第29話 椅子に座れない男⑧完

「ありがとうございます。 今から面接、です。 泣いてる時間、無いんですよ。

 ここから、このままここから、面接に行かせてください。」


 そう言った慎一は、どこか軽くなっていた。


 何度も深呼吸を繰り返して、腕時計を何度も見ながら準備をしていた。立ち上がって出口に向う途中で最後に窓ガラスに自分を映して、自分の顔を見つめていた。気合いなのか、両方の手で軽く自分の頬を叩いた。


 三十分という時間など、もとよりここ七色書房には関係など無い。そもそも書房での出来事は夢の中での出来事とも言えるからだ。ここは街の中ではない。そして、これはもしかしたらほんの一瞬の出来事なのかもしれない。ほんの短い時間だったようにも、随分と時間が経ったようにも思える。確かなのは、この体験が慎一にとって大きな節目となるのだろうということ。


「そう言えば、最近居る公園ところですが、あの木と似ている大きな木があります。それでなんか落ち着いたんですね。その木に話しかけてました。明日のことを考える気になったっていうか…。それもきっと偶然じゃ無いんですね。それに…今日、ここに来たことも。忘れてたこと、思い出したことも…」


「ええ、きっと」


「諦めないでいきます。今回がダメでも」


 今日の面接の結果がよくてもそうじゃなくても、報告に来るような人ではないことはわかっていた。

 (どうぞ、自分の人生を歩いていかれますように)


「いってらっしゃいませ」


 七色は店を出て行った慎一の、その後ろ姿を見ていた。

 プレスされたスーツに足元の靴もぴかぴかに手入れされている。過酷な生活の中でどうにか大切にそれらを守りながら、いくつもの空の下を歩いてきたのだろうことが想像される。

 その時、慎一の背後に細身の女性の影が見えた。付かず離れずの距離にその女性はいる。慎一は前を向いて歩いているが、女性は振り返ってこちらを向いている。七色と目が合うとその女性はスローモーションのようにゆっくり深々と頭を下げた。そこで気が付く。

(あっ、おかあさ…ん?)


 その姿は、慎一がこの書房にやって来た時の最初、後ろ姿に見えていた、頼りない細身の女性の姿と似ていた。

(ずっと、いらっしゃったんですね…)


「私ったら、お茶もお出ししませんで。大変失礼いたしました」

 七色は小さく話しかけた。

 その女性はそれが聞こえたかのように、立ち止まったまま会釈をした。七色には確かに笑っているように見えた。

 その後、二人は帰っていった。



 晴れている空の日にも、雨の日にも、七色には時々思い出す人がいる。

 (どうか、あの方が、同じような方々が、自分の居場所に出会うことができますように)


「大丈夫、です」

 (私にも、ある日ある時、それはやって来たのだから)




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【今日の七色日誌】


 思春期というのは、私たちの人生の中において、特有の時代であることは、自らが通過してきているだけに誰もが知っていることのひとつ。

 そして占星術では八歳から十五歳位のことを表わしているのが「水星期」である。文字通りこの年齢の期間のことを意味しているし、この期間に「水星」の象徴するものが個人の中で育成されていく、発達していく時期ということである。

「水星」の象徴とは、例えば、その人の知性の働き方、言葉を使うコミュニケーション能力、言語能力、神経系などである。

 この年齢の時、例えば学生時代に何か大きなことがあったとしたなら、その印は出生図に何らかの形跡が残されていることになるだろう。


 この水星の年齢域の時代に、大きな衝撃を受けるということが考えられるのが、土星、天王星、海王星、冥王星といういずれかの天体の、あるいは複数の天体の「水星」に対する影響だ。それぞれの天体の影響力によって違う意味が発生することになる。それは、そもそも人生においての定番設定の生まれた瞬間の配置が理由である場合と、刻々と動き続けているその時々の現在の星の配置がとある角度を作る時期が訪れたという場合と、大きくはこの二つが考えられるだろう。


