ユアンと写真撮影

 コミコンとは海外の映画・コミックの祭典。目玉はなんといっても海外から来た有名な俳優とのサインと写真撮影だ。

 金、土、日の3日間ある会期のうち、私が参加したのは土日の2日間。ユアンに会えるチケットは、土曜の夕方の写真撮影と、日曜の午前のサインを確保してある。

 土曜の夕方、セレブに会うための待機場所へ行った。ジャスト1時間に行ったのに、すでに100人以上は並んでいたと思う。もちろん私の後ろにも列はどんどん伸びていく。

 定刻の30分前くらいにセレブエリア専用のホールへ移動し、真っ黒な壁で囲われた撮影ブースの前で列を作り直す。

 しばらく待つと、ブースの方で歓声と拍手が上がった。ユアンがブースの中に入ったのだ。といっても、それを拝むことができたのは先頭の数人だけだ。

 撮影が始まると、待機列の温度がちょっと上がった。

 ブースから、フラッシュライトとシャッターを切る音だけがもれてくる。

 …………ピカッパシャッ

 …………ピカッパシャッ

 …………ピカッパシャッ

 え、速くない?

 宅配便を受け取ってサインするのだってもうちょっと時間かかるよ?

 え、待って、マジで?

 1回3万円のシャッターを、その速度で刻んでっちゃうの?

 これが噂に名高いベルトコンベア撮影か……!

 私が戦慄せんりつしている間も、列は無慈悲にどんどん進んでいく。心の準備なんかこれっぽっちもできていない。

 ブースの近くにはカゴが並んでいて、そこに荷物を入れる。貴重品以外はブースに持ちこめない。ちょっと迷ったけど、お気に入りのライダースジャケットも脱いで置いてきた。ちょっとでもユアンを近くに感じたいから。うわっ、文字にするとすごく気持ち悪い。

 いよいよブースに入った。前にはまだ数組いたけど、その隙間から、姿が見えた。

 ユアンが、いる!

 生きてる! 実在してる!

 ヒゲの長さがまさにドラマ『オビ=ワン・ケノービ』で、うわ、やばい、本物。

 他の人が撮影している間、私はユアンをただじっと見つめていた。

 今思えばこれは正しい行動だった。撮影のために横に並んでしまうと姿は見ないので、肉眼でセレブを拝みたかったら、ブースに入ってから自分の番が来るまでの間にしかと目に焼きつけておくしかない。

 だが残念ながら、それは私の意思によるものではなかった。虫が光に集まるのと同じで、ユアンというまぶしすぎる存在に視線が吸い寄せられただけだった。その証拠に、あれだけ見ていたはずなのに記憶はかなりあいまいだ。

 私の前の男性の番になった。男性は3、4歳くらいの女の子を抱っこしていて、その子を見た瞬間、ユアンの目尻が下がった。

「Hi〜!」

 女の子の顔を覗きこんで微笑みかける。微笑みなんて言葉じゃ足りない。慈愛の照射。無邪気の塊。かわいいの権化。あんなの至近距離でくらったら即死する。

 女の子がカメラの方を向かなくて父親、カメラマン、ユアンが「こっち向いて~」と声をかけるひと幕もあり、ブースの中の空気がちょっとほっこりした。

 写真を撮ったあとも、ユアンは女の子の顔を覗きこんでなにか言いながら手を振っている。他の参加者とは明らかに対応が違ったけど、その笑顔をすぐ横で拝ませてもらったから、すべて許せる。

 目尻が下がりっぱなしなユアンを見て目尻を下げている私の背中を、スタッフが強めに押した。

「次どうぞ」

 いや、ユアンがまだ話してるでしょ。女の子でちょっと時間かかったからって私で遅れを取り戻そうとしないで。待って、押さないで。え、強くない?

 まだユアンが女の子の方を向いているというのに、私はユアンの前に押し出されてしまう。

 そのせいで、振り返ったユアンの視線はいったん私の頭上を通りすぎ、列の先頭あたりに行ってから、戻ってきた。

 そして、ユアンと目が合った。

 薄い水色の目が、私を真っすぐに見下ろす。

 私はほぼ条件反射で「Hi」と口にしていた。ほぼ同じタイミングで、ユアンも口を開いた。

「Hi! How are you?」

 生で聞くユアンの「Hi」は耳に心地よかった。昔ながらの耳かきのお尻についているぽしょぽしょで耳の中を優しくなでられるみたいな心地よさとくすぐったさで、もうすでに胸がいっぱい。

 そのまま流れるように、私はユアンのふところに吸いこまれていく。原理はわからない。ユアンが腕を広げたのか、こっちへと促したのか、よく覚えていない。催眠術にかかったみたいに、気がついたときには私はユアンの右側に立って肩を抱かれていた。

 カメラの方を向いて1秒程度でシャッターが切られる。

 体を離して、ユアンにお礼を言う。見上げたつもりだったけど、近かったせいか、私はユアンのヒゲに向かって「Thank you」を言っていた。でもそのことに気づいたのも、あとになってからだ。

 ブースから出た私は、ただの腑抜けと化していた。

 それからじわじわと、自分がやらかしたミスに気づいていく。

 まず、ユアンの「How are you?」になにも返していない。「Hi」が言えたことに安心したのか、それ以降はまったく耳に入っていなかった。いや、聞こえてはいたんだけど、脳まで届いていなかった。便宜上「How are you?」と書いてこそあるが、耳に残ったかすかな残響からこうじゃなかろうかと推測しただけなので、実際のところなんて言っていたのかは永遠の謎だ。

 写真を取る前に「Could you give me a hug?」と言おうと思っていたのに、それも完全に忘れていた。他にも色々言おうと思ってDeepLで翻訳したメモをスマホに保存しておいたのに。ブースに入ったときには、きれいさっぱり吹き飛んでいた。

 はぁー

 うわぁー

 えー

 ため息まじりにもれてくるひとり言は、ちいかわレベルの語彙力しかない。そう。ブースの入ったあたりから、私の知能レベルはそこまで低下していたのだ。気づくのが遅すぎる。

 私は腑抜けのままカゴから荷物を取り、くねくねと折り返す通路を歩き、印刷エリアへたどり着く。シャッターを切ってから2分も経っていないのに、もう写真は印刷されて袋に入った状態で置いてあった。こんなとこまでベルトコンベアなのね。

 ユアン・マクレガーと、彼の右脇にすっぽりはまりこんだ自分が、一枚の写真の中に写っている。それを見てようやく「あ、本当に、一緒に写真撮ったんだ」と実感めいたものが湧いてきた。

 さっき、ユアン・マクレガーが私に話しかけてたんだ。

 横に並んだんだ。

 マジか。

 はぁー

 うわぁー

 えー

 写真を見ると、ユアンはがっつり私の肩を掴んでくれている。けれど不可解なことに、いくら記憶を掘り起こしても、ユアンに触れられた感触が思い出せない。頭が真っ白なだけではあきたらず、自分の体の感覚すら失っていたのだろうか。じゃあ私はなんのためにライダースを脱いだんだ?

 けれど写真に写る自分の顔は、なんていうか、私にしては、いい顔をしていた。

 撮影チケットを買っておいてなんだが、私は写真がすこぶる苦手だ。でもユアンの隣にいる自分は、ここ数年で撮った写真の中ではかなりいい部類に入る。頭真っ白で体の感覚を失っているとは思えない、自然な笑顔だ。

 なんだよ、お前、めっちゃ楽しそうだな。

 ブースを出てから後悔しかなかったけど、写真を見たら、ちょっと、ましになった気がした。

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