君を失った世界

セツナ

『君を失った世界』

 最初に彼女を見た時、カッコいい女性だと思った。

 背中に芯が通っているように背筋をピンと伸ばして、そのよく通る声で彼女は言うのだった。


「アンタたち、馬鹿じゃないの」


 それは酷く冷静に、道化のようにはしゃぐ僕たちに向けられた、冷や水のように冷たい言葉だった。

 周りの友人たちが、その言葉に驚いたり、傷ついたり、憤慨する中、僕はただただ彼女のカッコよさに見とれていた。


***


 僕は美大に通う、美大生だ。

 どこの大学でもそうなのかもしれないが、僕の通う美大は学生の意識のギャップが凄かった。

 優等生や天才はいつまでも僕らのずっと前を走っていて、気を抜いたらその差はどんどんと離れていき、下を向いてしまったらその姿は見えなくなってしまう。

 美術とは、創作とは、そういう世界だった。

 学生時代に、ちょっと絵が上手いからって、周りの友人達に後押しされて美大を受験した。

 そして、この世界に生きる天才との実力の差に圧倒された。

 天才はどこまでいっても天才で、僕たちはどうあがいても彼らには勝てないのだ。

 だから僕たちのような凡人は、凡人同士で集まって気を紛らわせることしか出来なかった。

 せっかく美大に入ったのに、毎日バカみたいに飲み会をして、誰かの家に集まってはマージャンをして。

 美術のビの字もない、そんな毎日を送っていた。

 時折、同じ学校の“天才”が賞を取ったという話を聞いて「どうせアイツは俺たちとは違うんだから」と、自分たちの事を下げているフリをして、奴らをバカにした。


 そんな風に過ごしていた、ある日。僕は彼女に出会った。

 いつものように学校の食堂で友人達と馬鹿話をしていた時。

 誰かがまたバカバカしい事を大声で言った。それは誰かを貶める言葉だったかもしれない。

 それに、仲間たちが大声で同調した時、不意に近寄ってくる女子生徒の姿があった。


「アンタたち、馬鹿じゃないの。最低だね」


 冷たい氷のような声。それはまるで、冷凍庫でガチガチに凍らせた氷のバットで殴られたかのような衝撃を受ける。

 悲しみや怒り、様々な感情を浮かべて、しかし黙っている僕らに対して、彼女はそれ以上何も言うことなく、その場から立ち去って行った。

 彼女の姿が消えてしばらくしてから、ようやく僕が口を開いた。


「あの人誰?」


 その声は、まだ力が抜けているような腑抜けた声だったろう。


「お前、あの超有名人を知らないの?」


 僕と一番仲のいい親友が、呆れたという様に僕の顔を見た。


「超天才画家の、橙山とうやまだよ。橙山とうやま あかね

「橙山茜……」


 僕はまるで、それがとても尊いものであるかのように、その名前を繰り返した。


「そう、この学校で一番の有名人。……お前って本当、そう言う奴嫌いだよな」


 嫌い、そう僕は天才が嫌いだ。実力があって、きっと努力もしていて、そして結果を残している天才が憎くてしょうがない。

 ただ、どうしても。そんな最低な僕たちに、面と向かって『最低だ』と言い放った彼女の事が、言葉が表情が、脳裏から剝がれなかった。


***


 数日経っても、彼女の事を忘れられない僕は、いつも馬鹿に付き合ってくれている友人達を置いて、美術科のアトリエに足を運んでいた。

 橙山茜は、学生ながらにいくつもの賞を獲得している天才画家らしい。

 彼女えがく絵は、評論家曰く、パワーがあるらしい。

 なんじゃそらと思う。パワーなんて評論家がそんな陳腐な言葉で評価するのはどうなんだ、と。

 けれど、食堂で僕らに背を付けて歩いて行った彼女の後姿は確かに、全てを拒絶する強さみたいなものがあるようにも感じる。

 ご飯を食べてる時も、風呂に入っている時も、友人達とふざけている時も、いつも彼女の事が忘れられなかった。

 だから、僕はこの気持ちの正体を確かめようと、彼女のアトリエに向かっていたのだ。

 流石、天才画家という感じだろうか。どうやら彼女専用のアトリエがあるらしい。

 それは美術家のアトリエ棟の中でも更に奥の方、喧騒のない静かな空間。

 そこにある彼女だけのための部屋の扉に手をかけた。

 そしてゆっくりと開ける。

 絵をかく人間の部屋とは思えない程、薄暗い照明に照らされたその部屋の中には、沢山のイラストが描かれていた。


 赤い猫、黒い雲、白い月、オレンジの空に浮かんでいるのは沢山輝く青の星。


 アトリエの中心に置かれたその絵は、重々しい存在感を持って、そこにあった。

 それに、ただただ見惚れていると、背後に気配を感じる。


「何勝手に入ってんの」


 慌てて後ろを振り返るとそこには、彼女の姿があった。

 彼女は並んで立つと思っていたよりも身長が低く、小柄だったことにまず驚いた。

 けれど、その言葉やにじみ出る雰囲気はやはりプレッシャーが強く、押しつぶされそうな感覚になる。


「それ、見たの?」


 彼女は僕が目を奪われていたその絵を指して言った。

 これは感想を求められているのだろう。

 僕は率直に思った事を伝えることにした。


