第19話「熊男」とお茶を④


 軽く頷いた七色は静かに立ち上がり、自分の座っていたテーブルの端に置いていたトレーを手にし、二人の前から空になった茶碗を竹編み細工の茶托ごと下げた。そしてカウンターの奥へと移動した。

 二杯目のお茶はお婆さんの指導無しの一杯である。先ほどの教えを思い出しながらひとつずつを行う。その間、熊男とお婆さんは話を続けている。暴れる熊とお婆さん、まるでそれは動物とトレーナーのようにも見えていた。


 サビアンシンボル占星術には360度の全てに象徴文が存在しているのだが、その中に乙女座23度のサビアンシンボルで「動物のトレーナー」というのがある。


(人間という生き物は、ある意味訓練されていないままですと、感情の思い付きのままを当たり前としてしまう性質を持っています。それが例えば、わがままさ、気ままさ、思い付きで言うことやることがコロコロ変わる、ということに繋がります。幼い子供のようだ、とも言えますし、本能で生きている野性の動物のようだ、とも言えます。そういう人間の特性を無自覚なまま放置するというのではなく、訓練によって意思の継続、目的意識を持つ存在へと人は成長していくということを表わしています。野性の動物を連れてきて言うことを聞かせるという意味のお話ではありません。この動物とトレーナーの両方共が自分の中に存在する働きなのだ、という風に見ていくことが必要です)


「適性を見抜いて訓練へ、それを殺さず導くのがトレーナーです」


(この360個あるサビアンシンボルの一つずつを理解していこうとする中で、私たちは多角的なものの見方を手に入れていくことが可能です。私たち自身を成長させてくれるのですよね)


「自分の中にトレーナーが不在だったり、動物が不在だったとしても、このシンボルを意識していくことで、それらを育てていくことが可能です。またそのままの風景を生活の中で外側に見ることもあるでしょう、今のこの二人のように。それはこのシンボルの働きを思い出すチャンスです」


 呟きながら準備が出来上がったので、二杯目のお茶を持って七色はカウンターを出て行った。

 なんでも強制的に矯正すればいいというのではなく、その人の資質に合ったものを訓練していくことで、感情次第で動いていた不安定さから安定した動きを生み出していくことが出来る。それはその人の可能性を引き出すことであり、伸ばすことでもある。やがては本人自身が自分のことに気が付くことになり、それまでを振り返ることがより出来るようになるだろう。その時にはすでにそれまでの自らの気ままさやコロコロ変わりゆく感情由来の反応というものが当たり前では無くなっているはずだ。


 七色は今日お婆さんが書房に現れた理由の一つが伝わってきたような気がした。


(自分がやり抜いて来たからこそ、また次へと繋げて行くことが出来る…)


 お茶をそれぞれの前に置くとお婆さんは、七色の顔を見て言った。

「ありがとう」


「…」

 熊男は黙っていた。


 再び、七色も先ほどと同じ席に着く。

(熊さんは頑固さんですね)


 今日の予約が七色の中でハッキリしていなかったのは、熊男本人からの予約では無かったということもわかった気がした。お婆さんだったのだ。

(地球からのご予約では無く、すでに地球を離れて宇宙の側にいらっしゃる方からの地球に住む方への呼び出しだったのですね)


 亡くなった方に会いたいという気持ちや呼び出し力ではなく、何かを伝えるために旅立った方がやって来たということのようだった。


「通りでおかしいと思いました」

 ほんの小さく七色は音にした。



 しばらくの間、静かに話が続いていたはずだが、熊男が思いきったようにお婆さんに言った。

「なんで、そんなに早く逝ってしまったんや…」 

 しばらく静かに話が続いていたはずだが、熊男が思いきったようにお婆さんに言ったことで、風景は切り替わった。


「なんで、そんなに早く…」


「なんや…なぁ急に…」


「なんで、なんにも言わんと逝ってしまったんや」


「ん…、ごめんなぁ」


 七色は、それまで高圧的とも思える姿勢だったお婆さんが、今では背中を丸めてすまなそうに謝るのを見ていた。


 そんな姿をみた熊男はさらに続けた。

「違う、怒ってるんじゃなくて…。そうじゃなくて、行かんといてほしかったんや、まだまだ」


「そうかね…ばあちゃんも、もうちょっとおりたかったけど、一緒になぁ」


「ばあちゃんだって、そんに喋らんかった。けど、ちゃんと見とってくれた」


「あぁ、喋らんかったかねぇ」


「真似ごとで竹を触ってた時、間違えてたらすぐ止めてくれた。こっちが先や言うて、俺の手の指先を持ってくるくるって動かして、教えてくれた。俺、ちゃんと覚えとる」


「そぉか」


「ああ、あぁ、覚えとる」

 熊男はそう言うと、自分の手の平、指を見ていた。


「最近は…作っとらんやろ」


「…」


「熊男の仕事、見たかったねぇ」


「…だから」


「ん…」


「作りたかってんて、ばあちゃん。」


「ほう」


「けど、ばあちゃんにはお弟子さんもおったし、上手な人が何人もおったし」


「でも、もう、おらんやろ。みんなそれぞれの道で自分でやっとるし、もうやめてしもた人もおるやろ」


「うん」


「やればいい。やりたいならやったらいい」


「ばあちゃん、俺なんかじゃダメやろ、下手やし、もっともっと教えてもらっとけばよかったんに、何にもわからんよ、わからんことばっかりよ」


「なぁに言うとるんや」


「そやけど…上手いこと作れん。作れんから出せん」


「なぁに言うとるんや。他に誰がおるんや。ばあちゃんの仕事のぜーんぶをお前はみとったやろが?」


 熊男は黙り込んだ。


「ぬか漬けは面倒みてくれとるやんか」


「あ、あれは、うまかったから。あれは、誰もする人もおらんし。仕事や無いし」


「ずうっと、ばあちゃん知っとる。毎日毎日、手を入れて、かき回して、新しい野菜を入れて、その繰り返しや。様子見て、ぬか漬けは足したり、水を抜いたり、手間なもんや。そやけど、やってくれとる。熊男、ありがとう」



(ばあちゃんに認めてもらいたかった)

「イチニンマエ」になるまで、見てて欲しかった。熊男はそう思っていた。


(なのにあんな、急に逝ってしまうなんて。俺、まだなんにも教わっとらん、いいよって言われとらんよ)

「ちゃんと学校出たお弟子さんたちもおるさけ、俺はちゃんとしとらんさけ、いかん、だめなんやわって、そう言われとる思われとると、思って…」


「熊男、よーく見てみ。今や誰もおらん。面倒を見る人も、社会に繋いでくれる人もおらんようになったあと、今度は自力で立ち上がらんと。それぞれの道が皆にあるんや、照っても降っても、作り続けんと。…そしてたまには人に見せにいかんと」


 お婆さんの工房は閉じられて、もう通う人も居なくなっていた。

 やめてしまう人もいたが、お弟子さんもそれぞれ自分で工房を立ち上げて頑張っているようだった。熊男は工房の作業場には背を向けていた。気にしながら見て見ぬふりを続けていた。それは終わり無く、ため息ばかりが増えていく日々だった。










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