言わぬ色

十余一

言わぬ色

 薬種問屋の娘・八重は、一枚の振り袖を前に悩んでいた。

 絹の縮緬ちりめん地が赤みを帯びた黄色に染められ、深みのある風合いを織りなしている。加えて、亀甲文様に手鞠が遊ぶ裾模様は華やかで美しい。じつに八重好みの趣きだ。

 いったい何を悩むことがあるのか。珍しく無口な妹を見かねて、姉・吉乃は隣に腰を降ろした。

「どうしたの、難しい顔しちゃって」

「……貰ったの。呉服屋のお仙ちゃんから」

 呉服屋のお仙という名に、姉妹の頭には一人の少女が思い浮かぶ。屋敷に出入りする呉服屋の娘であるお仙は、幼いころに喉を患い口がきけないのだという。しかしそのことを感じさせないほどに朗らかな働き者で、呉服屋の夫人や手代てだい(使用人)とともに度々八重の家を訪れていた。夫人が吉乃や母と話している間、お仙は八重の相手をすることが多く、二人は年のほども近い。

「日頃の感謝を込めて、といったところかしら。ありがたく頂戴しなさいな」

 姉のあっけらかんとした物言いに対し、八重は「そうかもだけど、でも」と歯切れが悪い。

「あたしって、ちょっと喋りすぎるきらいがあるじゃない?」

「ちょっと?」

「……、かなり」

「そうね。華厳けごんの滝くらい喋るわ」

 耳が痛いと一瞬顔をしかめる八重。

「それでも彼女はいつもニコニコしながら聞いてくれるの。だから余計に喋っちゃう。反物たんものや仕立てのことだけじゃない。習い事や流行り唄、庭に咲いた花、おいしかったお菓子、くだらないことまで全部。……迷惑じゃなかったかな」

 八重の言葉は、盛りを過ぎた牡丹のようにしぼんでいく。枯れた花は、不安に揺れる瞳で己を卑下する。自分なんかが貰っていいものか、と。

「その美しい山吹色が、いったい何で染められているのか知っている?」

 突然の問いに、八重は疑問と困惑の色を浮かべた。どうして急にそんな話をするのか、それに染料のことなどちっともわからない。しかし、戸惑う彼女のことなどお構いなしに吉乃は答えを言ってしまう。

梔子くちなしよ」

「薬にも使われる、あの梔子?」

「そう。消炎や解熱の作用がある、あの梔子」

 それでもまだ、八重は腑に落ちない。落ちるはずがない。お仙がくれた振り袖とその染料にいったい何の関連があるのだろうと、姉の言葉を待ちわびている。

「では、昔話でもしましょうか」

 吉乃は遥か昔、千余年も遡る昔話をせつせつと語り始めた。

「昔々、内裏でとある歌人が呼び止められたのよ。呼び止めた女房は歌人の持つ山吹の花を見て、ちょっかいを出したくなっちゃったのね。『そんなに素敵なものを持っているのに、何も言わずに通り過ぎるの?』って。それで、彼は何と返答したと思う?」

 八重が口を引き結んだまま視線だけで続きをうながすと、吉乃は「あなた三味線や踊りには熱心だけれど、和歌はからっきしだものね」と眉を下げて笑った。

梔子くちなし千入ちしお八千入やちしお染めてけり。梔子色に幾度も幾度も染め上げた花なのですよ、と答えたの」

 吉乃は優美な振り袖をひと撫でして、ふっと優しげな笑みを浮かべる。

「梔子はいくら熟しても実が割れないから〝口無し〟と言うのよ。口には出さない、つまりは心に秘めた想いを込めてあるのですよ、ってことね。これは男女のお話だけれど、友だち同士だって同じよ」

 何を言わずとも、言えずとも、伝えたい想いはある。

「お仙ちゃん、あなたと一緒にいるとき随分と楽しそうにしているわよ」

「……そうかな、そうだといいな」

 とは言うものの、八重の口元は緩みきっている。

 山吹色の振り袖にどのような帯を合わせようか、中着は何色にしようか、頭の中はそればかりだ。葡萄色か、若葉色か。紺色もいいかもしれない。この振り袖を着て友だちと遊山にでも出掛けることを考えると心が踊る。

 そしてこの素敵な振り袖のお礼に、可憐な彼女に似合う花簪でも贈ろうと思案するのだった。

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