第9話

 最初に、左手の中指の先端がクラックに触れた。


 その瞬間、リヒターの意識と時間間隔が引き剥がされた。


(いま、俺は何を)


(そうだ、クラックに投げ込まれて、それで)


(死……?)


 いや、今こうして試行しているのか確実にリヒター自身。まだ死んでいない。だが、この奇妙な感覚はいったいなんだ?


 中指の先端、皮膚に激痛がある。大きな岩に挟まれているかのような激痛が指先0.1㎜から発せられている。しかし、同時に何も感じない。痛みはおろか、喉の渇き、飢え、口や耳の中の異物感、血だらけのはずの足、なにもかも感じない。


(俺、どうなってしまったんだ)


 先ほどまでパニックで訳が分からなくなっていたのがウソのように、今は落ち着いている。喜怒哀楽すべて自分の隣にあるような不思議な感覚に包まれる。


 どれくらいの時間が経ったかもわからない。指先だけだった痛みは本当に少しずつ広がって、今では左半身がほとんど激痛に襲われている。しかし、痛くない。そんなときだった。

 

「儂の体感ではお前が投げ込まれた瞬間に助けに来たのだが、お前の体感ではそうじゃないみたいだな」

「ヤサイ!どうしてここに!」


 いつのまにか視界がハッキリしている。袋をかぶせられているはずなのに周りの様子が見える。そして、リヒターの目の前には兎が浮いている。


「助けに来たと言っているだろうが。とはいっても、この状況のお前を元居た場所に戻しても殺されるだけだろう。だから、今からお前を魔力でつくった防護繭で包む」

「防護繭……?」

「ここは魔界。すべてを魔力が埋め尽くす空間と時間が潰れて混ざり合った場所。お前の腕や足はすでに魔力で押しつぶされている。だから、なるべく多くの魔力をお前ごと包み込んで繭にする。魔力は魔力をつぶせない」


 魔界は魔力で満たされた世界。密度だけが存在し、質量は存在しない世界。魔力以外の存在を拒否する。つまり。


「その繭にくるまれていれば、いずれクラックから世界に戻ってこられる」


 魔界と世界は隣り合った概念。クラックは魔界で満ち過ぎた魔力と、世界で満ち過ぎた生命がそれぞれ逃げ場を求めて生まれた次元の裂け目。


「魔界にいる間は歳も取らないようなもんだ。ここに居る間、お前は世界に戻ったらやりたいことをいくらでも考えておけ。食べたいものについても考えておくんだ。人間の人生は時間が進んでいる中でそういうことを考えなきゃいけなくてとてもせわしない。だから、お前はここに居る間にいろんなことをしこたま考えておくんだ。いいな」


 リヒターはヤサイの有無を言わせない雰囲気に頷くしかなかった。言葉の端々から、ヤサイから異様な雰囲気があった。それは、例えるなら今生の別れかのような。


「よし。長い旅になるだろうが、ベルクラフトだって人生の半分は旅をしていたんだ。お前の冒険なんてまだまだちっぽけなものだ」


 ヤサイの輪郭が崩れていく。兎の姿が歪み、大きな卵のようになってリヒターを包み込んだ。


「良い旅を」


 最後にそれだけ聞こえると、体中の痛みが消えた。空腹も眠気も来ない魔界でひとり、リヒターは思索にふけり続けた。



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