言わぬ色
十余一
言わぬ色
薬種問屋の娘・八重は、一枚の振り袖を前に悩んでいた。
絹の
いったい何を悩むことがあるのか。珍しく無口な妹を見かねて、姉・吉乃は隣に腰を降ろした。
「どうしたの、難しい顔しちゃって」
「……貰ったの。呉服屋のお仙ちゃんから」
呉服屋のお仙という名に、姉妹の頭には一人の少女が思い浮かぶ。屋敷に出入りする呉服屋の娘であるお仙は、幼いころに喉を患い口がきけないのだという。しかしそのことを感じさせないほどに朗らかな働き者で、呉服屋の夫人や
「日頃の感謝を込めて、といったところかしら。ありがたく頂戴しなさいな」
姉のあっけらかんとした物言いに対し、八重は「そうかもだけど、でも」と歯切れが悪い。
「あたしって、ちょっと喋りすぎるきらいがあるじゃない?」
「ちょっと?」
「……、かなり」
「そうね。
耳が痛いと一瞬顔をしかめる八重。
「それでも彼女はいつもニコニコしながら聞いてくれるの。だから余計に喋っちゃう。
八重の言葉は、盛りを過ぎた牡丹のようにしぼんでいく。枯れた花は、不安に揺れる瞳で己を卑下する。自分なんかが貰っていいものか、と。
「その美しい山吹色が、いったい何で染められているのか知っている?」
突然の問いに、八重は疑問と困惑の色を浮かべた。どうして急にそんな話をするのか、それに染料のことなどちっともわからない。しかし、戸惑う彼女のことなどお構いなしに吉乃は答えを言ってしまう。
「
「薬にも使われる、あの梔子?」
「そう。消炎や解熱の作用がある、あの梔子」
それでもまだ、八重は腑に落ちない。落ちるはずがない。お仙がくれた振り袖とその染料にいったい何の関連があるのだろうと、姉の言葉を待ちわびている。
「では、昔話でもしましょうか」
吉乃は遥か昔、千余年も遡る昔話をせつせつと語り始めた。
「昔々、内裏でとある歌人が呼び止められたのよ。呼び止めた女房は歌人の持つ山吹の花を見て、ちょっかいを出したくなっちゃったのね。『そんなに素敵なものを持っているのに、何も言わずに通り過ぎるの?』って。それで、彼は何と返答したと思う?」
八重が口を引き結んだまま視線だけで続きをうながすと、吉乃は「あなた三味線や踊りには熱心だけれど、和歌はからっきしだものね」と眉を下げて笑った。
「
吉乃は優美な振り袖をひと撫でして、ふっと優しげな笑みを浮かべる。
「梔子はいくら熟しても実が割れないから〝口無し〟と言うのよ。口には出さない、つまりは心に秘めた想いを込めてあるのですよ、ってことね。これは男女のお話だけれど、友だち同士だって同じよ」
何を言わずとも、言えずとも、伝えたい想いはある。
「お仙ちゃん、あなたと一緒にいるとき随分と楽しそうにしているわよ」
「……そうかな、そうだといいな」
とは言うものの、八重の口元は緩みきっている。
山吹色の振り袖にどのような帯を合わせようか、中着は何色にしようか、頭の中はそればかりだ。葡萄色か、若葉色か。紺色もいいかもしれない。この振り袖を着て友だちと遊山にでも出掛けることを考えると心が踊る。
そしてこの素敵な振り袖のお礼に、可憐な彼女に似合う花簪でも贈ろうと思案するのだった。
言わぬ色 十余一 @0hm1t0y01
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。