第13話「岩のように重たくなる足」⑤
「おマエなんか、オマエなんかッ、オレのほうが…もっとヒドイ…んだぞ。オレハ…ただしいんだぞ。マチガッテなんかいないんだっ」
小さな存在はそれ以上もう重たくなるのを急にやめたように見えた。逆にほんの少し大きくなったかのようでもあった。顔が少しだけ浮かんでくる気がして、そのままじっと見ていると、やがてそれは幼い子供、男の子の顔のように見えて来た。
それは目に涙を一杯に溜めて泣いている。泣いて堪えて、力一杯に目を見開いて、まるで一生懸命に怒っている。
「おまえはアイツじゃない。アイツはどこだ。アイツがどこかにイルはず、なんだぁーっ。おれをキラッテ、ニクンデいるんだからあっ」
言えば言うほどに小さな顔は血が通ったようにハッキリと濃くなっていき、それは他の部位にも徐々に広がっていくようだった。
小さなまだ三歳ほどにしか見えないような、その小さな男の子はその年齢と小さな身体付きには似合わずよく喋るが、言葉はたどたどしかった。そして顔を真っ赤にして目をつり上げて怒っていた。
けれど聡子の膝にしがみつくようにして強く握りしめていたままの手からは、言えば言うほど、怒れば怒るほど、逆に少しずつ力が抜けていっているのが見ていてわかった。
時間が経つにつれ全身に血が通い始めたかのように、固い岩から生身の人間の身体ように変化していく。固く結んでいた掌がじわりじわりと開かれていく。聡子は続く暴言を聞きながら見ていた。七色も見ていた。そうして掌が膝からもう少しで完全に離れてしまいそうになったその瞬間、七色は突然話かけた。
「光の方へも行けますよ」
七色がそう言うと、聡子もそうだ、そうだよと黙ったまま頷きながら、男の子の目を覗き込んでいた。見られていることに気が付いた男の子は、それを突っぱねて突き返すように言った。
「んなわけねえ。おれはサガスんだ。もうココにはようはねえやい。いなくなればうれしいんだろ。ウソツキっ。ダマシタな。オマエなんか…オマエなんか…、だいっきらいだぁ」
男の子はまた聡子に向って、見られていることをかなぐり捨てるように言葉を吐いた。吐くほどに、言葉は否定的で、冷たく、怖いもののはずなのに、逆に徐々にその印象はどんどん薄くなっていく一方だった。
言えば言うほど幼い男の子は人間の形そのものになっていった。手も足もどこもかしこも、もう塊ではないし石でも岩でもない。お地蔵さんみたいでもない。それは怒り続けている、まだ幼い一人の男の子だった。
全身が人の形になったことを見届けた途端に、男の子はその両方の手をしがみついていた膝からひとつずつを離して、聡子の膝からすとんと飛び降り、スタスタと距離を空けて離れ始める。こっちを見ない。手も足も、身体全部が自由に動くようになったようだ。今までは長い長い間、固まって岩のようになってしまって、身動き一つ出来なくなっていたのだろう。
「光の方へ…行けますよ」
(七色さんは、たしか…さっきそう言ってた…)
思い出した言葉を今度は聡子が男の子に、そう言った。
「ウソだい、ソレ」
「えっ」
男の子に見透かされているかのような、失敗したような気持ちに聡子はなった。
「オマエ、おれとイッショだからな」
一度こちらを向いて、そう言い残して男の子は再び振り向くことも無く、そのまま遠のいていった。暗闇の方へ姿は消えてしまった。そこに静けさだけが残った。
「えっ、あっ」
と言うか言わないかの間に、聡子の中に、グルグルと同じ言葉が巡った。
「オマエ、おれとイッショだからな。オマエ…オレトイッショ、ダカラ、ナ。イッショ、イッショ、オマエ…」
もう長く忘れてしまっていたのだろう風景の断片がバラバラに浮かび始め、自分の中に蘇ってくるのを聡子は軽い吐き気と共に感じ始めていた。
(あの頃…あ、やだ、気持ち悪くなってきた…)
それまでとはまた違った、気配の変わった聡子の口元からは、淡々と言葉がこぼれ始めた。
「手を伸ばしても、誰もいない。暗くなって夜がやって来ても、泣いても、誰も手を握ってくれる人なんかいなかった。夕ご飯の時間になると、町にあるどの家にも、どの窓にも電気が点いて明るくなって…。そこには人影が映ってて、お父さんやお母さんや子供たちの声が聞こえてきて…。私は一人なのに…。やがて美味しい匂いがしてきて、匂いを嗅ぐと、だんだん悲しくなって、怖くなって、部屋のすみっこで、涙が止まらなかった…」
(どうして…どうして…わたしはひとりなの…?)
毎日毎日、確かにそう思い続けていた昔の自分のことを聡子は思い出し始めていた。朝から晩まで長い時間をずうっと。来る日も来日も…ひとりで…。
「私の…お、おかあさんは…」
そう口にした途端、何か大きなものを吐き出しそうになって、慌てて飲み込んだ。
「うぐっ」
溢れ出てしまいそうな何かを、今はまずいとばかりにぐっと力技で飲み込んだ。
男の子の姿はもう無い。けれど、暗闇の方のどこかから、ぽそっと聞こえるような言葉が聞こえて来た。
「オレ…アキラメナイからナ、マダ」
言葉はだんだん遠のいて、ついには本当にどこかへ消えていったようだった。それが最後だった。
(もう…、行ってしまいましたね)
七色は次の準備に入ろうとしていた。
何かを言いたそうな聡子を待たずに次の場所へ、と向わせ始める。
「今、聡子さんにとっての一番必要な場所へと、移動してください」
何かを言いたいが吐き気が波のようにやって来る。耐えることで精一杯で考えることができないまま、目の前の風景が動き始める。何処かへ。
(ああぁ…どこへ…きもちわる…い…)
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