第25話 椅子に座れない男④

 七色に聞かれて、慎一は思い出した随分前のことを話し始める。


 その前に、いつの間にか両手でぎゅうっと力を入れて握っていたマグカップを何度か口に運んで、一度息を吐いた。それから話は始まった。始まってみると、それは止まることなくしばらくの間続いた。七色はしばらく黙って聴き続けていた。


 それは慎一が中学生の時のことだった。

 校庭の端っこに誰も座らないベンチというのがあって、慎一はそこによく座っていた。朝早くに、昼休み時間に、終業後に、しばらくの間そこに居て、用意していた本を一人で読んでいたそうだ。


 ある時、そんな慎一の姿が、運動部の人たちの視野に入ったらしい。何しろ運動をするわけでは無く、運動部が校庭を広々と走り回っている中で、一人でじっと校庭の端っこの方に座っているのだ。それまで気が付かなかったが、気が付いて見ると、何しているのか気になる、ということだったのだろう。

 校庭のその端っこの方に一つのベンチが置かれていた。運動部の人たちからは距離があって、そこは誰も使わないベンチだった。

 その近くには大きな木と側にはまだ若い木が植えてあった。若い方の木は葉が生い茂る季節になったとしても木陰を作るには至らずだが、古い大きな方は葉が生い茂る大きな木だった。名前もわからなかったが、ちょうどいい木陰を作ってくれる木だった。

 朝のベンチは日あたりもいいが、午後にはちょうどよく日陰が出来る。そして風に葉がそよいで音を立てていた。彼にとってはこの木も、年季の入ったベンチの痛み具合も気にならず、自分が居る場所としてなんだか丁度よかった。


 やがて、生徒たちから、一人でいつも何してるんだあいつ、という目で見られるようになり、学校の先生にそれは届いた。ほんの小さなひと言、苦情にもならないような一人のひと言が始まりだったようだ。

 しかし誰一人として慎一に直接話しかけて、ベンチに居る理由を聞こうとした者はいなかった。それなのに影で人は騒いだ。後から見れば、それも一瞬だったのだが。


 とある教室から見ると広い校庭の端にある古いベンチに一人の学生がじっと座っているのが見えた。学生は木を眺めていたり、空を見上げていたり、本を読んでいるだけだった。誰が見てもそれ以外の不審な行動は見られなかったのだ。

 それまでも同じように彼にとっては日課でさえあったことだというのに、ある日のこと、それは突然「非常識」と呼ばれてしまうことになった。 最初に慎一のことを言い出したであろう一人の学生はクラスは違ったが同級生だった。それは慎一がよく知っている人だった。


 それが問題となった日。その日、彼は全てを失った。


「ああっ、そうだった。そうだったんです。そんなことがありました」

 慎一が忘れていたことを思い出した様子を見て、安心してさらに次へと進むように七色は言った。慎一は言われたように軽く目を閉じる。


「今は、思い出しても大丈夫なものだけが自然と帰ってきます。ゆっくり深呼吸をしましょう」

(受け止められるものだけを思い出すことになります。大丈夫)


「は、はい…」

 慎一は、慣れない様子ではあったが、七色の声に合せるように三回ゆっくりと深呼吸をした。


「今度は、さらに、風景が広がって見えて来ます」


 続けて慎一は、見えてきたもの、思い出したものをひとつずつ丁寧に取り出すように話をしていった。



 クラスの誰もが、慎一が休み時間に教室にいなかろうと、探すなんてことはそれまで一度も無かった。校庭の端っこにあるベンチにも誰も座っていなかった。それは慎一自身が知っていた。何の問題も無かったのだ。

 自分がここに居ようと居なかろうと、あのベンチがそこにあろうとなかろうと、そこにそのベンチがあることさえ知らなかったんじゃないのかとさえ思えた。それが問題になった日など、それまでたった一度も無かったのだ。

 それまで、そのベンチとそこから見える風景は、慎一だけのものであるかのようだった。慎一と大きな木と古いベンチだけの小さな真実だったのだ。どこまでも広がる大きな空がそれらをただ黙って見ていた。


 ある時、慎一を見つけた人が居た、ということだろう。そして、ベンチに居る彼の姿を見ていたのだろう。何を感じたのか、思ったのか、その人がそれを声にした。

 それは慎一がよく知る同級生の一人に思えた。


「確かにあれは、彼でした。彼が言い出したんです、旧に突然。嫌われてたからだと思います。私にはわかります。それまでも校舎の窓から彼は何度も私のことを見ていたんです。ベンチに座っている私はそれを見て知っていたんです。時々でしたが、遠くにお互いを見ない振りしながら見ていたんです。それは彼が始まりで、私はそれを見て、確かに知っていました」


「それでは、彼の中に入って、その視点を体験していきましょう。いいですか?」


 想像もしない提案に驚いた慎一だったが、どこか抵抗もなく受け入れている自分がいた。その流れに当たり前のように自然に乗っていった。


「それでは、移動します」


 七色が言ったいくつかの言葉の後、静かに数字を数えていく中で、慎一の見ている風景が変わっていく。慎一の意識は、その同級生の中へと抵抗もなくストンと移動していった。


  


 

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