第28話 椅子に座れない男⑦

「え、ああ、そうです。近いんですよ、誕生日。忘れていましたが、私と一日違いでした。でも、どうしてそんなこと、わかるんですか…」


「ええ、おそらく、かもしれない…と」


「すごいですね、思い出しました。唯一と言っていいほど信じられる人だったんですよ、一緒に居たあの頃の自分にとっては。お互いの誕生日も、遅くまで一緒にいましたから。二日連続てことですね。ははっ。いま考えると恋人みたいっすね。ははっ」

 慎一は力が抜けたように笑った。


「きっと、元々の日常の中での積み重ねていたものによって、それぞれが見ていたものが違っていたのだと思います。でも、その時期に見ていたもの、それは…、二人とも似ていた。でも同じような体験をしている中で見え方が違っていた。受け取った意味が違っていた…そういうこともあるのではないでしょうか…」


「え…?」

 慎一には何のことだかはわからなかった。けれど心は急いでいた。理解したい、そう思ったのだ。後から後から追いかけるように、思い出せる範囲で七色の言っていたことをゆっくりと自分の中で反芻していた。


「その時、同じようなものを見ていた可能性があるでしょう。一人は正面から出くわしていた。だとしたらもう一人は側面から見ていた。それもその年、その時期にしか出くわすことのないものだったのかもしれないと、思います」


「あ、それ…は、あの木の側のベンチでの、ってことですよね」


「ええ、それも、そうです」


「私は、あの時、出会っていたものが怖くなかった、あいつはただただ怖かった…と…」


「ええ。その方は、慎一さんが自分とは違う世界に居る人に見えてしまったのかもしれません。いえ、もっと前の子供の時からそれは感じていたのかもしれません。ですが、その日の目撃は彼にとって、どうしようもなく決定的だった…のかもしれません」


「だとしたら…だとしたら、私から離れていってしまった理由…って」


「言葉には出来ないっていうか、何を言えばいいかわからなかったのかもしれません。でも、もう一緒に居るっていうことが難しくなってしまった、のかもしれません」


「あぁ…負い目があったんでしょうか…。私から黙って離れていって、さらに、私からあの場所を奪って、そのまま私を今度は本当に置いていってしまった…。黙ったままで。二度と会えないんですよ。なんで声かけてくれなかったんだよ…」


「出くわしてしまった不思議な存在というのは、同じかどうかはわかりませんが、二人にしか見えていなかったのかもしれません。二人だけが同じ時期に、そういうものと出会う体験をしていて、二人だけが見ていたことなのかもしれません」


「そんなこと…が」


「ええ、あります。時に…」


「私は一人で居るのは好きでした。いつも本を読んでいました。本の世界に随分助けられて来たんです。私が思う以上に、彼は寂しい毎日だったんでしょうか…、だとしたら、あいつのことわかってなどいなかった…。私はずっと一人、で一人じゃ無かったっていうか、だから毎日平気で居たのかもしれません。あいつは、私より強いヤツだってずっと思ってたんです。あいつのことより、私は、今日の今日まで、自分がされたと思っていることばかりを…気にして…」


「その時に、うまく言えないことって…きっとあります」


「もしかして…あいつ。寂しかったのかもしれないです。ずっと本当は独りで。さよならも言わずに行ってしまった…。だとしたら、なんだよ、あいつ。やっぱり変わってなんか無い。私が知ってるあいつのままじゃないか…っ、じゃぁ、あの時のことも、あいつが犯人じゃ無かったっていうことも…」


「少なくとも意図的では無かったのかもしれません。全てにおいて、そうだった、ではなくて、そうかもしれない、ということにはなりますが…」


 やがて話し終えたのだろう、慎一は静かになっていった。


 到着する予定だった場所に到着したかのように連打されていた言葉は終わっていった。静かな書房の中で、もうぬるくなっているお茶を飲んで、涙を堪えるかのように空中を見ていた。


「映画を観ているかのような、そこに本当に存在しているかのような、体験でした」


 出現していた過去の物語のエネルギーは少しずつその存在を薄くしていった。


 七色はいくつかの言葉によって境目を作った。過去のエネルギーが徐々に消失し、今ここにいるという状態であることを確認して、七色は慎一の今現在の話に戻していった。


「今日のお洋服は…いつも?」


「あ、…実はですね、というのがまだありまして…」

 慎一は肩を揺らしてスーツを整え、座り直して腕時計を見る。ネクタイを確認して軽く締め直している。


「はい? なんでしょうか…」


 「実は、今から面接なんです。このすぐ近くの会社で」


「そうだったんですね!」


 「長い間わからなかったことが、わかった気がするんで、なんか、違う感じです」


 慎一は続けた。


「私は居ていいんですね。居なくなれって、言われ続けてきてるわけじゃないんですね。クビになったあの時も、座っていられなかった。お前がそこにいるのはまちがってるって、言われる、また言われると思って怖れていたんだと、わかりました。上司は、いや誰もがわからなかったんですね、私のこと。あの時の先生じゃ無いんだから、不思議、いえ、挙動不審に見えていたってことなんですね。立ったり座ったりを繰り返して、なかなか事務所に帰ろうとしなかったり。そうか…そうだったんですね…。あのことがここに繋がっていたなんて、まさか」


 怯えるがあまり、それを見ていた方がより怯えるようなことを言いたくなる、という連鎖だろうか。避けたいことなのに追いかけてくるという、あまりに痛い話ではあるが、私たちが無自覚に行動している日常でも、これは多く発生していることでもあるだろう。

 私たちは、そう見える、そう聞こえる、というものに無自覚に脅かされていることがある。それらは過去の体験によっての感情から、そうなったのだ。私たちは感情体験を頭だけじゃ無く、身体全体で記憶してしまうのだ。

 七色は地上生活をしている人間の多くの場合の仕様について話していた。


 「座っていいんですね、私は椅子に」


 「ええ、ええ、ええ」


「私も、あいつも、あの頃の皆も、先生も、誰もがちゃんとなんかしていなかったんですね。正しくなんか無かった。上手く表現も出来なかった。相手のことなんか見えてなかったし考えてもいなかった。自分の立場だけを守っていたかった。今も皆、誰もがそうなのかもしれない…そう思います」


「現場での練習は要ると思いますが、大きな原因の一つにはもう到着しているようですよ」


「はい…。あの、生きててほしいです、あいつ」


「届きます、想いは。今頃きっとクシャミをしてらっしゃることでしょう」


「ははっ。そうですか。じゃぁ」

 そう言って宙を見ながら続けて言った。


「ごめんな。ごめん。わかってなどいなかった。酷いヤツだと思ってた。ごめん。…元気で居てくれよ」


 細かな内容は違えど、慎一と同級生の二人共が、お互い幼い頃に家庭事情が発生、さらに中学生の時には、同時期に突然の環境の変化、異変、学生としての継続的学習がままならない異常事態を経験していた、ということになる。

 幼馴染みだったはずの二人。実際に何がどうだったのか、双方の話が持ち寄られない以上は、本当のところはわからないままだ。

 しかし人生のこのタイミングにおいて発生した、慎一の今回の体験と新たに生まれて溢れてきた感情とが、必ずや縁あるところへ届くだろうことを七色は知っていた。


 今日を表わしている慎一の三重円のホロスコープが、現在進行形で一つの解放の時期ときを告げていた。 

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