第14話「岩のように重たくなる足」⑥
「今、聡子さんにとっての一番必要な場所へ、移動してください」
七色がそう言うと、聡子の目の前に突然静けさがやって来た。と、思うと同時に目の前の風景は流れて変わっていった。場所を移動しているのだ。それは時間を越えていった、そして空間を越えていった。
やがて到着した場所。嘘のように吐き気は無くなっていた。
目の前に現れたのは、聡子の幼少期の住まいだった北の方のとある地方、冬の小さな町の風景だった。
「自分を見つけてください」
目的の場所への到着を確認した七色はすぐにそう伝えた。
七色の言葉に聡子は、迷うことなく目の前にある町の中のどこかにいるはずの自分を捜そうとした。
(どこ…どこにいるの?)
雪の降る中で徐々に思い出していく様々なことが脳裏に浮かんでいく。よく通っていた病院、バス停、学校、通学路、菓子屋を順に通過していく。何もかもが忘れていたことだった。会いたくない人たちもいる。どれもこれも思い出したくも無いことでもあった。そのはずなのに、それ自体を今まで忘れていたことに気が付いた。
でも今は、その頃の登場人物たちの誰一人ここにはいないようだった。
(なぜかわからないけど…だれもいない…会いたくないけど、やっぱりいないみたい)
人は歩いているが知らない人たちばかりだ。町は静かで、どこもかしこも真っ白な雪に覆われていた。冬の明るい時間はとても短い。もうすぐ陽が落ちる頃のようだ。
(ここじゃない、どこ? どこだっけ? ここじゃない)
急がないと、と、なぜかしらそう思う聡子がいた。理由も無い不安がよぎる。
「大丈夫。自分を見つけてください。今はそれだけを意識して」
七色の声がどこからか聞こえてきたことで、聡子は急に冷静になっていった。
やがて子供の頃に住んでいた家に到着する。それまでの動きが静止画像のように勝手に止まった。
その家に入っていくことに一瞬躊躇したが、人の気配は薄く声も聞こえてこない、その静けさに意を決して入っていった。やはり誰もいない気配。そして部屋の奥へと一歩ずつ進んでいった。記憶が少しずつ帰って来る。
日常では何にも思い出すこと無く。すっかり忘れていたはずなのに、今は目の前の部屋の中にあるどれもこれもに見憶えがあった。
(しんとした静かで殺風景な部屋、まるで仮住まいのような、生活の匂いがしない。そう、ここで、この町で時折歌っていたのが、あの歌…、そう、子守歌。お母さん、空を見ながらひとり、うつろな顔をして歌ってた…)
その子守歌は自分に向けられていたものでは無かった。
(…もしかしたら待っていた…の…かも…)
それまで母に対して思いもしなかったことを聡子は考えていた。
ここに確かに居たことがある、それは確かに自分だった。
(あの頃の…わたし)
とにかく忙しい、忙しいとしか言わないような両親との生活だった。団らんと言えるようなものはなかった。
(きっと、窓の側の…)
思い至ったその部屋に足を進めた。
(あ、やっぱり…)
雪が降り続いているのが窓の外に見えた。
陽が落ちたばかりの誰もいない部屋。その部屋の片隅の畳の上で、泣き疲れて眠っている一人の女の子を見つけた。静かに雪が降り続いていて、三分の一ほど開いている障子の向こうの窓のすぐ外には二メートルほどになる雪が積もっているのだろう。外灯に照らされて積もったばかりの新雪が薄青く光っていた。それはこの地方には滅多に無い大雪の年。
四歳ほどの、その女の子は薄着で、布団も毛布も着ずに、ぬいぐるみのミツバチの人形を抱きしめるように丸くなって眠っていた。
(毎日…毎日、ひとり…だった)
静かに近寄って…、
近寄って、しゃがんで、聡子は、さらに話しかけた。
「ね、いっしょに…帰ろう…っか…」
おそるおそる話かけると、小さな女の子は眠ってなどいなくて、不思議そうな顔をしてこちらを向いて、そして見上げていた。驚いている様子もない。
聡子は黙ったまま、自分の手を躊躇しながらも伸ばして、その女の子の手を触った。
(冷たい、氷みたい…)
聡子は座り込み、かがんで、横になっている女の子の両方の手を包んで、さすって、ふう、ふうと息をかけてまたさすった。目に見えて白い息が次々に上がっていく。
(ここは… 寒すぎる)
ゆっくり起き上がった女の子は、そんな自分の方を黙ってじっと見ている。
(怖がらせてしまったの? この子にしたら、きっと自分は全く知らない人なのだ)
「あ、の…」
聡子は続きをうまく喋れなかった。
「寒いね」
ようやく言えたのはそんなひと言だった。
「ん…さむい? …の?」
女の子が不思議そうに言ったのを聞いて、聡子は自分のことを思い出していった。
(えっ、寒いでしょう…
こんなに冷たくなって。
でも、知ってる…
私、知ってるから。
寒いって、そうは思わないんだよね。
いいよ、それでいいよ)
逃げ出そうとしない女の子の腕や肩全体に手を伸ばして、足先も何度もさすって近付いて、しまいには正面からぎこちなく抱きしめて、その表情も見えないまま背中も全身もさすっていた。けれどすぐに、さすっているんだか揺すっているんだかわからなくなっていった。女の子は黙って揺らされながらじっとしているだけなのに、聡子はとうに泣いていた。
「だぁれ?」
「おねえちゃん…だよ」
「ふうん」
「ほんとう、なんだよ。いっしょに…かえろう」
「……」
(断られたくない…)
ひと呼吸おいて、もう一度ゆっくり言った。
「いっしょに…いようよ」
「…このこ、は?」
ミツバチのぬいぐるみの人形を差し出して、女の子はまっすぐな黒い目をして、そう聞いてきた。そしてさらに続ける。
「このこはね、おかあさんをさがして、ずっとたびをしているの…いつかあえるかなぁ…」
女の子は、聡子の目を覗き込むようにしている。
「うん、そうだね。きっと… このこもいっしょに、いこう」
(きっと…だいじょうぶ。もう、わたしがいる)
「いい…の?」
「もちろん」
「どっか…いたいの?」
(えっ… )
聡子はぐしゃぐしゃになった自分の顔に気が付いて涙をぬぐった。そして、ぎゅっと自分の両方の手に力を入れて言った。
「ううん。ようやく、あえた。あえたんだよ、だからなの…いたくなんかないんだよ」
それから二人はしばらくの間、小さなお喋りを続けていた。ゆっくりゆっくり青ざめた空間に小さな灯りがぽうっとひとつ生まれたように、寄り添い合って重なった影が揺れていた。
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どれだけか眠っていたようだった。
聡子が目を覚ますと、七色は新しいお茶をカウンターで淹れているところだった。それが運ばれて目の前のテーブルに静かに置かれた。
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