第4話

 西暦二一九七年。世界中に突如としてダンジョンが出現してから一世紀が経った頃。

 東都の浅木地区にあるダンジョンでは、変異個体による探索者の死傷が確認されていた。異変は浅木地区の周辺地区でも確認されており、その多くは中層や下層といった複数名での探索が推奨されている階層であったため、探索者自身の油断や実力不足が槍玉に挙げられていた。

 だが、上層ともなれば話は変わる。上層は半人前探索者の鍛錬の場所だ。ただでさえ人材不足が謳われている探索者業界にとって、見習い探索者の損失は後継にも大きく関わる。


 なにより、七年前に初めて確認された『奈落』と呼ばれる闇の穴が出現したときにも同様の異変が見られていた。『四国事変』の再来ではないか、と末端の現場ではまことしやかに囁かれている。

 変異個体が大量に流出し、見たこともない化け物が徘徊し、さらには四国と瀬戸内海を挟んで対極にあった陸地の一部をごっそりと削り取るようにして闇の穴に飲まれた一連の事変の原因は未だに解明されていない。

 研究機構としては早急に本格的な調査を行う方針だが、研究機構の探索者だけでは人手が足りない。東都『エフィシア』の管理運営をしている連盟の協力は必須である。


 その調査がいつになるかはまだ不透明だが、機構とて何もしないで手をこまねいているわけではなく、清巳のように日常的にダンジョンに潜っている機構所属の探索者には可能な範囲での情報収集を依頼されている。

 その一環としてデータを提出した際に聞き取り調査も行われた。そして、いつものように、最近続発している変異個体の出現に関する調査に加わってくれというお願いを清巳はなんとか拒否して、だが、捕まってしまった。ひとりの女性に。


 曰く、ダンジョンのどこかに絶対いるはずだから、あの少女を引きずってでも連れて帰ってきてほしいという、ごく個人的な話だった。

 組織を通さない非正規の保護依頼。怪しさ満点のそれを断るのは当然のこと。だが、かなり食い下がられ、週末に彼女に関する詳しい話を聞いてから判断することを条件に、ようやく解放されたのだ。

 いくら十キロほどの距離で、安全第一で走れば二十分程度で帰れる距離とはいえ、出る時間が遅くなれば着く時間も遅くなるのは必然。結局、家に着く頃には日付が変わってしまっていた。


「ただいま」


 疲れた声で清巳は言った。

 煌々とともる電気。普段ならば寝ている二人が起きているその理由も十二分に把握している。


「きよ兄!」


 玄関に上がった清巳に、リビングの奥の部屋から飛び出してきた少女が飛びついた。

 それを苦もなく受け止めて、しがみつく妹の頭を撫でる。


「ただいま、明美。遅くなってごめんな」

「おかえりなさい。……よかった、帰ってきた……っ」


 悲痛に震える声が清巳の胸をつく。


「ごめん」


 リビングに繋がる扉の前に立ち、しかめっ面で睨みつけてくる弟にも謝罪を送った。


「克巳も。遅くなって悪かった」

「謝るくらいなら早く帰れ。あと遅くなるって連絡が遅い」

「ごめんって。あそこまで捕まるとは思わなかったんだよ」


 清巳は疲れた声で肩を落とした。


「明日も学校なのに、遅くまで待っててくれてありがとな。ふたりとも眠くなったら早めに寝るんだぞ」


 素直に頷いて離れる妹の髪が指先を通り抜けて、彼女の胸元にぱさりと落ちた。その一房を背中にそっと払いのけ、俯く妹の頬を撫でる。

 あからさまなため息の音に清巳は顔を上げた。

 克巳が眼鏡を押し上げながら背中を向けてリビングへと入る。年相応に素っ気ない態度に苦笑しながら清巳は家に上がった。洗面所で手を洗う様子を廊下から見つめる妹に濡らしたフェイスタオルを差し出す。

 彼女の僅かに赤らんだ目も愛らしいが、明日に差し障る。

 素直にタオルを受け取った明美の、空いている手を握りしめてリビングに戻る。


「漬けてあるから」


 どん、とテーブルに置かれた海鮮の漬け丼。すでに冷蔵庫から取り出されて広げられているおかずが三種小皿に取り分けられている。

 つんけんとした態度に懐かしさを覚えながら、清巳は礼を述べて席についた。右の椅子には明美が着席する。


「いただきます」


 しっかりと漬け込まれたマグロを口に放り込んで、清巳は頬を緩めた。

 白米を刺身で包み込んで食べる。

 舌に広がるタレとマグロの濃厚な味。それに絡む白米もほどよく味がついていて、美味しいと言うほかない。

 右横の椅子に座り、じっと手元を見つめる明美を横目で見て、刺身を小さく箸で丸める。無言で口元に差し出せば、きらきらと目を輝かせて妹は漬けマグロ巻きに食いついた。

 頬を両手で押さえて特上の笑みを浮かべた明美が右手の親指を立てる。

 それに丼をテーブルに置いて、左手で親指を立て返した。


「甘やかしすぎ」


 清巳の左手に広がるリビング。そこに置かれた年代もののソファに腰を下ろしている克巳が目を眇めていた。


「太るぞ、そいつ」

「そんなことないもん!」

「どんな明美でも俺の可愛い妹だから大丈夫だ。克巳もな」

「キモい」


 混じり気のない率直な拒絶に苦笑した。

 反抗期に入ってから口調がかなり雑になったが、それでも優しい弟であることは知っている。少々性格がひねくれたのは残念ではあるけれども。素直で可愛かった弟も好きだが、反抗期はちゃんと育っている証し。寂しくはあるが、嬉しくもある。

