君の色を見せて

一河 吉人

君の色を見せて

「いやー、いい映画だったねぇ」


 まだ冷めやらぬ興奮に体温を上げたまま、チョコレートケーキの角を切り崩す。


 最近ネットで評判のやつ、どう? と誘われた新作映画、どんなもんだと連れ立ってみたらこれが思いの外に良作だったのだ。私達は買い物の予定を急遽変更、映画館を出たその足でカフェでの感想戦となだれ込んだ。


『君の色を見せて』


 新進気鋭の若手監督(40代前半)渾身の最新作は、主人公の不思議系青年が各地を訪れながら人々の悩みを見抜き、本当の願いを引き出していくというロードムービーだ。


 人種、性別、家族、生まれ、貧困――様々な抑圧に苦しめられている登場人物たちに「さあ、君の色を見せて?」と問いかけ、秘められた思いを開放する。ファンタジー設定ながら現代的な問題に切り込みつつ、しかししっかりとしたエンターテイメントとして成立させている手腕は見事で、観念的な部分が多めなのは好き嫌いは出るだろうけど話題になるのも分かる出来だった。


 公開前はそんなに期待されていたわけではなかったが、ネットの口コミで評判が広がり上映館もどんどん拡大しているという。ま、私達もそんな盛り上がりにつられた2人なんだけど、流行りって乗ってみるものだねえ。


 心に蘇る、あのシーンこのシーン。楽しい映画に美味しいケーキ、これ以上の贅沢はない。


「……うん、そうだね」


 なのに、スプーンでコーヒーをかき混ぜる彼の反応はかんばしいものではなかった。ああいった思わせぶりなセリフの多用は隣のコイツが好きそうだな、なんて思いながら観ていたので意外だ。


「あれ? 面白くなかった?」

「いや、そういうわけじゃないんだけど」

「なんだか煮えきりませんなあ」

「いや、いい作品だとは思ったよ。確かに評判になるのも分かるなって、これは本当」

「にしてはテンション低くない?」

「それは、こっちの問題というか……」


 彼はカップに視線を落としたまま言った。ん、プライベートの何かか?


「よく分からないけど、聞いても大丈夫なやつ?」

「あ、別に大したことじゃないんだよ」


 ぐるぐると回るコーヒーを眺めていた彼は、やがて意を決したのか白状した。


「ほら、買い取り価格やバイト代なんかを上乗せするのに『色を付ける』って表現があるでしょ? 実は、鑑賞中ずっとその言葉が頭を離れなくて……」


 ……。


 ……ほう。


「つまり、主人公の『さあ、君の色を見せて』って決めゼリフを、利益供与の要求か何かだと思いながら観ていたと?」

「う、まあ……」


 彼は小さな声で返事を返すのが精一杯だった。なんという男だ、あの感動的超大作、今年最大の話題間違いなしの歴史的傑作を、そんな下品な考えで観てしまったなんて!


「私がいい話だなあと胸を熱くしていた横で、主人公のことを各地をふらりと訪れては袖の下を強要する腐敗国家の巡視官みたいだと思っていたと?」

「はい……」

「決して具体的な証拠は残さず、しかし『色』という単語を巧みに利用して相手の自発的な饗応を引き出す欲深くも保身に長けた、悪徳が服を着たようなゴミクズ野郎だと思っていたと!?」

「そ、そこまでは言って……いや、言ってるのかな……?」


 彼は自責の念に耐えきれず、ついに顔を背けるに至った。


「まったく、ひどい男だねえ」

「返す言葉もございません」


 鑑賞態度は自由とは言え、あまりに斜に構えた見方は制作者に失礼というものだ。作品に臨むに当たっては虚心坦懐が正解、変に思考をこねくり回し上手いこと言ってやろうなんて下心を出すからこういうことになる。


「私が『この決め台詞、若いヒロインに投げかけると卑猥な対応を要求するエロジジイみたいだな』とか思ってた横で、そんなひどい感想を抱いてたとは」

「いやいや、そっちのほうがひどいでしょ……」


 失敬な、「色」とはそもそも男女の関係性を示す言葉であって、語源通りのスタンダードな解釈ですぞ!


