第5話


「歴史的価値の薄い凧、貸して下さい!」


「それ、この建物の中でかなり相応しくない言葉だって、静佳ちゃん」



 学芸員・広瀬さんは館長さんを呼んでくれて、あふれはみ出している私物蔵の中に分け入った館長さんは、三十分後にほんとに価値のなさげな和凧をつかんで生還を果たした。


 その偉大なる功績に気付きもせずに、修平ときやがったら、


「上がるのか? これ」


 ときた。


「立派に凧だよ。描いてあるの鳶ね、鳶。凧って中国から伝わったもんで、平安時代より前なんだって。紙鳶。紙の鳶って描いて紙鳶」


 しかし実はこの台詞、博物館で私は危ういところで飲み込んだけど、館長さんには見抜かれていたんだと思う、たぶん。


 濁すみたいに滔々と、凧の由来について語り始めた。借りておいてケチはつけないのに。心配しなくたって。


 気になるのは、本当のところ価値は本当にないのかと言うところ。


 まぁ、館長さんは根っからこの町育ちの人で、修平のことも良くご存知だから、この男に渡して万のうち千くらいの可能性、わかっているんだと信じよう。


「鳶……っつーかこれ、カラスに見えるぞ。町ガラス」


「描いた人が鳶って言い残してんだから」


「それで死んだりして?」


「その言い残すじゃない」


 まったくすぐに殺したがるんだから。


「カラスだって空飛ぶでしょーが、鳥なだけマシ。もう明日でホントぎりぎりなんだよ、絵なんてなんだっていいんだよ」


「飛べばな」


「飛ぶんだってば。腕次第かもだけどね」


「挑戦だな」


「そうともさ」


 と言うよりは挑発だろう。修平はころりとこんなものに弱くて、また今も簡単にムキになっていた。


 凧を上げられないことには、実験は成功に漕ぎ着けないわけだけど、頭でちょっとは私は、杵柄の感覚がなくなっちゃってたら面白い、そんなことも考えてしまっていた。あはは。


「そいじゃ明日。ちゃんと起きてね」


「おーう。天気になるの祈っとけ」


 そらつまり晴れなかったらどうなるってことなんだね、修平君よ。


 自然の動きを止めようもないけど、去った太陽が恨めしい。都合として明るくなくては実験は成り立たないために、この時間かつかつのところで明日に持ち越すしかなくなった。


 そうとも。陽はまた昇ると決まってる。だけどそれなら沈むなよとか、私は自然の親玉みたいなものに説教の一つもたれたい気持ちを抱え、手には今夜いたずらされて壊されることのないように回収してきた凧を抱え、西野さんちの門を閉めた。


 おっととと。


 一歩踏み出した足を、結構あわてて引き戻す。狭い道に歩道なんてない、いきなり車道。今ドラマの中で命狙われる人みたいに、すごい光に照らされたよ、私。


 そのまま行き過ぎるはずの車はスピードを落とし、角の一時停止でぴたりと止まった。


 こんな夜更けにこんな住宅地で、正しく法規を守る人だなぁ、なんて思ったのは一瞬で、私にしては良く気がついた。あれは身内の愛車じゃないですか。


 近付くべき? 行ってみると、するすると窓が開いた。基本的に不機嫌そうな、兄上の顔が現れる。


「出かけるの? お兄ちゃん」


「飛び出すな」


 ばちん、という音は私の目の上が鳴らしたのである。外灯と街灯と車のライトって光量で、狙い見事なお兄ちゃんの逆手。


 痛いでしょう、これ。どれくらい痛いと思わせたのか、兄ちゃんちゃんとわかってる?


「おまえ訪ねて男が来たぞ。ササキ」


 はい?


「通した方が良かったか? 日常ぶっとばしてるとこだと思って帰した後で気がついた」


 おでこ叩くために窓を開けたわけじゃなかったのか。叱るための労力は惜しまない人だから、てっきりそうだと決めていました。


「いい。全然知らない同じ学校の人なんだよ。なんか出てくるんだけど、なんの用なんだろ。学校でって言ったのに」


「電話番号、電話の横のメモにあるから、かけてやったら?」


「なんでそんなの」


「置いてったから」


「いいよ月曜で。用ないもん」


 月曜だって、私の方にはないんだけどさ。


 でもいいかげん聞いてあげなくては鬼だろう。なんとなく、故意にとことん避けてしまいたい気持ちが覗いているけれど、これは追われたら『つい』逃げるという、例の人間心理ってやつなのね。


 そんなことを納得している場合からはほど遠い。


 何も言わないまま車も動かさないお兄ちゃんの沈黙が語ることに、かなり数々の手順を踏んで考える。私はやっと理解した。うぉっ、叫ぶ価値アリ。


「ち、違うよ?! 彼氏とかじゃないよ」


「誰がそんなこと言ってんだ?」


 言って……言って……、そりゃ言葉には。


「言ってません。誰も」


 空間埋め尽くすみたいな息の吐き方しなくても。お兄ちゃんの気持ちが充満して、車そのものが鬱陶しいものと化した感じ。こりゃまた大きく膨れたものだ。


 ブレーキペダルから足を浮かせ、アクセルをきゅうと踏み込む。安全確認は忘れてなかったけど、速度超過は必至であった。


「いってらっしゃいませ」


 深く深く頭を下げて、私は車を見送った。バックミラーに写ってても、もう見ちゃいないと思うけど、ハズレを思いきり言ってしまった自分の気分としては、なんだかこれがいいような気がしたのだ。


 家に入ると廊下右手に、サザエさんちみたいに電話台の上に電話が載っている。メモはきちんと置いてあった。


 ノートの切れ端にボールペンで、絶対に同じだってのにご丁寧に市外局番から書いてある。


「汚くない字。なんか腹立つ」


 声に出して言ってみたら、ちょっとすっきりした気持ちになった。あんたのせいやねん、佐々木。とそんなことを次には思う。


 微妙な年齢の私とお兄ちゃんは、互いの色恋には発言権を持たないことを定めるのすら暗黙なくらい、シャイな二人きりの兄妹なんだよ、佐々木。


 メモを丸めてゴミに決定させてから、気が付いた。リビングへの扉を開けかけた右手と、電気のスイッチに伸ばした左手が動くのを止める。


 なにこれ。ほんとにまさか色恋沙汰?


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