第15話「岩のように重たくなる足」⑦完


 新しく淹れたお茶を運び、テーブルの奥から順番に静かに置いていく。

「ゆっくりどうぞ、目覚めへと向うお茶です」

(おかえりなさい。お疲れ様でした。そろそろ時間です)


 テーブルの上にはティーカップが三つ。運ばれてきた二杯目のお茶を飲みながらだんだんと意識がハッキリしていく聡子は、今までの出来事を一度にあれもこれもを思い出し始めた。


「聡子さん、少しずつ解いていきましょう、これから。時間は掛かるかもしれませんが、問題の芯の部分はゆっくり溶けていきます」


「あの、いつか、あの男の子を…光の方へと、本当の気持ちで、私…言えるでしょうか…」

 聡子はふいに男の子のことを思い出した。


「ええ。それはもちろん。忘れさえしなければ」

「あの男の子は私の大切なものを、忘れてしまっていたことを思い出させてくれたんです。ひょっとしてそれを男の子は知っていたのでしょうか?」


「呼んで、呼ばれて、なのですよね。こういう出会いって。ある意味お約束のような…ものなんです」

(まるでそれは引き合う、相思相愛の恋人みたいなもの…それに…)

 簡単に説明するのは難しいけれど、と、言葉を選んでいる七色の表情を聡子は見ていた。


「半年ほど前に確かに旅先で立ち寄った場所の悲しい昔話に動揺したことがありました。その後しばらくの間、その話が忘れられなくて…」

「聡子さんの右足の痛みはゆっくりと引いていくでしょう」

「何か悪いことが起きてるとしか、考えていなかったんです。でも、あれほどだった痛みが今は少し軽くなっている気がするんです…」

 聡子は右足を少し動かしながら、可動域を確認しているようだった。


「あの、男の子、何処に行ったでしょうか…」

「う、ん…続いて、いるでしょうね。まだ卒業はしていませんから」

(まだ終わってはいないのだ…)


「何か私が悪かったのか、悪いことをしたのか、ダメだったのか、私がダメだから、こんな風になってしまって、どうして私がって、そう思いながら、いました。病院に行っても、検査もしましたが結局わからないんです。疲労だ、使い過ぎで痛んでるんじゃ無いか、どれもこれもそうじゃないんです。だれもわかってくれないまま、この半年過ごして来ました。何かよく無いものが居る、憑いてしまったんじゃないかって、そう思ってもいました。私だけこんな目に遭うなんてひどい、そう思っていたんです。さっきも確かに膝を見て、そう思ったんです。いらないものが憑いてる、って。早く離れて居なくなれって、どっかに行けって、そう思ったんです、本当に」


 幾分興奮している聡子は涙ぐんでいたが、ひとつ深呼吸をしてから続けた。


「旅先で昔の話を聞いて可哀相って、そう思ったんです。自分とどこか少しだけど同じだなって、そう思ったんです。大人たちの勝手な都合で思うようにされて、人生勝手に運ばれて、早くに亡くなってしまったなんて、って。でも酷いと思います、私、忘れていました。そう思っていた自分のこと…。そう思ったことさえみんな忘れていました」

 (あの子を…あの男の子を忘れることはありません。忘れちゃいけない。ごめんなさい。思い通りにはしてあげられなくて。ごめんなさい。みんな忘れてしまってて、ごめんなさい。そう言えたらよかった…のに)

 「あの子は、悪くなんかない…んですよ」


 黙って聞いていた七色は、そこで聡子に尋ねた。

「悪く…ないんですか?」


 それを聞いていたであろう聡子の隣の席にいた女の子は、にこにこ嬉しそうにしていた。こちらの話に関係なさそうに、温かい紅茶をミツバチのお人形さんと一緒に飲みながらお喋りしている最中のようだった。


「悪くなんてありません。そりゃあ、痛かったけど、痛いけど、本当にそのせいなのかどうかもわからないけれど…。あの男の子、私に教えてくれてたんですよ、きっと…。今はそう思えるんです。

 どうなるのかわからないけど、この右足の痛みともうちょっと付き合っていこうと思います。今まで悪いことしか起きてないって、起きてることを毛嫌いしてきました。私に迷惑をかける酷いヤツだって、そんなのごめんだって。私が何したって言うんだ、って。他の人の健康な足が羨ましいって。この右足に…そう思ってました」

 聡子は右足を見て、膝周辺をゆっくりと撫でながら、ごめんなさい、と呟いていた。



「もう、寒くは無さそうですよ」

 七色は続けた。

「やがてきっと。いえ、男の子には、もう届いているのではないでしょうか? 聡子さんが思い出す彼のその姿が、今は…変化していますか? 石や岩のような姿のままいるようですか?」

 七色は目の前にいる女の子の顔を真っ直ぐ見ながらそう言った。

 (この子は知っているのだ)


