第12話「岩のように重たくなる足」④
しばらくの間、沈黙が続いた後、聡子がぽつりぽつりと話し始めた。
「約束をしたじゃないかって、たぶん、そう言っています。
ずっと一緒に居るって、約束したのにいなくなるなんて…間違いだ…って。
間違ったものは正しくしないと。
時間を返せ。
元に戻せ。
やるべきことを、やらなきゃいけなかったことをやれ。
謝れ。悪いのはお前だ。おれじゃない。
そう言いながら少しずつこの石が重たくなっていくようなんです。膝がイタッ、うっ」
痛みを感じながら、聡子はさらに少しずつその存在に同調していった。
七色も同じものを見て、そして聞いているようだった。聡子は七色をいつのまにか信じていた。この出来事には何か意味があるのだろうと、冷静なままの七色の顔色を見て、心臓のバクバクが少しは落ち着いていくようだった。
「大丈夫ですよ。さぁ深呼吸をしてください」
七色がさらに見たところ、そのくっついている存在にとっての約束の相手というのは、どうも聡子では無かった。どこかしら似てはいるけれど違う人のようだった。時代も古く、ここ最近の話でも無い。しばらく前の時代の日本の、とある思いを持つ者の物語がそこにはあった。聡子は、その物語とどこかで気付かない間に出くわし、知らず共鳴してしまったのだろう。
同じものを聡子もまた見ているようだった。
(あ、これ、知ってる気がする…)
「これは、あの旅行先で…出会った…」
「そう、半年ほど前、旅先で古くからあるどこかの場所へ行かれましたね?」
(さぁ、出ておいで)
聡子が共鳴してしまったものは何なのか、それが重要と考えた七色は、岩のようになっている小さな存在に意識を再び向けた。
(…、もう少し…あなたは誰?)
何処で出会ったのか、お地蔵さんにも見える小さな岩の塊に問いかけるように七色は言った。
「はい。聞いてみます」
静けさがまたやって来る。
けれどコトは起き始めていた。
(今だ、来た!)
そう感知した七色は「はいっ」とひとつ声をかけた。
釣り場の水面で浮きの動きを見ているかのように、魚が水中で餌のついた針をつっついて何度か沈むように、ついにとうとうしっかりとエサに食いついた瞬間の動きを見逃すことの無いように、その瞬間に、先へと促した。
しばらくするとじっとしていた聡子が動いた。椅子の大きな背もたれに全身を預けるようにして目を閉じたまま、首を左右にゆっくっり振りながら片言の日本語のように、喋り始めるのだった。
喋り始めたそれは、たどたどしく、集中して聞こうとしなければ言葉でもない。
意味を表わそうとしていない濁った音が続く。冷たく固まって凍結してしまったようなギシギシしたそれは、少しずつだが熱を帯びてゆっくり溶け出し、崩れていくように溶解していくように思えた。次第に人の言葉、意味を持つ言葉の体を表わし始める。
「はな、しを…きい、てくれ…たじゃない、か。カワ、イソウ…だって…いった、じゃ…ないか…」
合間に聡子は首をゆっくりと左右に振りながら、喋っている。聡子であって聡子では無い、そういう状態が起きているのだ。喋り方も違い、声質も先ほどまでの聡子とは違っている。
「…メンドウ…を…みて…くれる、んだろ。ヤク、ソク…は…まも、らなきゃ…いけないて…よ。それ…が…ただし…い…こと、だ、から…」
「うう…ん」
その存在に抵抗しているのか、首を振りながら時折眉間にしわを寄せて、苦しそうにしている。
「……マチ、ガイは…ダメ。あ、やまれ…よ…う…お、れ…は…ワル、く、なんか…ない、んだ、からっ!」
黙り込んだと思うとしばらく沈黙が続き、今度は聡子が自分が見てる状況を話し始める。それが繰り返されていた。
小さな重たい存在は最後振り絞るようにそう言って、より聡子の膝に食い込むようにしがみついて、泣き出した。
深緑色の苔や神社の鳥居、古い時代のとある日本の町の風景が見えて来る。遊ぶ子供たちの声、さらに女性の声で今度は歌が聞こえて来た。伴奏などは無い。数え歌のような単調なまま続く歌。ゆっくりとした調子で続くそれは、子守歌のようでもあった。子守歌、おそらくそうなのだ。
「アア、イヤダ…、イヤ…ダ。うそ…つき…はきらい、なんダ。どうして…ス、て、た、…んだ…アイツ…は」
先ほどより、放つ言葉はより言葉らしくなってきたように思えた。
「もう少し、もう少し話を聞いて、いいですか?」
今度は聡子の方からそう言ったので、もちろんと七色は答えた。
(吐きだして…大丈夫だから…)
その存在に、七色もそう意識を向けていた。
より食い込んで重たくなっていこうとしている小さなその存在は、先ほどよりも小さくなっている。だが先ほどよりもずっと重たくなっていた。
「うっ、ううう。つぅー」
聡子は声を殺しながら、奥歯を噛みしめて痛みに耐えていた。
「続けますか? やめることもできますよ」
店主のかけて言葉に彼女は即答する。
「いいえ」
聞こえてきていた数え歌のような子守歌。それをどこかで聞いたような気がしていた聡子は、小さな声で呟きのような歌とも言えないような言葉でたどたどしく歌い始めた。確かにその歌を聞いたことがあるのだ、どこかで。
(どこだったっけ…?)
「ちガうッ。お、マエ…オマエ…じゃない。おまえじゃないっつ! そんなウタイカタなんか…じゃ、ないっ。ナインダッ。チガウ…じゃ…ないかっ。ヤメロ…ヤメロッツ、ヤメローッ キキタクナイッ」
小さく固くなっていくその塊の存在は、続けて歌っている聡子の声を聞いてさらに怒り出していた。
「チガウ、チガ…ウよぉ。ナンデだ…よぉ。ナンデ…ナンデ、なんだ…よぉ。ナンデナンデ…ナンデナンダ…ヨォ。またチガウの、カヨぉ。ヒトちがい…か、よぉ。トオイ…なぁ。ナガイ…ナァ。イッタ…イ…イッタイ…どうシタラ、シタラ…イイッテ、イウんだよぉ。ヤメロよぉー。キキタクナイッテ、イッテンダ…ロウ!」
そう言うと黙ってしまった。
聡子は目の前で怒り狂っているその塊のような岩の存在の叫び以上に、自分の中にどこからか帰って来るような、遠いところからの何かを思い出すような、別の方角からの感覚の方に惹かれていった。その感覚を辿るように糸の先を掴もうとするように、ぽそりぽそりと歌い続けていた。
(遠い昔に聞いたことのある、誰かに歌ってもらったことのある、それは確か…優しい歌だった、けど…)
「お、か…あさん…」
ふいに口元からこぼれた音があった。
自分の口から出た、思いがけないその音を聞いて、聡子は自分の身体に小さく雷が落ちたような、電気が走ったような気がした。
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