第20話「熊男」とお茶を⑤
「まず、座れっ」
まるで雷が落ちたかのように大きな声がした。
お婆さんの背中がシャキッと伸びて、熊男の正面から思いっきり球を投げたように言葉がまっすぐ飛んでいった。
「まず、作業場に座ってじーっと竹と出会え。人を見るんで無い」
突然始まったお婆さんの作り手としての存在感に、熊男は身震いしているかのようだった。彼もまた背筋を伸ばしていた。先ほどのまでの婆ちゃんとは違っている。
「時間はいくらでもある。作業場で養ってもらえ」
「えっ?」
「竹の神様もおる。たくさんの道具の神様がおる。作業場もそうや。」
初めて見るお婆さんの自分に向かってくる真っ直ぐな姿に熊男は唾を飲み込んだ。それが眩しいくらいだった。熊男は出来る限りのではあるが、背を伸ばした。両膝に手を置いて、真っ直ぐにお婆さんの方を向いた。
「どの方も必要なお方で、どなた様が欠けても、ものは作れん」
熊男はお婆さんが生前、道具に毎日話しかけていたのを見ていた。材料となる竹を触っては話しかけていた。作業場に出入りするときには、挨拶をしていたのも知っている。毎日同じ時間に作業に入り、同じ時間に作業を終えるのがお婆さんの仕事のスタイルだった。
「教えてくれる。必ず教えてくれる。それが来んとしたら、それはお前の姿勢がよくないからや。お前の心が騒がしいからや。静かにせな」
「はい、…はい。」
怒られているわけでもないのに、熊男の目には涙が溜まっていた。真っ直ぐな姿勢はより真っ直ぐになっているように見えていた。
「俺、俺が、やっていいんか? ダメじゃないんか? 道具!触ってもいいんか?」
ずっとずっと胸の奥でくすぶり続けていた思いをようやっと外に出した熊男は、少し子供みたいだった。もう長い間、言えなかったことがようやく言えたのだろう。
お婆さんは黙ってほんの少しだけ、見逃してしまいそうなくらい少し頷いた。
その姿をしっかりと見ていた熊男は、ようやく自分の人生を受け入れる覚悟ができたようだった。出口の無かった迷路からやっと出ることができて、お婆さんと熊男の会話が双方向性で生きている。それは一本の糸でしっかりと繋がれたようだった。
「よろしくお願いします」
頭を下げていた。熊男が泣いていた。
「頭や心が騒がしい時はな、空を見ろ。星を見ろ。揺れること無い変わらん星を」
お婆さんの言葉は、もはや師匠としての言葉なのだろう。熊男はようやく師匠と呼べる存在と出会うことが出来た喜びに震えているのだ。もとよりこれを望んでいた。
突然お婆さんが旅立ってしまったことで、熊男は手順を踏むことも出来なかった。勝手にその気になることも出来なかった。むしろ、こんな自分がそんなことに手を出すなんて許されない、周囲に否定される、そう思い込んでいたのだ。
きっと誰かがお婆さんの後を継ぐように活動していく人が居て、自分は修業もしていないのだから、ただ黙ってそれを見ていくことになるんだと、そう思っていた。
上手な人も何人もいる。
しかし、現実は少し違っていた。
工房からお弟子さん達は順番に出て行き、冷静に考えれば当然のことだが、通うことは無くなっていった。それぞれのやり方へと進んでいったのだ。
この工房そのものを継ぐ者はいなかった。それからというもの工房は静かなまま眠ったかのようだった。
熊男は一人でこの工房に続いている家に住んでいた。端から見れば、熊男が跡取りであり、工房をどうしていくのかを決めるのも熊男である。
それが熊男本人にしてみたら、感情が先に立ってしまい、まるでわからなかったのだ。仕事はしてはいたが荒れた生活ぶりだった。
畑に悪さをしていた小学生は近くに住んでいる男の子だったが、家庭環境の事情もあって荒れていた。それを知っていた熊男もまた荒れていた。熊男はその男の子がどこか他人には思えなかった。男の子も熊男も何かを諦め、何かに耐えきれず、解決の糸口も無いままの日々に苛立っていたのだ。
その熊男が今、まるで大きな許しを得たかのようだった。
(ここからが、新しい始まり…なのですね)
七色は二人を見ていた。
お婆さんに育てられ、先立たれた独りぼっちの寂しさの中で荒れた日々を送っていた一人の男が、 師匠と弟子というそれぞれの新しい役割を得た瞬間を見ていた。
(熊男さん、よっしゃぁ! ですね)
ここ七色書房に熊男が暴れながらやって来たのは、小学生の男の子が大声を上げたその後のことだった。悪いなら悪いように、そう思われるならそのように、流されて、なんなら乗っかってしまえ、それでいい、そう思って普段そんなに飲むことも無い酒に飲まれた。
その勢いを借りて、言葉にならないようなことを通りがかりの人に吠えては、小学生がやっていたような畑荒らしの悪さを真似しながらここへやって来たのだ。
(ご自身の方が傷付いていらっしゃいましたから)
七色が見たところ、吠える声やぶつかる音ばかりが大きくて、よく見ると森の木々は傷んでいない。森の住むものたちの声も落ち着いていた。熊は本気で暴れてなどいないのだ。自分の身体を力任せにぶつけては傷を負っていたということだろう。
何よりの証拠は、熊の肩にとまっていた小さな鳥がいたことだ。近くを飛んだり、また頭の上にとまったりを繰り返して、店の中に入るまで側を離れずにいたのを七色は見ていた。
(小鳥さん、ありがとう)
熊が店内に入ったのを見届けたかのように、小鳥は何度か上下しながら空中で羽ばたき、やがて森の木々の中へと飛び立っていった。
後はよろしく、とバトンタッチされたように七色は感じていた。
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