ノーガード・エピローグ

ノーガード・エピローグ

 カラン、というベルの音で私は視線を上げた。ドアの前に懐かしい親友の姿を見つけて、思わず頬が緩む。

 カナは私に気が付くと「久しぶり」とはにかんだ。一年とちょっと振りに会った彼女は、ずいぶん綺麗になっていた。無邪気な笑顔は変わらないままで、服とかメイクとかなにげない所作とか——とにかく、すべてが大人びて見えた。

「なんか垢抜けた?」

「まあね」

「彼氏ができたとか」

「すぐ恋愛に絡めるの、レナの悪い癖だよ」

 軽く睨まれて、ごめんごめんと苦笑いする。あの頃と変わらないやり取りに、つい心が弾んでしまう。……いや、変わってないのは私だけかも。

 それから私たちは、アイスティーとケーキを挟んで他愛のない話をした。簡単な近況報告に始まり、最近お菓子作りにはまってることとか、サークル合宿の裏で修羅場が発生していた話とか。話好きな彼女は異なる話題のたびに忙しく表情を変え、私はときどき軽口を挟みながら相槌を打った。きっと私の知らないところで同じように笑ったり悲しんだりしながら、たくさん経験を積んでいるのだろう。それは素敵なことのはずなのに、どこか素直に喜べない自分がいた。

「——そしたらさ、先輩がね、自分の伸びしろを把握しておくことが大事なんだって」

「のびしろ」

「そう。今までの自分がどれほど成長してきたか、そしてこれからどう成長するつもりか。就活とかで、そこが聞かれるんだって」

「知ってる。ガクチカってやつでしょ」

 マドラーを回しながら私は答える。溶け始めた氷がグラスの縁に沿って滑らかに踊り、空気をかき混ぜているような感覚が指先に届く。

「ガクチカ? 学校の地下?」

「違うよ」

 真面目くさった顔でとんちんかんなことを言うカナを見て、吹き出しそうになる。本当に、さっき話し始めたばかりなのに、危うく救われそうになってしまう。

「『学生時代に力を入れたこと』の略。どの企業もそればっかり知りたがって、テンプレ過ぎる質問だから略語まで作られちゃったってわけ」

「なるほど、ガクチカかあ……」

 カナが遠い目をして窓際を見やる。つられて私も外の景色を眺めた。名前も知らない並木が、日の光に照らされて健康そうに色づいた枝葉を揺らしていた。

「私にはないなあ、そういうの」

「大丈夫だって。カナはちゃんと成長してるよ。実際、今日会ったときだってあまりに大人っぽくなってて、びっくりしたもん」

 私とは違って。

 情けない語尾が飛び出しそうになって、アイスティーと一緒に飲み干す。グラス越しにカナを盗み見ると、突然褒められてまんざらでもなさそうな様子だった。

 大丈夫。これでいいんだ。

 ふと、店内に置かれた観葉植物が目に入った。偽物の葉を茂らせて体裁を保てるかわりに、何の成長も変化も期待されない存在。まるで私みたいだ。

 大学に上がってからの私の日々には、常に何かが欠けていた。取り立てて不満があるわけではなかった。講義もサークルもバイトもそれなりにこなしてるし、仲のいい友達もできた。でも、そつなくこなしているつもりで、その奥には常に取り繕う自分がいた。年相応の振る舞いを見様見真似で備えようとする一方で、私の内面は何も成長していない。

 昔の恋にしがみついて、見た目を取り繕うことに必死になって、今いる場所から一歩も動けないで。はりぼての植木も、窓の外に広がる本物の緑をうらやんだりするのだろうか。

「でもさあ」

 カナの声で、はっと我に返る。

「レナは大人っぽくなったって言ってくれるけど……」

 テーブルの上で両の指を絡めて、もじもじしている。

「なに? またいつもの謙遜?」

「いや別に......そういうんじゃなくてさ」

「じゃあ早く言いなよ。今さら私に遠慮することなんてないでしょうに」

「なら言うけど、絶対に笑ったりしないでよ?」

「誰が笑うかよ」

「だよね」

 さっ、とカナが顔を上げる。「そう言ってくれると思ってた」

 あまりに突然のことで、ばっちりと眼が合ってしまう。あまりに真面目な表情をしているから視線を外せなくなる。ジェットコースターが急加速したときのように、鼓動が跳ね上がった。

「じゃあ言うよ」

 なんでもない雑談だったはずなのに。

「私が大人っぽくなったっていうよりさ......」

 今はただ聞いていることしかできない。

 彼女は少しだけ息を吸って、一息に言った。

「ひ、ひたすらレナの隣に立てるように頑張ってきた結果! ……みたいな」

「——へ?」

「なにその反応。せっかく勇気出したのに」

「いや、ごめん……なのか? よく意味が分からなくてさ。その、私のとなり……って、別に大人っぽさとか関係なくいつも一緒にいたじゃん」

「だー危惧はしてたけどやっぱり分かってない! この鈍感! 朴念仁! ばか!」

「な、なんだよ」

「この際だから言わせてもらいますけどね、男女問わずあんたに憧れてる人間はいっぱいいたの! で、私もその一人! 全く、あんたの隣にいられて幸せでしたよ!ええ、ええ! 幸せでしたとも!」

