第24話 椅子に座れない男③

「前の会社…ですか」

「はい…」


 慎一は話を始めた。


「上司と上手くいかなくて。最後はクビ、切られました…」

 言いたくないことを言ったのだろう。途端に、慎一の目に影が差した。


「そうですか。その理由は何だったと思われているのですか?」

 七色は淡々としている。


「それは、私が仕事が出来ないからです」


「仕事の内容は? どのような一日を過ごして?」


「営業事務、みたいな感じでした。得意様先には顔を出します。朝と昼、夕方と会社には戻って、発注や報告書を書いたり、色々ですね」


「それで上司の方とうまくいかなかった、と」


「ええ。あの、私、その、じっとしていられなくて、事務所に帰って入力や書き物をする時も、すぐ席を立ってしまうんですよ。」


「すぐ?」


「上司の目の前で、まぁ誰がいてもそうなんですけど、上司だと特に。事務所の椅子に座ってるんですが、座った端から、なんかこう座ってられなくて立つんですね。でもどこにも行くわけじゃなく。なんか、あそうか、これこうかな、とか独り言をつぶつぶ言いながら、座るんですが、また…」


「はい…じっとしていられないんですね」


「で、何度もそんなことをやっちゃうもんですから、がちゃがちゃ音を立てたり、バタバタして、うるさい!となりまして、でもそうすると余計に座ってられなくなって、用事を見つけては立つんです。しなきゃいけないことの方を後回しにして、いつでもいいことなのに動ける方を優先して。時にはトイレに行って…」


「それで、また…それを見て」


「はい。怒られるというか、不審に思われると言いますか、意味がわからない、仕事してない、怪しいと…。でもその通りなんです。自分でもどうしようもない感じになるんです、その時は。その日に流さなくちゃいけない仕事の方が遅れ遅れになって、遅くまで残業になるし、でも誰も居ない方が、仕事がようやく出来る、進むんですよ…」


 自分自身にガッカリしたように慎一は肩を落とし、手で包んでいたマグカップのお茶を口元へと運び、ふうっと息を吐いた。


「お茶、美味しいですね」


「飲み慣れていらっしゃらないかもしれませんが、牛蒡ごぼうのお茶なんです」


「えっ、そんなのあるんですか。初めてです」


「身体を温めてくれるのと、それと、ちょっと落ち着くと思います」


「助かります。いただきます」


 そう言えば、今は静かに座り続けている慎一がいる。七色は、その様子を見ていた。その七色に気が付いたのか、慎一は付け加えるように言った。


「今は、あの、仕事じゃないし、上司の前とかじゃないんで、そうすると結構大丈夫なんですよ。ソワソワしてはいるんですが、座ってはいられます。七色さんに怒られたらわからないですけど。そんなこと…ないですよね」


 悩み事の相談中だというのにどこか調子のいいところもある、そんな慎一の言葉に七色は笑って頷いた。


「私が変だから、だと思うんですが、変えたい、というか変わりたいんです。もう一回、ちゃんとしたいんです」


「ちゃんと? …ですか?」

 慎一が言った「ちゃんと」のいくつかの意味をやがて七色は知ることになる。


 

 慎一が意を決して言ったと思われる次のその言葉から、話はさらに進んでいくことになった。

「実は…、青空の下で生きてます」


「…青空の」

 七色にはなぜか穏やかな雲ひとつ無い青い空が見えていた。

(あ、ストレスフリー、青空の下なのに…不思議な感じ)


「はい。実際は青い日ばかりじゃありません。だから、正確には空の下、ですね」


 七色はすぐに察したが、それは、帰る家が無い、ということを意味していた。これまで約一年間ほど、慎一は転々としてきたそうだ。空の下も一カ所に居られるということはなかなか無く、各地には先輩という存在も居て、中には新入りに親切な人もいるが、結構厳しい環境なのだと話す。出来るだけその環境に慣れないように、人間関係も作らず、他者へも入り込み過ぎないようにしてきたようだ。本当の住人にはならないように。


「空…いろいろな空があるのでしょうね」


「はい、そうです。ここ最近は、ちょうどよいところと出会いました。一カ所に落ち着いたんです。ダンボール敷いたような地べたですけどね、でも、ゆっくり本が読めます」


「まぁ、そうでしたか」


「バイトはしています。お金、貯めてる最中です。公園に帰って、公園からバイトに行くんです。でも、もう一度ちゃんとしたいな、そう思いまして」


 黙って七色は聴いていた。


「あ、風呂も毎日入ってます。空の下に居ることはできるだけやっぱり、知られたくないっていうか、自分でも認めたくないっていうか…いつか、いつかここから出られるはずだって、たまたま今日はここに居るだけなんだって、そう思いたいんですよ。だから、あの、こちらを汚すことも無いから大丈夫です。すみません」


 七色はそんなことは考えてもいなかったが、慎一は心配しているかもしれないと思ったようだ。


「こちらこそ、そんな大丈夫です。あの、毎日過ごすのに現在不具合は?」


「人の目ですね。正直隠れる様にしています。その点から言えば、空の下でも堂々と居るわけじゃありません。身綺麗にしておかないと、そう思って、洗濯も欠かさないようにしているし。ちゃんとしていたいんです」


「はい…」

(ちゃんと…なんですね、また)


「で、どうにかして変わりたいんです。部屋を借りたいんです」


 七色は話を聴きながら、空中に映し出されている慎一の出生図(ホロスコープ)に指先で触れる。一瞬で見上げるほど拡大されたその図の中にある気になるいくつかの天体を見ながら、そこでひとつ質問を投げかけることにした。


「座れなくなった、という、その最初は、いつのことだったか覚えていますか?」


「えっ、座れなくなった最初…ですか…、考えたこと無かったな…会社に入って、すぐじゃなかったかな…怖い上司だったもので」


「もう少し前に、無かったですか? 十五年ほどかそれ以上前、かもしれません。学生の頃、何かありませんでしたか?」


「そんなに…前、ですか」

 少しの間、目を閉じて考えていた慎一は、今度は手のひらを自分の胸元で広げて指を折って数字を数え、それから再び口を開いた。痩せているからか、女性のような長く細い指が目立った。


「今まで思い出しもしなかったんですけど、それが本当に最初なのかもわからないですけど、今…思い出したことがあります」


 そう言って、慎一は、目の前のホロスコープを通り越した天井の方を見ながら何年も前の話を始めた。空中にある慎一の出生時のホロスコープの天体の一つが一瞬きらりと光を放った。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る