「見た。驚いた」


 僕が呟くように言った言葉に、彼女は表情を変えずに質問を重ねた。


「なんで?」

「変わってるなって思った」


 言った瞬間、僅かに彼女の表情が動いた気がした。


「変わってる?」

「だって、赤い猫なんていないし、雲が黒いって何か怖いし、月が白いのはなんとなく分かるけどさ」


 そう僕が言い切った瞬間、彼女は大きく口を開けて笑った。


「あっはっはっは」


 それはもう盛大に、軽快に、本当に嬉しそうに。しばらく笑った後、目に涙を浮かべながら彼女は言った。


「変でしょ。そりゃそうよ、だって私。色、分かんないし」


 言って彼女は肩をすくめる。

 その所作は、まるで外国映画のヒロインのようだった。


「なのに、おかしいよね。みんな私の絵がいいとか言ってさ」


 涙を浮かべた瞳を僕に向けて、彼女は言う。

 その眼は、とても柔らかく細められていた。


「あんたが、素直な人で良かったよ」


 そして、戸惑う僕に彼女は手を差し出した。


「私、橙山茜っていうんだ。あんたは?」

「僕の名前は――」


 答えた瞬間、僕の手は奪われるように、彼女に強く握手された。

 僕は驚きつつも、穏やかにその力強さを受け入れた。


***


 それから、僕たちは何かの折に一緒に過ごすことが増えた。

 僕は不真面目な美大生活を送っている中でも時々、彼女のアトリエに行って彼女が作品を作っているのをただボーッと眺めた。

 彼女が思いのままに描き終えた後は、いつも彼女が食べたいものを一緒に食べに行った。


「今日はラーメン食べに行こうよ」


 彼女はこれまで、ラーメンはおろか外食すらしたことが無いらしく、僕はそれに付き合わされる係となった。

 なんで今まで外食をしていなかったのかを聞いたら、彼女は「だって1人で食べるのは寂しいじゃん?」と案外可愛らしい理由を言っていた。


 ご飯ところに向かいながら色んな話をした。僕らの今までの人生のこと、今の友人、昔の友人、好きだったこと、そして絵のこと。

 僕は今まで、大学で真面目に絵について語った事はなかった。恥ずかしかったからだ。

 好きなことを恥ずかしいと思ってしまったら、その大切な物は輝きを失ってしまう。

 その輝きを、僕は彼女と話しているうちに再び見つけることが出来た。

 だから彼女が


「君は絵を描かないの?」


 と言った時、素直に「描きたいよ」ということができたんだと思う。

 僕のその言葉を待っていたかのように、彼女は嬉しそうに笑うと「楽しみにしてるよ」と言った。


***


 それからしばらくして、僕が初めて『作品』として描いた絵が完成した。

 それはいつか、彼女と言ったラーメン屋での横顔。

 あろうことか、それは賞をもらってしまい、その賞状を手に僕は彼女のアトリエに向かった。

 ここ数日、彼女からのお誘いは無かった。きっと彼女も気を遣ってくれたのだろう。

 だから、嬉々として彼女のアトリエの扉を開けた時、無人のアトリエにまず驚いた。

 ここが薄暗い事はあっても、暗闇に包まれている事は無かった。

 部屋の真ん中には一つの絵が残されていた。

 それはいつの日か見た赤い猫の絵ではなく、1人の男の絵だった。

 何度も鏡越しに見た顔。それは絵の形になっていても分かるほど紛れもなく、僕だった。

 でも――


「こんな綺麗な髪じゃないよ」


 その髪の毛は燃えるような赤で、瞳は冴えるような青色。

 色合いこそ違和感があれど、しかしその表情は僕自身も今までに見たことが無いほど、優しい顔をしていた。

 絵の側には『愛しい人』と書かれた紙が無造作に置かれていて、それを見ると同時にこれは彼女との別れなのだと感じた。


 僕はその絵を見つめながら一歩後退り、そして泣いた。

 彼女に出会って、僕の世界はとても美しく彩られたのに。

 もう今更、モノクロの世界には戻れないのに。

 なんで、なんで、こんなに呆気なく僕の前から消えてしまったのだろう。


 いつか彼女が語っていた夢を思いだす。


「私、日本を出たいんだ」

「へ?」


 その時も僕は、馬鹿みたいに呆けた声を出したと思う。


「誰も私を知らないところに行きたくてさ」


 それは比喩なのかなんなのか、僕には分からなかったが、彼女の気持ちが真剣である事は分かった。

 だから、少しでも早く彼女にこの絵を見せたかったのに。


 床に落ちた作品のタイトルであろう紙を見つめる。


『愛しい人』


 僕にとっても彼女は『愛しい人』だった。

 僕の世界を変えた人。

 そして僕の世界から去ってしまった人。

 彼女が選んだ道が、世界が、どうか彼女にとって優しい色をしているといいのにと、アトリエに残された僕は、赤い髪の僕と共に強く、強く思った。


-END-

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君を失った世界 セツナ @setuna30

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