娃瑙姫に苦難が訪れると出たらしい。
黎明の読みでは、おそらく政(まつりごと)に関わるものだろう、とのことだ。
「ここだけの話だが、ほどなく東国から大事な客人がこの都に来ることになっておる。やんごとなき方だ。それで高官たちはいろいろ策謀しておるようだぞ。おかけで今、宮中はちょっとばかり政情不安定だ」
「はあ、せいじょうふあんてい、ですか」
娃瑙姫は政治のこととか、経済のこととか、まったくと言っていいほど興味がない。
ただ、父から話を聞いてまったく事情を知らないわけでもなかった。話を聞いて思うのは、政治の世界って恐いなあ、という漠然とした感想である。
「って言うか、勝手に人のこと、占わないでください」
「よいではないか。危険を未然に防ぐことができるかもしれんのだから。むしろ感謝せい」
むぅ。姫はぶすっとした。
まつりごとに巻き込まれての苦難かあ。あんまりピンとこないなぁ。
まあ、いいわ。なるようになるでしょ。
「それで、その客人って誰なんです?」
そこだけには興味がある。娃瑙の勘ではたぶん、女の人だ。
「東国って、まさかひょっとして、『不二(ふじ)の都』の……」
口にしかけたとき、家の外でがたんと何かが倒れる音がした。
何人かが話す声もする。
「ふん、また誰ぞ来おった」
答えるより先に黎明は沙羅の拘束を解いた。頭から青い花をつまみあげる。
「さっき話しただろ。儂目当ての連中だ。今日はもういいから、お前たちは裏手から帰れ」
「師匠目当て? ああ……なるほど」
おそらく、刺客がやって来たのだ。
「いつものことだ。あんなの、ちょちょいの、ちょいだ。たいしたことない」
ちょっと考えてから、娃瑙姫は鼻息荒く、胸を張った。
「うん、師匠。私にお任せください。ほら、沙羅ちゃんも。無礼を働いた罰よ」
「ん? そうか? ほうほう、姫がそう言ってくれるなら、じゃあお願いしようかな」
意外にも黎明は、弟子の申し出を簡単に受けた。
「おぬしも、よろしくな」
沙羅ににこやかに話しかけると、無礼な侍女はぷいっとそっぽを向いた。
玄関に出るとちょうど男たちと出くわした。皆、刀や弓など思い思いの武装をしている。
門のほうへ目線を向けると、識神の童子が真っ二つになって倒れていた。たとえ命無きものと言えど、このような扱いをされるのは見るに堪えない。
「そこの女、ここの主人は在宅か」
先頭にいる男が、殺気を押し殺して話しかけてきた。
娃瑙姫の体には大きな蛇、夕顔が巻き付いている。いくら夜で暗くても相手側に見えないはずはない。それなのに男たちは一向に気にする素振りがなかった。陰陽師を襲うだけあってこの刺客たちも魔物や妖術には慣れているのかもしれない。
ふ~ん、なかなかやりそうね。えーん…………どうしよ。
少し気後れしたが、今さら仕方がない。姫は沙羅に目配せした。
「狼藉者ども! このまま大人しく帰るならよし。然もなくば命の保証はしないぞっ!」
かっこつけて言ってみた。貴族の女性らしく、せいいっぱい背筋を伸ばして毅然とした態度で言い放ってみた。
男たちは殺気をまとった目付きを変えないまま、刀を構えた。後ろには弓に矢を番えるものもいる。どうやら娃瑙姫の言葉を聞く気はないようだ。
邪魔する者に対しては女と言えど容赦しない、そんな様子がうかがえる。
それを見て沙羅が即座に動いた。さすがである。地面すれすれを滑るように進んで一閃、二閃、短刀を振るった。
ほぼ同時に生じた男たちの悲鳴が、野太いわりになぜか可愛らしく聞こえる。
矢が数本飛んできたが、大蛇の夕顔の尻尾でペシリとはたかれて地に落ちた。
姫は内心の安堵をひた隠して冷静を装い、侍女の仕事ぶりを見て、うむ、と感嘆した。
「さあっすが、沙羅ちゃん。それに、よく心得てるぅ」
肘で沙羅のおっぱいをこづく。
「ひゃんっ、やめてください。一応、姫さまの師に当たる方のお庭を、血で汚すわけにはいきませんから」
「嬉しいわ。こころが、通じあってるのね」
「そうではありません」
さっき命の保証はしないと叫んだのはただのはったりだ。姫とて人を殺めるのはいやだ。沙羅はその辺の気持ちをちゃんと汲んでくれたのだ。
「以心伝心ね」
「ではありません」
だが、つれない女子だった。
襲ってきた男たちは袴の裾をたくし上げて、ずり落ちないよう必死で押さえている。沙羅の攻撃で腰紐を切られてしまっていた。
袴が落ちて、ふんどしが丸見えである。
しかし男たちの悲鳴は恥ずかしさだけが理由ではなかった。
一人だけ、さっき話しかけてきた先頭の男が、夕顔にバックリと呑まれていた。
と言っても完全に胃袋に収まってしまったわけではない。上半身だけつるっといかれて、寸止めの状態である。かろうじて両手がこの大蛇の口の端からのぞいている。
ちなみに毒牙は折り畳みできる仕様になっている。幸い、噛まれてはいないようだ。
「ふぐーっ、うううーっ」
男は足をばたつかせてもがいている。降参(ギブアップ)を訴えて、口からはみ出た手でぱんぱんと夕顔の頬を叩き続けている。くぐもった悲鳴が、夕顔の首(どの辺からが首かは知らないけど)から聞こえている。
残りの暴漢たちは顔面蒼白になっていた。その恐怖の形相も、袴を落ちないように手で押さえていてはサマにならない。
「命だけは勘弁してあげるわ。雇い主は誰、とか聞かないから」
男たちがうんうん、と首を縦に振った。
「今夜はもう帰ってね」
それを理解したのか、夕顔は呑み込んでいた男の体をぺいっと吐きだした。
可哀想なほどに血の気の失せた男は、腰が砕けてへたり込んでいる。髪の毛がちょっと溶けているのが何気に恐い。
その男を無理に立たせ、襲撃者たちはほうほうの体で逃げ去っていった。
「あとをつけましょうか」
「別にいいわよ」
それにしても、こんなことが日常茶飯事なのだろうか。
平然と暮らしている師匠、夜禮黎明とは底知れない人物だと娃瑙姫は思った。
数日後、娃瑙のもとに師匠から遅い裳着(女性の成人の儀)のお祝いが届いた。
宝石の原石に陰陽道の細工を施したものだった。
瑠璃と琥珀の一組(セット)。
御守りであると同時に、強力な妖術の火種でもある。大変、貴重な品である。
危険なことを平気でしかねない弟子のことを慮っての贈り物だった。
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