貴方の今の色は──

櫻葉月咲

太陽みたいな温かい色

「じゃあ行ってくるね」

「ん……行ってらっしゃい」


 六花りっかは名残惜しそうに玄関に立つ昌人まさとに手を振った。


「そんな顔しなくてもいいのに」


 たかだか一週間だよ、と六花は続ける。


 六花は今日から出張で、いつもより出るのが少し遅れていた。


 それは昌人と少しでも長くいるためなのだが、その人は段々と嫌な表情を隠さなくなった。


 今にも泣き出して引き止めて来そうな顔は、昌人には悪いが可愛らしい。


(あともう少しなら大丈夫かな)


 六花が小さく溜め息を吐いて口を開こうとした時だ、『それ』が視えたのは。


【早く行ってくれない?】


 ふわふわとした青い毛玉のようなものが、ぱくぱくと小さな口を動かしていたのだ。


「っ」


 ひくりと六花の表情が引き攣る。


「……そうだけど、六花と一週間も会えないの久々だからさ。駄目だな、俺」


 昌人の表情は先程よりも幾分か和らいでいたが、それでも六花は震えが止まらなかった。


(その色は、もう──)


 六花の中で何かが崩れる音がしたのが分かる。


 ここにいては辛いだけだ、早く玄関のドアを開けろ、と頭の中は何度も同じ言葉が繰り返されていた。


「あ、じゃあ、……行くね。また、連絡するから」

「分かった」


 逃げるようにマンションを飛び出し、しばらく見慣れた街並みを歩くと早かった鼓動も落ち着いていた。


「なんで、あんな色で……あんな、本音」


 トクトクとまだ早い心臓に気付かないふりをし、六花は懸命に脚を動かす。


 六花は幼い頃から様々な色をした毛玉のような、不思議なものが視える。


 なぜ視えるのかは家族はおろか、誰にも相談した事がない。

 あっても気味悪がられ、表面上では普通でも避けられるのが目に見えているからだ。


 毛玉の色は言わば相手の深層心理で、本音だ。

 青くどんよりとした色は『やっと解放された』というニュアンスがほとんどで、あまりいい印象は無い。


 色々な言葉がとめどなく周囲を飛び交っていても、六花にはその裏まで分かってしまう。


 嫌な気持ちになる本音を視る事も数多あったが、社会を経験した今はある程度の対処が出来るようになり、人との関わりを見直すようになった。


 ただ、気を許した人間から突き放すような本音が視えてしまうと、落ち込むのは仕方ない。


 付き合った恋人に対してもそうだったが、昌人から嫌われるのは今までの誰よりも嫌だった。


 それほど六花は昌人の事が好きで、逆も然りと思っていたのに。


(仕事で、って分かってくれてるはずだけど……そんなに私といたくなかったんだ)


 今頃六花がいなくなって喜んでいるであろう昌人を思うと、泣きたくもないのに涙が浮かぶ。


(考えても仕方ない。……切り替えないと)


 このまま鬱々とした気持ちでは、周囲に迷惑を掛けてしまう事は明白だ。

 六花は深呼吸し、心を落ち着ける。


 付き合って三年目になった今、ちまたで言う倦怠期に突入したと思えばいい。


 ただ、出張から帰ったら覚悟しなければならないな、と六花は小さく溜め息を吐いた。




 ◆◆◆




 終始仕事に専念し、昌人にはある程度の連絡だけに留め、こちらからメッセージを送らないで今日になった。


 心配する言葉もあったが、そこは相手も大人だ。


 昌人とはあまりやり取りをすることもなく、六花は帰路についていた。


(どうしよう、帰るのが怖い)


 これから何を言われるか、考えるだけでキリキリと胃が痛む。

 しかし脚はしっかりとマンションまでの道を歩いており、もうあとには戻れない、と六花は覚悟を決めるしかなかった。


「……ただいま」


 鬱々とした気持ちの中、二人で暮らしているマンションの部屋のドアを開ける。


「おかえりー!」


 文字通り昌人が飛び跳ねるように迎えてくれ、弾けんばかりの笑顔で六花に手を広げた。


「……あれ、来ないの?」


 ハグは、と子供のように拗ねた口調で昌人が言う。

 昌人の背後に浮かぶ毛玉は薄い桃色で、何かを言うこともなくやや怒った顔をしていた。


「ううん。会いたかった」


 六花は昌人の腕の中に飛び込んだ。

 すぐさま強い力で抱き締められ、少し苦しい。


(でも……あとちょっとでこういう事も終わるんだ)


