みどりの食卓

納戸丁字

みどりの食卓

 チシャのサラダは縁起が悪い。


 貧しい農夫が魔女の畑から盗み出し、身重の妻に食べさせたものだから。

 産まれた娘が魔女に差し出され、塔の上に閉じ込められた原因だから。


 少なくとも、実那が読んだ童話によれば、そういうことになっている。


 ラプンツェルと題した本は、桃色の光沢ある布で装丁されていた。

 本を抱え、実那は、目の前で揺れるテーブルクロスの端をじっと見る。

 揺れる布きれの向こう側では相変わらず1対の足が忙しく行き来していた。


 蛍光灯の光のもと、てかてかと生白く光るふくらはぎ。

 母親の脚。

 赤い花柄のスリッパをつっかけた素足が、流しの前からコンロの前に移る。


 いくらも経たないうちに、今度はこちらへ向きなおって近付いてきた。


 スリッパから除く爪先が迫りくる。

 母親の足先が、のみならず彼女の手足も、言葉も、10歳の実那を害したことは一度だってない。


 にも関わらず、尖ったものを付きつけられたように感じてしまう。

 針で突かれるのを希釈したような危機感が、実那の背中をぞわりと撫でていった。


 その時、朗らかな声が来訪を告げた。

 軽やかな足音が勝手知ったる様子で近付いてくる。


 キッチンに入るなり「ワイン買ってきたよ」と告げたのは、白いスラックスを穿いたもう一対の脚だった。

 母と揃いの、マリメッコ風のプリント地のスリッパ(ただしこちらの花色は紺だ)から、ストッキングに包まれたかかとが覗いている。


 実那はさも、つい今しがた落とし物を拾い上げましたよといった態度を装いながら、ダイニングテーブルの下からのそのそと這い出た。


 見慣れたガラスのサラダボウルにはチシャがこんもりと盛り付けてあった。

 オリーブオイルと海塩をまぶしつけ、カッテージチーズが添えられている。


 卓上を舞う文乃の指先で、真珠色の爪がつるりと光る。

 彼女は昨晩いっぱいかけてポリッシュを塗っていた。


 清潔感のある、信頼がおけそうな、けれども自分の美意識が許す、そのあわいに浮かび上がる色彩。

 それこそが若葉色から薄紅に偏光する柔らかな白色だった。


 文乃の指はクリスタルガラスのボウルをそっと押しのけ、その隣にワインボトルを滑り込ませた。


 真珠色の残像はダイニングキッチンを揺蕩い、食器棚を開く。

 整列していたワイングラスが1,2,3つと光の下へと取り出される。

 最後に、ローズピンクのコップが加わり、染み一つないテーブルクロスの上で隊列が完成した。


 テーブルセッティングする『文乃さん』を横目に、実那はできるだけ時間をかけて椅子に腰かける。

 ラプンツェルは腰と背もたれの間に突っ込んだ。

 実那自身はその理由を上手く言葉にできなかった。

 しかし要するに、女ばかりの食卓に載せるのはあまりに意味深な代物で気が引けたのだ。


 実那は思う。

 おばあちゃんがやって来る。


 その頃、タクシーの後部座席では佳代子がむっつりと黙り込んだまま、窓の外を流れる灯りを睨んでいた。

 住宅街では、あらゆる家が暖かな光を窓からこぼしている。

 しかし団欒の象徴のような電球色の元、どんな光景が繰り広げられているかは誰もわからない。


 実那のママと、ママの親友の文乃ちゃんが、親友じゃない間柄なことくらい、実那はとうに知っていた。


 おばあちゃんがやって来る。

 ママのママが、娘の恋人と顔合わせするために。

 思えば、大親友だと告げながらもママはママの両親に文乃ちゃんを決して会わせようとしなかった。


 実那のおばあちゃんがやって来る。

 遠からずの未来、実那の家で、女たちはチシャのサラダを食べる。

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