ユアンのサイン

 次の日。

 日曜日、11時。ユアンのサインの開始時間。

 私は限りなく走るに近い速度の早足で会場内を移動していた。開場と同時に入場したけど、アーティストアレイに並んだりしていたらこんな時間になってしまった。

 急いでセレブエリアに入ると、ユアンのブースの前にぎっしりと列ができ上がっていた。まだ始まったばかりみたいだ。間に合ってひと安心。

 最後尾に並んで、驚愕した。

 ユアンが、いる!

 昨日写真を撮った黒いブースの前に設置されたテーブルで、ユアンがサインをしているのが見えた。一段上がったところにテーブルがあるらしく、人垣の隙間から顔を見ることができた。てっきりブースの中で、ユアンが書いているところを我々が見下ろすことになると思いこんでいたから、びっくり。並んでいる間、ずっとその姿を見られる。遅く来てよかった(本当はよくない)。

 加えて、撮影に比べると、サインはひとりあたりにかかる時間がずっと長い。目の前でじっくりとご尊顔を拝む時間があるのだ。

 昨日の自分の惨状から学んだ私は、目標のハードルをぐぐっと下げていた。

 昨日はヒゲに向かってあいさつしてしまったから、今日こそは目をじっくり見ること。

 ユアンの言うことを聞き逃さないこと。

 このふたつだけに絞った。高望みはしない。自分がレベル12であることを忘れてはならない。

 もうひとつ肝心なのが、なににサインをもらうかだ。サイン用にポートレイトが用意されているので、それをもらうか、自前のグッズやポスターを持ってきて書いてもらうかの二択になる。

 最初は、一緒に撮った写真にサインをもらうつもりだった。

 でも昨日の撮影のとき、ブースの前にサイン用のポートレイトが置いてあるのを見ていた(サインも撮影もやる場所は同じなので、撮影時はサイン用の机はわきによけてある)。その中に『スター・ウォーズ エピソード1』があったのを私は見逃さなかった。パダワンのころのオビ=ワンが一番好きなのだ。短髪に揺れるパダワン・ブレード(三つ編み)最高。

 というわけで、現地でポートレイトをもらうことにした。

 あとふたりのところまで来て、ユアンの横顔が見えた。

 はわわ、いる。

 そこにいるー。

 遠くで見ている分には平気だったけど、近づくとやっぱりあわあわしちゃう。

 ユアンは撮影のときと同じく、参加者ひとりひとりに「Hi」とあいさつして、丁寧にサインをして、手渡していた。英語が話せる人だと結構ちゃんと会話をしているようだった。だれか今すぐほんやくコンニャクを実用化してくれ。

 ついに、私の番が来た。ユアンの正面に進む。

 あー、やばい。

 丁度私の目の高さに、ユアンの顔があった。

 ユアンの水色の目に射抜かれる。澄み切った川面を思わせる透明感のある瞳に吸いこまれる。

「Hi. How are you?」

「Hi」

 横に座っているマネージャーと思しき男性が、私の選んだポートレイトとペンをユアンにパスする。

 一瞬、妙な間が開いた。

 ユアンはペンを手にサインを書き始める。

 そのとき、ユアンがなにか言った。でもなにかが違う。前に飛ばすのではなく、横にぽんと置くような話しかただ。おまけにめちゃめちゃ早口で欠片かけらも聞き取れなかった。私の頭にハテナが浮かぶのとほぼ同時に、横にもうひとりいた男性が小さくうなずいた気がした。

 そこで私は、ようやく気がついた。

 またやらかしてる!

 昨日とまるっきり同じてつを踏んでいるじゃないか!

 撮影のときはベルトコンベアに乗っていたから多少の噛み合わなさはそのまま押し流されていた。だけど今は、ちゃんと「会話」をする時間がある。私は今、確かに、ユアンのあいさつを無視した!

 せっかく話しかけているのに相手が答えなかったら寂しいに決まっている。次々に参加者がやってきてスタッフと話す時間もないから、だったらこいつ英語通じないみたいだし今のうちにこのあとの段取りの確認を、などとなるのも無理はない。

 あわあわあわあわ

 ユアンは黙々と、私のポートレイトにサインを書いていた。

 私はなにしているんだ。

 この人はユアン・マクレガーだぞ。サインを書きに来た業者じゃない。ファンと交流するために遠路はるばる日本まで来てくれたのだ。参加者にはその感謝を、あなたのおかげで自分は今めちゃめちゃ幸せですと表明する義務があるはずだ。

 このまま、ただ黙ってサインを書かせていてはだめだ。なんでもいい! なにか言え!

「ゆああいず、いず、そー、びゅーてぃふぉー」

 なんだそれ。

 文字にするのも恥ずかしい。でも私のコミュ力と英語力ではこれが限界だったのだ。

 ユアンが顔を上げた。ハトが豆鉄砲くらったみたいな顔をしている。無理もないよね。ごめん。

 今思えばこのときのユアンは「ゆああいず、いず、そー、びゅーてぃふぉー」を「Your eyes are so beautiful」に変換していたのだろう。あるいは変換を試みるも有効な回答が得られず諦めた可能性もある。

 でもさすがはプロ。私の目を真っすぐに見て、微笑んだ。

「Oh, thank you」

 水色の目の真ん中にある黒目が、私の顔面から後頭部まで貫通する。

 ユアンが書き上がったポートレイトを差し出した。私は顔面を貫かれたまま「Thank you」を返し、ポートレイトを受け取る。

 オビ=ワンのたなびくマントの上に、金色のサインがあった。嬉しいことに、ユアンの名前の下に「Obi Wan」と添えてある。マントに書いてくれるとわかっていたらシルバーのペンにしたのにな。ちらっとそんなことを思ったけど、そんな細かいことはもういい。

 あの目をじっくりと見られた私は、すっかり夢見心地だった。

 さらに言えば、あの瞳に自分が数秒でも映りこんだ、ユアンの人生のうちの数十秒を自分のために割いてくれたと考えると、嬉しさを通り越して恐れ多い気持ちになる。

 ユアンに会う前は、もしもこれを乗り切れたら、自分はレベル12から少し成長できるのではないか。そんな期待をいだいていた。

 身の程知らずとは、このことである。

 でもそんな私が繰り返したやらかしも、恥ずかしすぎるリカバリーも、全部浄化してくれるような透き通った目だったのだ。

 さっきから目のことしか書いてない気がするけど、だって、本当にきれいだったんだもん。

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コミュ力Lv.12がユアン・マクレガーに会ってきた話 朝矢たかみ @asaya-takami

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