 温かいぬくもりに触れると、身体は多幸感でいっぱいなのに心は逆に冷静になっていく。

 その事が何よりも悲しく、苦しかった。


「夕飯作ってるから手洗ってきて」

「……うん」


 昌人の顔を──背後の毛玉を見るのが嫌で、六花はやや俯きがちに頷いた。


 手を洗い終わって洗面所からリビングへ向かうと、ふんわりと食欲を刺激する匂いが鼻腔をくすぐる。


「いい匂い……」


 六花は無意識に口にする。


「だろ? 今日帰ってくるし、沢山作って待ってたんだ」


 温めるだけだから六花は座ってて、とキッチンに立つ昌人がにこやかに言う。


 一週間の出張から帰ってきて恋人が夕飯を作ってくれている、本来ならば喜ばしいシチュエーションだ。


 しかし六花はどうしても素直に喜べなかった。


(いつ、別れるんだろう)


 一度でも自身に対して否定的な本音、それも『別れたい』と相手が思うようなものを視てしまっては、何も知らないふりをする方が無理な話だ。


 今は笑っているが、そう遠くないうちに仮面が剥がれて豹変する──六花はそれを嫌というほど知っていた。


 本気で好きになった相手に突き放されるなど、これきりでいい。


「できたよー」


 昌人がさも上機嫌な声音で料理を運んでくれる。


 生ハムとチーズのカプレーゼから始まり、沢山の一口サイズのハンバーグ、同じく一口サイズのピザ。魚介スープにサラダ、といった食べ切れるか分からないほどの料理がテーブルに置かれていく。


(こうして作ってくれるのもあとどれくらいかな)


 並べられているのを見つめているうちに、じんわりと涙腺が緩む。

 気分が落ちてしまうのはきっと疲れているからで、一度寝れば治る。


 そう己に言い聞かせ、今泣いては駄目だと頭ではどんなに分かっていても、意志とは裏腹に涙が零れそうになった。


「──これで最後」


 六花が緩く顔を上げると同時に料理が置かれ、『それ』に書かれている言葉に目を瞬かせる。


『Will you merry me』


「え、これ」


 六花は何度も目を瞬かせ、ぽそりと口にする。


「私、に……?」

「意味、分かる?」


 向かいに座った昌人の耳が、ほんのりと赤く染まっていた。


 あまり照れた表情を見せない昌人は貴重で、それに呼応するようにして背後の毛玉の色は鮮やかな赤色だ。


【早く答えて】


 毛玉がいつもより更に小さく口を動かしていた。


【焦りすぎたかな】


 六花が黙ってしまったからか、毛玉の色が段々と青くなる。

 薄い水色になったそれは自信なさげに自慢の毛をしぼませている。


「っ、本当に私で……私でいいの?」


 昌人の態度も、背後の『本音』も信じられず、六花は震える声で言った。


「あの日から、サプライズしようってずっと考えてたんだけど──六花の返事は?」


 やや呆れた声で昌人がこちらにやって来て、六花の前に膝を突くと頬に手を添えられた。


「俺と一緒になるのは嫌?」


 蕩けるように甘く、それ以上に幸せな言葉を言われるなど、一週間前の自分はきっと想像していない。


 悩んでいたのが馬鹿だと思うほど、六花は己の浅はかな考えを恥じた。

 自分の恋愛観だけで勝手に決めつけ、勝手に身構えた結果はこれだったのだ。


 それはとても甘美で、六花の想像を優に超えてきたのだが。


「……じゃ、ない」

「うん?」


 もう少しはっきり言って、と昌人が言う。


 分かりきっている事を六花に言わせようとしてくるのは、少し意地悪だと思う。


「嫌じゃない。……昌人と、ずっと、一緒にいたい」


 つっかえながらも六花はなんとかそれだけを口にする。


 悲しさから来るはずだった涙は嬉し涙に変わり、それは後から後から溢れて止まらず、視界はぼやけてしまっている。


 しかし、昌人のとびきりの微笑みだけはしっかりと分かった。


(でも、いつか『視える』ことを言わないといけない)


 普通ならば気味悪がられる事だが、昌人はすべてを受け入れてくれるだろう。


 昌人とならこれからの将来、手を取り合って歩んで行ける──そうした確信が六花にはあった。


 これほど六花のことを想ってくれ、この人となら幸せな未来を築いていけると思える相手はそういない。


「昌人」


 頬を伝う涙を何度も拭ってくれている手を取り、六花は心を込めて唇に言葉を乗せる。


「私を昌人のお嫁さんにしてください」


 ──貴方となら、どんなことがあっても乗り越えられると思うから。

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