 七色書房に今回やって来た方は、その体験を聞くほどに「水星」と「冥王星」とが関係している物語ではないかと、出生図を見た時に思えた。

 それは時に長く影響を残すことになる。傷やトラウマとなる原因としての体験にもなる可能性があるのだ。もちろん今回は、無数にあるだろうその「水星」「冥王星」の影響力の中から出会った、ひとつの物語である。


 止まること無く動き続けている星の配置によって、それらの傷が解放され、癒やされ、新たに再生していくという時代もチャンスとして後年やって来るが、十年以上、時に二十年以上と、進むのがゆっくりな天体ほど、かなりの時間がかかることになりやすい。それまでの間の日常の過ごし方や環境、出会いによる精神的、物理的変化など様々なことも影響があるだろう。


 彼のこれからが、自分で自分の居場所を作っていくということへと、話がゆっくりと建設的に進んでいくだろうことを考えていた。

 そのためのまずは第一歩が今日だったのだ。どんなに弱気であっても、どんなに小さくても、それは彼の意思によって開かれた次への扉。


 現れた母の姿は、幼き頃に別れた母の面影でもあるだろう。また、慎一自身の現在の女性性の現れであるとも言える。儚い存在であった慎一の中の半分のエネルギーが、これから育てていくであろう慎一のひとつの地上的側面であるだろう。

 女性性が意味するものとは、陰陽の陰であり、それは具体性、実際性を表わす。それはより地上的な、生活の中でのこととして個人の生活の発揮されていく、人生を形作っていくエネルギーなのだ。


 全ては積み重ねによって作られていく。座るということもまた同じだろう。どこにどのように座ることが重要なのか、彼の中での新しい意味が増えていくほどに、きっと言動は変わっていくことになるだろう。

 必要なのは、出来事による刺激によって感情が揺らされて、思いあまってその場を離れないことだ。様々なことがあるだろう日々の中で、一時の感情に流されること無く、堪えて、新しさを積み重ねていくことが必要だろう。それを「土星力」とも呼ぶ。ゆっくりと時間をかけて作っていくことになるだろう、それは、自分の中の社会性の最終到達イメージを表わしもする、社会という世界の中においての自己の運営能力だ。

 彼は、ずっと好きだったものに関係する仕事の分野を今回選んで応募したと話していた。今回がダメだったとしても、自分から遠いものを選ぶのはやめたそうだ。


 そしてあの振り向いた女性は笑っていた。思い返せば、その姿は軽やかだった。

 きっと導かれている、それを受け入れて彼はようやく進んでいこうとしている。やはり、可能性の扉は開かれたのだろう。



 様々な空がある。そして、様々な地上もある。

 日誌を書き終えて、七色はペンを置いた。

 あの、雨混じりの土の匂いを思い出していた。




 地球の風景の中にある数多くの世界中にある街という街は、とても忙しく人々は朝から晩まで時間に追われるような毎日を過ごしている。

 けれど店主の七色は、追われて忙しすぎるというような体験をすることはない。

 この「七色書房」は街の中では無く森の側にあり、時に地球では無く星々と地球との間の何処かに存在しているのだ。


 街の音は遠く、それは七色書房には聞こえて来ない。

 店主の七色が日々ここで聴いているのは声無き声、音無き音の調べ。



 ころんからん、からん

(七色書房の扉の開く音)



 ここ七色書房は、地球に住む存在たちが、うつらうつらと、あるいは深く沈むように、眠っている間に訪れることのできる場所。

(ご縁さえあればどなたでも)


「物語の持つ力を借りて、あなただけのこの人生の物語を紐解いていきましょう。

 昼の地球で、夜の宇宙で、まるごと一日、どうぞよい旅を。」




  

 完

 

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 2024/04/23より書き始め。

 2024/04/29 ほぼ完了、校正に入る。この作品は約2万1千字。

 2024/04/30 校正ほぼ完了。ここまでで計約7万8千字。5/1アップ予定。

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