第26話 椅子に座れない男⑤
七色が静かに数字を数える中で、慎一は自分を見ていただろう同級生の少年へと、立ち位置を移動していった。
やがて見えて来たものを話し始める。
「あのベンチで誰かに、誰かに会ってる慎一…、じゃなくて私が…」
(いや私はひとりで居た、だったはずだけど…)
「でも、ここから見えている慎一は…、いえ、彼が見ていた私は、あのベンチでまるで誰かと会っているかのように見えています、今」
慎一は同級生の位置から見た自分、という位置へと意識が移動していた。その場所からその同級生が見ていたであろう風景を今、自分が見ているという初めての状態なのである。そこから見えていた風景の話は続いていった。
「あの、大きな木に少し隠れているのですが、ベンチに座っている私が見えています」
「そのまま、見ていてください。何か変化があったら教えてください」
「いつもと同じ、ベンチで本を読んでいます…ですが、どこか変なんです」
「どこが、変ですか?」
「ああぁ、誰かとやっぱり喋ってるような…。でも誰も居ないんですよ…」
「さらに精度があがります。もっと見えて来ますよ」
七色は続けて数字を数え、さらなる合図を送った。解像度を上げる。
「ああっ」
途端に慎一は驚いたように声を上げて、続ける。
「ああーっ、そうだ、大きな木の側に何か居たんですよ、夕方だったけど確かに見えた気がしたんです。ふわっと、もやっとした光っていうか…大きいそれを見ていました。でも、それより…あいつが。なんだかわからないものに向って…ああ怖いっ…」
「怖かったんですね」
「なのに、あいつ、慎一のヤツは…、楽しそう…いや、嬉しそうなんですよ。おかしいでしょ。身振り手振りを見て、何かあの大きな変な光とまさか、話してるのかって。あいつが怖い、と思いました。あの、ふわぁっと広がってる、人みたいな、人じゃ無いやつですよ。あれは…自分が見たのとどこか似ている気がしたんです。
「見たことがあるんですか?」
「わかりません…」
そこで、同級生の中に入った状態の慎一の集中力は切れた。考えてしまったようだ。
「それでは、ただ見えて来たものをそのまま、教えてください」
集中していく手順を踏んで、再度近付いていく。
「一人で家に居る時…夢なのか現実なのか、わからないですが、はっきりしないけど、寝てる時? 鈍い光のような、人より大きなものが来ました。たぶん怖くて、布団の中で丸まって…いつの間にか眠ってたような、感じがします」
彼は、そうだったのか…もしれません、と慎一が言った。
「私は確かに、あのベンチで、大きくふわっと広がって光っているものには出会っていたんです。もうすっかり忘れていましたけど、あのベンチの側の大きな木の側だったんで、その精霊のようにも思えたし、それは人のような形をしていたようにも見えたんで異星人なのかって思ったんです。まさかだけど、薄く、だけど確かにそこに居たんですよ。私は、すごいなぁと思って見ていて、怖くはなかった…んです。喋っていたっていうのは、思い出せませんが、そんなこと、あったような…」
校舎から見えていた、何か怪しげな存在と出会っていた自分の姿という風景自体が、慎一にとっては不思議であり、かつ、やっぱりあいつは自分のことを見ていたはずだという確信へと変わっていったようだった。その同級生の彼はこの後しばらくして、何も言わずに引っ越していったのだ。慎一が出会ったその大きな精霊のようにも、異星人にも思えた存在との出会いもそれっきりだったような気がする。
「もしかしたら…、言えなかったのかもしれない。引っ越すってことかな…」
(あぁ、いや、責めていたのかもしれない…ずっと、自分のこと)
「彼は、怖かったのかもしれません」
慎一は、ゆっくりとひとつの答えを出そうとしていた。
「いや…そう…だと思います。二人で居た小学生のあの頃から去って行ったのは自分で、どこかそれは私のことを置いていったという思いがあったのかもしれません。罪…悪感…かな…。どこかでずっと私のことを気にしていたのかもしれないです。誰とも一緒に居ない、一人で居た私のことを、ひょっとしたらずっと長い間…見ていたのかもしれません…それを、全く私の方が知らなかった…気が付いていなかったとしたら…」
(掛けられなかった本当の思いが、意図しない方向へ、違う形になってしまったっていうこともあるのでは…)
慎一は、ハッとした。あいつには悪気など無かったのじゃないか…、そう過ぎった。自分が嫌われていた、ということでは無い、のではないか、と。
「もともとから私は、一人で居ることが嫌ではありませんでした。本がありました。それが、あいつと一緒にいた頃からそうだったのかもしれません…あぁ私は、小学生の頃、本当に彼と一緒にいたんでしょうか…。」
ある日のこと。
「ベンチを独り占めしてやがる」というような、とあるその声をきっかけとして、それまで生徒たちにも先生たちにも誰にも見えなかったベンチが、見えた。多くの人にある日、慎一という存在がクローズアップされて見えた。
そこには無かったものが、突然当たり前にあったかのように、皆の中でいきなり見えるという現象が起きていたのかもしれない。
それは何も無い、起きていない現実にまるで穴を空けるかのような出来事だった。それをもたらしたのは、引越して行く直前の同級生の彼のひと言だったと思っていた。
「私は、もう嫌われてしまったんだって…離れていったってことは、捨てられたんだ、そう思っていたんですよ、彼に。もう長いこと」
慎一は忘れていた感情を思い出していた。
そこに座る人間が現れたことで、椅子があるということ自体が思い出され、認識され、皆の意識の中にベンチが登場してしまったのだろう。それでも生徒たちは一時のことで、さほど問題視していない様に思えたが、大人たちの間ではいつの間にか話はあらぬ方向へと変質してしまっていた。もしかしたらそれは、同級生の少年にとっても想像外のことだったのかもしれない。
慎一は初めて、その可能性はある、と思えた。
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