「ほらさ、こういうのって一度頭にこびりついちゃうとなかなか離れなくなるでしょ?」

「まあ、分からなくはないけど……じゃあ、ラスボス戦も?」

「ん、まあ……」


 ラスボス、と言うか最後の大物は地方の領主、冷徹な主義者の為政者だ。最大多数の最大幸福を目指し、数字上の幸せのみを追い求め、理想郷ともディストピアとも言える社会を支配する男。その根本には、領民への深い愛があった。理想のために感情を、己を殺し続けた男と彼を愛する領民たちとの対話は、物語のクライマックスとして大いに盛り上がった。


「情動を嫌悪し論理的、合理的に振る舞おうとする為政者に『色を見せて』と感情のほとばしりを促す、あの名シーンが?」

「清廉潔白な官僚に対し執拗に賄賂を要求し犯罪に手を染めさせる、まるでサタンのささやきのようだと……」


 なっ……。


 何だそれは!?


「さすがにひどいよ!」

「ご、ごめん」


 私は激怒した。


「いやね、君がどんな読解をしようとも自由だよ。だけど、だけどさ……」


 こ、この男、こっちがどんな思いであの映画を観ていたと思っているのだ。私が、私が――


「私が真面目に鑑賞してたのに、そんな目茶苦茶面白そうな視点で見てたなんて!!!!」

「……え?」


 許されざるは、この男!!


「いやね、確かにいい映画だったよ? 見た人が他人にお勧めしたくなるのも納得の出来だよ。でもさ、所詮はどこまで行ってもいい映画止まり、今年のトップ10には入ってもオールタイムベストには絶対食い込めない、そんな立ち位置でしょ? だったら普通に面白い作品より、若年性色ボケ巡視官の悪徳ハレンチ大紀行のほうが絶対面白いじゃん!!!!」

「ええ……」


 やっと顔を上げたと思ったら、なんだその呆れ顔は。


 心に蘇るあのシーンこのシーンが、今では全く新しい可能性を見せて私の心をかき乱す。こんな、こんな楽しみを独り占めしてるなんて酷い男だ!! ああ、場面の切り替わりのタイミングにでも、少し囁いてくれるだけでよかったのに! いつもつまらない蘊蓄うんちくばかり語るくせに、いざというときには役に立たないとは!


 ……いや、思い返せば私も至らなかった、それは間違いない。話題の作品、如何なるものぞ。と上から目線でジャッジする気満々だったから、完全に受け身で入ってしまった。作品とは自分が鑑賞して初めて完成するもの、自分がどんな態度で向き合うかが決定的なファクターなのだ。座して待つだけではコンテンツのポテンシャルを最大に引き出すことなど到底出来ない。クリエイターが全力投球しているのだから、こちらも全力で打ちに行かなければ失礼だ。


 なのに……あの場に、私は無かった。あるのはただ周りに流され惰性で座席に座っていた、他の誰とも取り替え可能な存在だけだった。


『君の色を見せて』


 そうだ。私は、私の色を見せなければならない。世間の評価なんて抑圧から開放され、自分自身の思いをぶつけなければならない。彼がそうしたように、私自身の視点で映画と対峙しなければならないのだ。さっきまで胸を満たしていた温かい何かは、今や後ろ暗い復讐の情念へと塗り替えられていた。


「よし、もう1回見に行こう!」


 そうと決まれば善は急げだ。よしよし、20分後の上映はまだ空きがあるな。彼には悪いがここで解散だ、お楽しみを独り占めした罰とでも思っていただきたい。


「……そうだね、そうしようか」


 だけど、私の唐突な提案に彼は頷いたのだった。


「いいの? 付き合ってもらって」

「僕もね、あんな変な気持ちで見て申し訳ないなって思ってたんだ。よし、次は普通に、ごく真っ当に見るぞ……」


 彼は握りこぶしを作ると、テーブルを2回軽く叩いた。そこには何かに怯えていたような先ほどまでの表情はなく、強い意志の力が両目には宿っていた。ふん、それが貴様の選択か。まあ、鑑賞方法は各人の自由だからね、私からは何も言うまい。


「よし、2枚取れたよ」

「パンフも買いたいから早めに出よう」


 かくて私達はチョコケーキを始末すると映画館へ取って返し、それぞれの復讐を遂げ、


「いやー、楽しかった!!」


 私は笑いをこらえすぎて横隔膜を痛め、彼はどこか遠い目で言った。


「一度付いた色って、なかなか落ちないよね……」


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