第10話「岩のように重たくなる足」②


 ここはカフェではあるが、お茶を飲むためだけの場所では無い。店主の七色と話をする時間を過ごす、そんな場所。本が無いのにも関わらず、ここは書房である。


「まずは、お茶をどうぞ」

「あ、ありがとうございます」

「初めて、ですね」

「あ、はい。すみません、急に来てしまって…」

「大丈夫です、ご予約はいただいています」

 店主の言葉に驚いた女性は目を見開いている。

「えっ?」

(えっ? そんな!)

 店主は続けた。

「必ずしもお名前は結構です。ここ七色書房は日常から離れたところへ旅をするための場所。お客様の持っている沢山の物語のこんがらがった糸のようにダマになっているような場所へ行き、そのひとつずつをほどいていくような、そんな旅をするお手伝いをしている場所です。そして旅の案内役をさせていただいておりますのが私、七色書房の店主です」

「そっ、そうなんですか…、でも私、約束…予約はしていな…いんで…」

 最後の方は声も言葉も小さくなってしまった。もう少し話を聞いてみたくなったというのも本当だった。

(いったい何が起きてるんだろう…、そもそもここはどこ? 私はなぜここに?)

 女性には七色書房の店主と名乗る存在は、自分よりも十歳程度年上の、自分と同じ女性に見えていた。この人なら何か知っているのかも、一瞬そう思った。


「七色書房では、私は七色(なないろ)さんとか七(なな)さんと呼ばれることが多いのですが、お好きなように呼んでください。あと、ちゃんと、ご予約はいただいておりますので、ご安心ください」


 目の前の店主が自分の方を見てそう言っている、そのまっすぐな瞳に見られていることに小さくびくっとしながら、予約のことはわからないままだが、自分も名乗る必要があると感じた。

「あっ、はい。あの、私は聡子(さとこ)です。よろしくお願いします」


 七色は軽く頭を下げ頷いた。

「聡子さん、今日はそのぬいぐるみ、人形をお持ちなんですね」

 七色は彼女の膝の上にちょこんと乗っている、ぬいぐるみの生地で出来たやわらかそうな人形を見ながら言った。

「えっ」

 急に自分の方にある持ちものについてのことを言われて驚いた聡子は、膝と両方の手を確かめるように見ている。確かに自分の膝の上には、いつの間にかくったりと疲れたようにしている小ぶりの人形が一体あった。自分の左手がいつの間にかその人形に添えられている。それは確かに知っている人形だった。

「なぜ、ここに、今…」

(どうしてこれが?)

「先ほど一緒に入ってらっしゃいましたよ。その人形を左手に抱えながら」

「えっ、そんなっ、そんな馬鹿な…」

(もうとっくに無いはずなのに…)

「大丈夫です。何ら不思議ではありません。ここではよくあることですから」

 店主の当たり前のことだというような扱いに、聡子はそのぬいぐるみの目をじっと見つめた。よくよく知っている人形だった。

「ずいぶん昔に大切だったんです…大好きだったアニメの主人公なんですけど、ぬいぐるみみたいな生地のこのミツバチの人形は、ずっと旅をしているお話だったんです。やわらかくて好きだったんだけど、それ以上に、行く先々で結構酷い目に遭うんですよね、このミツバチ。ずっと一緒にいたんです。でもいつの間にか…」


 ティーカップが目の前のテーブルに置かれ、充分にポットの中でくるくる舞いながら広がった茶葉を確認しながら、店主はやがて静かに聡子にお茶を注ぎながら続けた。


「遠いところにある、もう忘れてしまったような何かを、あるいは懐かしさを感じるような、今日は、冬の匂いのする日へと帰る、そんなブレンドティをご用意させていただきました」

「…冬の…匂い…? 」

(まさか、そんなお茶などあるわけない…。変なことばかり、さっきから何を言ってるのだろう? この人は詩人的な…そういう趣味の人なのかしら…)

 聡子はそう思いながら、草原が広がっているような絵柄の入ったティーカップに手を伸ばした。小さく描かれているいくつもの白い花をひとつ、ふたつ…と数えたい衝動に駆られたが、そんな一人の時間は無さそうだった。


 七色はその日のその時のその人に合ったお茶をブレンドして出すことを仕事だと考えている。時々に七色書房に来る人たちに合ったお茶を入れている。

「今日は地球では日食。ところによっては皆既日食ですね」


 聡子には七色の言ったいくつかのことが繋がらず、いったい何なのか、さっぱりわからないままいた。


「でも、冬の匂いのするお茶、だなんて、ね。どんな味かしら?」


 不思議そうな顔をしながら、そうっとティーカップを手に取り、カップから上がっているお茶の湯気にまずは顔を静かに近付けた。

 何度か匂いを吸い込んで、出されたものに安心したのだろうか。深呼吸は何度か続いた。

(案外普通? 変な味もしないし、変わった匂いもしないわ)

「いただきます」


「どうぞ。帰り道はご案内しますのでご心配なく。ゆっくりなさってください」


 そう言われてさらに落ち着いたのか、聡子は特別刺激的な味がするわけでは無いそのお茶を楽しむことにした。お茶のことはさっぱりで詳しくないが、紅茶であることだけはわかった。何度か口にしているうちに身体全体がじんわりと温まってきて、荒かった呼吸は少しずつ落ち着いて来ていた。

「ふう…」

 時折小さなため息をつく度に少しずつ力が抜けていくようだった。


 七色は、すでに用意していた一冊の布張りの本を彼女の前にスッと置いた。


「この本は… ?」

(緑色の…布張り…重たそうな本だわ)


 そう思った聡子の声を聞いたのだろうか、七色はほんの小さく口角を上げて言う。

「今日これから…紡がれていく大切な聡子さんの本なのです。必要なことは開かれたり、自動的に記録もされていきますから、何もしなくて大丈夫です。ただここに、今は側に置いてください」


「今日… これから…??? 私の? 本?」

(またまた…何のことだか…)

 気が付かない間に少しずつ全身が緩んできたのだろうか、それともわからないことが多すぎてなのだろうか、聡子は眠気を感じ始めていた。

(こんな時に…初めて会った人の話を聞きながら失礼、何しろ自分は道に迷ってここにいるはずなのだから…)

 聡子は、あくびをひとつゴクリと飲み込んだ。そこまでのことは覚えていた。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る