 清巳はサラダに手を伸ばし、オクラを口に放り込んだ。そして一口サイズに切られているトマトとオクラを一緒に箸でつまみ、妹の口へ運ぶ。


「はっ、だっせえ」


 鼻で笑った克巳を、清巳はじっとりと横目でめつけた。

 わかっていてやっているのは知っていた。それは許す。だが、こうも挑発されるのは可愛い弟とはいえ、いささか癪に障る。


「覚えてやがれ」

「やれるもんならやってみろ」

「喧嘩?」


 眦を下げて弱々しい声で尋ねる明美の方を向いて、清巳は首を横に振った。


「なんでもない。眠そうだな」

「ねむくない」


 目をこすりながらも、断固として認めない妹に苦笑した。

 椅子に背中を預けて明美が力なく座る。清巳は箸を置いてその頭を撫でた。

 食事に戻ろうと離した右手が掴まれた。その手を自らの頭の上に置く明美に目元を和ませ、清巳はもう一度ゆっくりと頭を撫でる。

 それほど時間が経たないうちに、案の定、明美は寝息を立て始めた。

 ちらりとソファをみると、ちょうど克巳も大きな欠伸をこぼしていた。


「克、片付けはするから寝ていいぞ」

「……捨てたらわかっからな?」

「いくらなんでも捨てはしない。食ってくれるなら喜んでやるが」


 鼻で笑った克巳は立ち上がった。

 清巳はしかたがないと言わんばかりに苦笑し、次の瞬間には表情を真剣な者へと変えて克巳に告げた。


「念のためだが、持ち出したい荷物はまとめておいてくれ」

「調査はまだだろ。さすがに気が早すぎないか」

「最悪は想定してしかるべきだ。……何も持ち出せないまま逃げるよりはずっといい。明美には朝にでも伝えるよ」


 眉間にしわを寄せて唇を引き締める弟に、申し訳なさげに眦を下げた。


「本当に、今日はごめんな。おやすみ」

「…………るっせえ」


 最後まで連れない態度で克巳の姿が二階に消える。

 寝落ちした妹と残された清巳は小さく肩を落とした。


「似なくていいのにな、反抗期」


 とはいえ、反応が返ってくるだけ昔の自分よりましな態度である。

 明美に向き直り、両腕で抱え上げた。二階の彼女の自室へ運ぶ。

 そっとベッドに横たわらせて薄手の布団を肩まで掛け、穏やかに眠る妹の頭を撫でる。


「心配かけてごめんな。何があってもふたりのもとに帰るよ、絶対。――おやすみ」


 決意を新たに清巳はそっと妹の部屋を後にした。

 リビングに戻り、渋い顔をして卓上を見下ろす。海鮮丼は残り少ない。三種類あったおかずのうち、二つはすでに空だ。


「こんな嫌がらせ、どこで覚えたんだよちくしょう」


 しかめっ面を作りながら着席した。箸でつんつんとトマトをつつく。

 そして、意を決した顔でオクラとトマトのサラダを飲み、海鮮丼をかき込んでなんとか食事を終えた。

 使った食器を片づけたらさっとシャワーを浴びて、清巳は廊下の奥にある和室に足を運んだ。

 床の間の上。ひと昔以上前に存在した、仏壇と呼ばれるものの前に足を崩して座る。

 その佇まいが気に入ったと、祖父がどこからか購入してきたものらしい。ただ、仏壇に置かれる道具は一切ない。扉を開いた中、胸元くらいの高さにある棚に写真が二枚飾られている。

 これまた祖父が、わざわざ紙に印刷して飾るという古風なことを好きでしていた時の名残だ。

 データ自体は克巳も明美も持っているため、この仏壇を開く頻度は清巳が一番高い。

 その写真を前に両手を合わせた。瞑目して祈りを捧げた清巳はゆっくりと手を下ろし、ぎゅっと眉根を寄せた。


「あの子がいなかったら俺は間に合わなかった……、救えなかった」


 弟妹の前では見せないほの暗い顔で清巳は弱音を吐いた。

 さあさあと雨の降る音が窓から聞こえる。梅雨入り宣言はまだだが、近づいているのを思わせるような湿度の高さに空気が澱む。


「贖いにもならないよな、こんなの。……やっぱり、俺は二人でいっぱいだな」


 目を閉じて目頭にぐっと力を込める。膝の上で拳を握りしめた。

 遺された苦しみを、なにも帰ってこなかった悲しみを、怒りを、清巳は知っている。形見と言えるようなものが帰ってくることが幸運であることも。


 ――……。


 耳につけたままにしているピアスに触れた。

 日常的に使う者がいなくなり侘しさを醸す室内に、深呼吸が響いた。緊張させていた筋肉を弛緩させて、清巳は瞼を開く。

 手にしたポーチから、愛用の剣と手入れ道具を取り出した。黙々と手入れ作業を行い、片づけて仏壇をまっすぐに見据える。

 もう一度両手を合わせて短く黙祷した。


 ――……。


「じゃあ、またな」


 ぱたりと仏壇の扉を閉じた。





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