 酔っぱらったサラリーマンみたいに演説するカナ。喋りながら周囲の視線に気が付いたのだろうか、みるみる声が小さくなっていき、頬が赤く染まっていく。

 でも。

 そのときの私は、そんな様子が目に入らないくらい。

 圧倒的な風を浴びていた。

 変な表現だ。ここは屋内だから風が吹いているわけがない。

 でも、それは紛れもなく風だった。

 視界を隠す前髪をやさしく吹き上げていく風。

 心のやわらかい部分を爽やかに撫でていく風。

 高揚が収まってから恋を自覚した、あの日と同じ風。

 鼓動は相変わらず速いまま。でも、もう嫌じゃなかった。

 私の感情を滅茶苦茶にしておきながら、当の本人は恥ずかしそうにしながらもごほんと咳払いをする。

「ともかく! だから、レナに褒められるとなんだか照れちゃう、って話」

 はいおしまい、と投げやりに呟いて、そっぽを向きながらストローを咥えるカナ。かと思えば横目で私のほうをちらっと見て、「何その顔」と吹き出す。

 いつの間にか懐かしい空気が戻っていた。なにげないカフェの風景が、昔ふたりきりで過ごした放課後の教室みたいに見えた。あの頃と変わらない性格。斜に構えてばかりの私の憂鬱を明後日の方向に打ち飛ばしてきた、あたたかくて罪深い笑顔。

 だから依存しちゃうんだよ。

 勘違いしないように、思い出さないように。心の奥深くにしまってきた感情が、ちゃちな蓋をいとも簡単にぶち開けて飛び出していく。

 好きだ。

 やっぱり好きだ。

「やっぱ好きだなあ」

 油断したせいで本音がこぼれた。自分でも不意打ちだったので、視線を外すことすら忘れてしまった。

 同時に、どこか満足そうにしていたカナが「が」と言って動きを止めた。動作不良だろうか。私はまずいと思い、慌ててフォローを試みる。

「や、いまのは言葉の」

「なに……すき……って」

 か細い声で遮られる。おそるおそる彼女のほうを見ると、組んだ両手でマスクのように顔の全面をおおった変な恰好で睨み返してきた。

 かわ……じゃなくて、やば、警戒されたかな……。

 話題を変えようと口を開いたが、また先を越された。

「ねえ。好きって何が?」

「なんでもない」

「教えてよ」

「なんでもないって」

「今さら私に遠慮することなんてないでしょうに」

 ぐっ、と言葉に詰まる。

 さっきの発言を逆用した意趣返し——こいつ私のこと好きすぎかよ。

 自惚れかもしれない。いや絶対自惚れだ。昔からあの手この手で勘違いさせやがって。思考が危険な方向へ進みそうになり、慌ててブレーキを掛ける。

「だから、なんでもないって」ことにさせてくれ。

「教えてくれるまでこの話やめないから」

 私は驚いて彼女をまじまじと見てしまった。

 こんなに強情な彼女は初めてだ。紅潮し始めた頬を円くさすりながら、半目で睨んでくる。そういうしぐさを誰彼構わず見せつけるから私のような朴念仁にも好かれてしまうことにいい加減気付いてほしい。

 ——と、一転して不安になる。これはただのじゃれ合いなんじゃないだろうか。私が本気にして告白に踏み切ろうもんなら、「そんなつもりじゃなかった」って引かれるのでは。今まで友人だと思ってきた相手、しかも同性の、から場違いな好意を寄せられたら、普通は迷惑に思うはずだ。

 言葉が出なかった。声を発した瞬間、元には戻れなくなってしまうような気がした。

 しばらく私たちは無言で向かい合った。

 無言を貫きながら、この時間が永遠に続けばいいのにと思った。そうすれば、好意を曖昧にしたまま、今までの表情を、反応を全部独り占めできるのに。

 沈黙は案外早く破られた。

 先に折れたのは彼女のほうだった。

「わたし……いや……でも……」

なにやらぶつぶつと呟いたあと、虚勢を張る小学生みたいな顔つきで私に向き直る。

「じゃ、じゃあさ、『やっぱ好き』の『やっぱ』って何? いつから好きだったの?」

 どうやら作戦を変更したらしい。

 私は変わらず無視を決め込もうとした。が、エサ待ちの子犬みたいな顔を寄せられると、どうにも折れそうになる。

 ——いや。

 ちゃんと折れるべきなんだろう。

 「そういう」意味での好意ではないにせよ、私なんかを慕って、その思いをオープンにしてくれている彼女のために。

 嘘。この理由も後付けだ。本心じゃない。

 私はもう嫌だったんだ。いつでも率直に気持ちを伝えてくれる彼女といて、自分だけ何も伝えられずに疎遠になっていくのが。いつまでも悲劇の主人公を気取って、ぼんやりと灰色の妥協に浸かる人生が。