 聡子は岩のように食い込んでいた塊だったものを、しがみついていた男の子の手を、声を、その姿を思い出していた。もうずいぶんと前のことのようにも思えたが、どれもこれもが実際はつい先ほど起きていたばかりの出来事だったのだ。


 さらに今は聡子の隣には、もうひとり居る。三人でお茶を一緒に飲んでいる。


「いくつかに分割されてバラバラになってしまっていた聡子さんの大きな一部を取り戻すために現場のひとつに今日は回収しに行きました。長い間そのまま忘れ去られていた過去の自分をひとつ迎えに行くことが出来ました。

 まずは、そこからが始まりです。

 これからは自分自身と一緒に過去の体験のいくつかのことを解いて乗り越えていきましょう。望むなら、望み続けるなら、それは可能なことです。

 もうこれまでの一人じゃ無くていいんです」


「あ、ありがとうございます、七色さん。

 私が向き合うことからずっと逃げてきていたのは…、母のことなんです。まだまだ思い出せていないこともあります。怖くないわけじゃありません。否定したくなることも沢山あると思うんです。

 でも自分が痛い思いをしたのに、同じこと、悲しいことを自分が自分にしていたんだ…って、今はそう思うんです。それもショックなんです。自分は、自分に対して、誰かに対して、無視したり、放置したり、それを当たり前みたいにすっかり忘れてしまうんだなって。それで自分は悪くないんだって、そう言い続けていたりもして…

 ただただ沢山のことから目を背けて、沢山言い訳ばっかり言って、そして忙しい、忙しいって、忙しいばかりを生きて来てしまいました、もうそれこそ長い間…です。

 本当に沢山のことを…です。それでも、今からでもいいなら、可能なら、ここから少しずつ。母もずっと待っていたのかもしれません、逢いたい人がいたのかもしれません。私は私の、過去に、もう少し向き合っていこうと思います」


「聡子さん、これからは、たった二人で一緒に歩いていってください。もう、たった一人、じゃないんです」


 くすくす笑いながら小さな手が伸びてきたことに気が付いた聡子は、その手を遠慮がちにそうっと握った。握ったとは言えないような触れ方ではあった。まだ恐る恐るなのだ。

 小さな手の持ち主の方は、そんな怖れなど全く無いようで、何が可笑しいのかくすくす笑っている。


(ありがとう…)

 しっかりと掴まれていた聡子の指先に少しずつ蘇っていくように力が入っていった。二人を包んでいる空気は柔らかく暖かだった。



 くったりしたミツバチのぬいぐるみの人形と一緒に二人が七色書房を出て行ったのは、その少し後のこと。

 書房から出て行く聡子の少し後ろで、急に立ち止まった女の子は、最後に七色の顔を見上げ、そして静かに笑った。七色はその目を見て、黙ってゆっくりと頷く。おそらくは声を出してしまった瞬間に姿を消してしまうだろう、女の子のその瞳に大いなる存在の姿を見ていた。


 早くと言わんばかりに聡子が笑顔で待っている。

 女の子は聡子の後を追うように離れないように、笑い声と共に飛び出していった。



(助けに降りて来たのは、切に願っていたから。そしてお話は続いていくのですね)

 手を繋いで一緒に帰っていく後ろ姿を店主は見送っていた。


 森の木々にやがて隠れて、二人の声だけが聞こえて来る。その声がだんだんと遠のいていく。すっかり聞こえなくなるまで、七色は森の中で二人のお喋りを見送っていた。街の生活の中で聡子の新しい挑戦が、自分の過去に向き合っていくという日々が、これから始まるだろう。


「どうぞ、地球でのよい一日を。いつでもお待ちしております」


(見たものは見たままじゃないことが多い。起きたことや起こしたことさえそのままじゃ無いことが多い。待っていたのは、呼んでいたのは、誰なのか、それは本当は誰なのか… いつだってそう。大いなる生命いのちは大役者ですね)



「あなたも」

(物語をお借りしたようです)


「どうぞ、よい旅を」

(ありがとうございます)


 やがて陽が落ちる夕暮れ。

 姿も声も無い遠い物語のその人に、空を見上げて七色は呟いた。




 ここ七色書房は、地球に住む存在たちが、うつらうつらと、あるいは深く沈むように、眠っている間に訪れることのできる場所。

(ご縁さえあればどなたでも)


「物語の持つ力を借りて、あなただけのこの人生の物語を紐解いていきましょう。

 昼の地球で、夜の宇宙で、まるごと一日、どうぞよい旅を。」





 完


 _____________________



 牡羊座20度での太陽、月、キローンが重なる日食の日。

 3月から書き始め、この日食に一通り書き終えた作品です。これが初めての小説となります。あとは最終チェックまであと少し。そして公開へ。続編は準備中。

 2024/04/09 

 第15話までを本日アップ。それなりに初めてのことってやっぱりドキドキしますね。

 2024/04/12

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