第9話「岩のように重たくなる足」①

 街の方向から森にある七色書房の入口に向って小道を歩いて来る、その一人の女性は、見るからに右足を少し引きずっているようだった。ほんの少しだが身体全体の動きから右足だけがタイミングが遅れて重たそうに、窓の外を見ていた店主の七色にはそう見えていた。


 ここ七色書房を訪れた人たちは、普段の生活の姿とは違っていることが多い。そのまま似ているという人もいるが、その人の生命エネルギーとしての「その本来の姿」に近い形で現れることになりやすい。社会活動によって作られていった地球生活でそれぞれが着込んでしまったものは、本当の自分自身にとってはあまりに重たくて、実は無自覚なところで大きく無理をしていることも多い。しかし、そうしないといけない場所、という多くの人たちにとっての共有されている「常識」「ルール意識」「正しさ」というようなものがそうさせているらしい。簡単に脱げなくなってしまっている服をいかに一枚ずつ軽くしていくことができるか、多くの人たちにとってそれはおそらく課題である。だが、それが課題であること自体に気が付いていないのが現状の多くだ。しかしその効果、代償というものはある。街の時間ばかりを重要視して生活し、森の時間を生きることを見失ってしまうと、それは随分と地球生活そのもが心身においての疲弊を招きやすいものになってしまうらしい。

「まるで生命をすり減らしてるみたいに」という言葉を七色書房を訪れた人から前に聞いたことがある、店主の七色はそんなことを思い出していた。


「オンとオフのように。片方では無く両方の世界を」

 七色がそう言い終えるのと同時に、書房の入口の扉が開いた。


 ころんからん、からん

(入口扉の鈴の音)


 息を切らしながら入口の扉を開けて七色書房の中へと入って来たのは、一人の黒髪の女性らしき人だった。ショートボブでストレートヘアの二十代後半に見える女性。ただしこの「二十代後半に見える」という年齢は確かなものでは無い。たった今そう見えている女性の姿が地球でそのままの「女性」なのかどうかも決めつけることはできない。

 なぜなら先にお話した通り、ここを訪れる存在たちは、それぞれの普段の日常生活での姿形とは違う状態となって登場することが多いからである。随分と容姿が変わったり年齢が変わっていたりするのも当たり前だが、本人たちはその自分の姿には気が付いていないことも少なくないのだ。


 二十代後半に見えるその女性は、ヒンヤリとした冷たく吹く風と共に七色書房の扉を開けて入ってきた。まるで冬の空気を持ち込むように。


「七色書房へ、ようこそ。いらっしゃいませ」

 この店の店主である七色は書房に日々やって来る人たちを同じように出迎える。冷たい空気をまるでコートのようにまとっているかのような女性に、いつもと変わらぬ挨拶をする。


「あ、の、歩いていたら、こちらが森の方に見えて来たので…何してたんだったか…私、いつの間にか知らないところにいて、迷ってしまったみたいなのですが、ここは?」


「ようこそ。こちらへゆっくりと、どうぞ」

 重たそうに足を運ぶその女性が急ぐことが無いように、七色自身がゆっくりと一歩ずつ足を進めて店内へと誘導する。


 七色書房は名前の通り本屋ではあるが、ここには本は無い。よくあるような数々の本がずらりと並ぶような書棚も無いが、肝心の本が一冊も無い、そんな森の中の一軒屋の本屋である。「七色書房」という店名と店内の模様が合わないことを最初は不思議がる人もいるが、それはこの七色書房に滞在している間に解消されてしまうことになるので、謎とも呼べない謎である。


 店内には、ゆったりと座ることの出来る4人掛けの来客用のテーブルセットがいくつか用意されている。カフェのようでもある。とは言え、ほとんどの場合いつもここに居るお客様は、一組様のみ。BGMも無い、他の誰もいない店内は静かだった。

 店主はその中の一番入口に近いテーブルの方へと案内する。


 女性はゆっくりと、足を少し引きずりながら、何度か身体の向きや角度を変えつつ身体を支え直し、ようやく椅子に座った。足が痛むのか、ふうーっとため息を付く。

「もう、忙しいっていうのに、ずっとこうなんです」

 思うように動いてくれない右足の方を見て、苛立ちながらそう言った。

(すみません…、かっこ悪くて…すみません…、迷惑かけてしまって)

 七色にはそちらの声の方が聞こえていた。


「しばらくお待ちください」


 女性の出した言葉には返事をしないまま、七色はそう言うと、いつものように店の奥にあるカウンターの中に入り、お茶の用意を始める。

 いくつかの種類の茶葉をささっと選んでティーポットに入れた後、手際よくすでに適温に沸いていたお湯を注ぎ、その音は静かな店内に響いた。

 それから背後の壁面の方を見る。

 コレクションのようにカウンターの背面、天井までの壁面に並ぶのはひとつずつが皆違っているデザインのティーカップ&ソーサーたち。中にはコーヒーカップやマグカップもある。

(ん…、これですね)

 今回のカップは七色が選んでいた。

 迷うこと無く、気になったそのひとつを選んで木製のトレーに乗せた。そのひとつのティーカップとソーサーの模様は、若草色の草原のような風景に小さな白い花が咲いているデザインのものだった。


 テーブルにソーサーを置き、次にカップを、最後に小さなティースプーンを添えて七色は言った。


「少し…お話を聞かせてください」


 そう言うと、緊張していた女性はごくんと唾を飲み込み、急に背筋を伸ばしたが右足からの痛みは他の部位にも広がっているのだろう。腰から足に向ってを両方の手でさすっていた。

 向かい側の席に七色も座った。

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