 すう、はあ——。意識して呼吸を整える。

 言ったら後悔するだろうか。

 きっと後悔するだろう。

 それでも。

 目の前の愛しい存在が、私の言葉を今か今かと待ってくれている。その視線に、昔から憧れてきた懐の広さに、もう少しだけ甘えてみたくなった。

「——最初から」

「え?」

「だからさあ。最初に会ってからずっとお前のことが好きだって言ってんだよ。さっさと気付けばか」

「がっ」

 カナが物凄い勢いでのけ反った。そのままリング際へ追い詰められたレスラーみたいに椅子の背もたれにしなだれかかる。「いやいやいや」ふにゃふにゃした半笑いで茶化そうとするが、その語尾がどんどん弱くなり、反対に頬の赤みが増していく。さっきよりペースが速い。やがて顔を押さえた両手の奥から、ひっ、ひっ、ふー、と荒い息遣いが聞こえてきた。産気?

 一方。こっちはこっちで、異様に熱を持ち始めた顔面を冷ますので精一杯だった。こ、告っちゃった……!

 宣告を待つような気分で、じっと向かいを見つめ続ける。

 愛しい相手は、うんうん唸りながら奇妙に伸びたり縮んだりを繰り返していた。

 たっぷり一分間、見てるこっちが恥ずかしくなりそうなほどの身悶えのあと、彼女はようやく晴れやかな顔で見上げてきた。

「い……いやあ、はは、たまには攻めてみるもんだなあ」

 せっかく鎮めたのに、また真っ赤になってしまった顔をぱたぱた仰ぐカナ。たしかに、彼女らしくない攻めっぷりだった。

 「たまには攻めてみるもん」——その言葉から彼女の隠し持っていた打算が伝わってくるような気がして、愛おしくてたまらない。

 そんなことを考えていたから油断した。

「レナ」

 たった今1000mを走り切ったみたいな、締まりのない表情で笑いかけられる。

「えっと。言わせた感じになってごめんね。私も大好き」

「ぐあっ」

 不意打ちの告白に、今度は私がのけ反る。

 こういうところだ。こういうところにいつも——半歩遅れて、知らない感情が胸に溢れだしていく。

「……なんかさ。恋愛面では中学生みたいだな。私ら」

「ね。てっきりレナは経験豊富だと思ってたけど」

「あ? それ言うならカナだってしょっちゅう告白されてさあ」

「そりゃされたけどさ……」

 ちらちらとこっちを見てくる。よくわからず首を傾げていると、「さっき言い忘れたんだけど、『きづけばか』って絶対こっち側の台詞なんだよな」とため息をつかれた。何? 何か不満が?

 私は涙ぐみながら詰め寄る。

「ふ、振らないで」

「振るわけあるか!」

 元気のいい突っ込みから一転、彼女は逆に眉をへの字に下げた。

「それを言うなら私のほうが不安だよ。ずっと高嶺の花だったし、今だって恥ずかしい とこ見せちゃって、幻滅されてないか」

「高嶺の花はそっちだろ。それに幻滅じゃなくてむしろ」

 もっと好きになっちゃうんだよ。

 すんでのところで言葉に出さずに済んだ。

 だめだ。今日はキャパオーバー。これ以上彼女の新しい側面を見せられたら、正気を失うのも時間の問題だろう。

 私は自爆した被疑者が今更シラを切るように、そっぽを向いて黙秘を続ける。

 しかし、勘の鋭い彼女にはお見通しだったようだ。かすかに潤んだ目が丸く見開かれたあと、好物のケーキを頬張ったときみたいにきゅうっと細められる。

「ふ、ふーん。そっか。そんなに私のこと……。でも私はさ」

 悪戯っぽい笑みを浮かべた顔をぐっと近づけてきた。

「そうやって余裕なくても誠実なところとか、レナが話し掛けてくれる前から気になってたよ?」

「……」

「あ、照れちゃった? ごめ———」

 無理。限界。

「お前本っ当に全部が可愛いな。好きだ。結婚してくれ」

「が、ばか、ばかやろうっ」

 起き上がりこぼしのように、のけ反った反動で身を乗り出してきたカナにふわりと平手打ちされる。こんな優しいビンタが地球上に存在しちゃだめだろ。

「ぐわーやられた」

 大袈裟に倒れこむフリをしながら、私は込み上げてくる笑いを抑えられなかった。最初は「また笑って」とむくれていたカナも止まらなくなってきたのか、おかしそうに身体を震わせ始める。

 ああ、幸せだ。

 すとんと腑に落ちる感覚があった。

 そっか。

 偽物なんて、私の勝手な鑑定でしかなかったんだ。私が偽物扱いしていた人間のことを、こんなに大事に想ってくれる人がいた。

 あとは、どっちの鑑定を信じるか。

 彼女になった彼女と見つめあう。

 今なら、こんな自分のことも少しは好きになれそうな気がした。

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