跪いて愛を乞う

春宮 絵里

1




 目が覚めると、この部屋のベットで眠っていた。豪奢な閉ざされた部屋に。


「目が覚めたのか?」


 天蓋のヴェールの向こうに男の人影が浮かび上がり、近づいてきた。


 続く足音にビクッと身を震わせる。


 薄生地のヴェールが割り開かれ、癖のない黒髪に、同じ黒の翳った瞳の男が姿を現す。心配するような顔つきで、私の横に立つ。


「お願い!私を家に帰してください」


 ぼろぼろと大粒の涙を流しながら、私は男の頭上を見上げて哀願した。


「お姉様を弔ってあげたいの」

「すまない。それはできないんだ」


 さらに瞳を翳らせて告げる男に絶望する。


「どうして……?お姉様を弔ったら、またここに戻ってくるわ」


 沈痛な面持ちでうなだれる男を、切実な目で見つめる。


「……すまない」

「そんな」


 頭が真っ白になる。パリンと何か大事なものが割れる音がした。息遣いが荒くなり、身体が震え始める。


 両手で顔を覆う。憎悪で身を焼かれるほどこの男が憎たらしい。「殺してやる」と泣き叫んだ言葉は、彼の口づけで掻き消されてしまった。


 身を焦がすような熱が宿った瞳に身の毛がよだつ。


「セリーナ……すまない。許してくれなんて言えない」


 口元をネグリジェで拭い、男を睨みつけたその瞬間──


 視界の端に、きらりと光るものが映る。視線を向け確かめると、姿見が月光を反射して煌めいていた。ふらふらと歩き、姿見の前に立つ。囚われた自分が反射する。


 長い白銀の髪は波打ち、春の空のような瞳に、形の良い鼻筋、ふっくらとした真っ赤な唇。泣き腫らして赤くなった目尻と唇が、色素の薄いセレーナの中で色鮮やかに染まっていた。


 自嘲する。私をこんな目に合わせるほど、この世は無慈悲だ。




 私は深い森の奥でお姉様と一緒に慎ましく暮らしていた。それこそ、人目を避けて隠れ住んでいたと言う方が正しいだろう。姉は、捨てられた私を助けて育ててくれた、親のような存在であった。


 生みの親が私を捨てたのは、ひとえにこの美貌のせいだと、のちに姉から聞いた。異常なほどに美しい容姿は、周りの人たちをまきこむほど危険なもので、人を狂わせるほどの美貌は自身を不幸にするだけだった。


 姉は両親の家に支えていた使用人だった。


 あの日はなんてことのない、いつもの日常だった。森で薬草や木の実を採取していると、森の浅いところで狩猟する人々がここまでやってきて狩猟をしたのだ。フードを深く被る私を追いかけ、追い詰め、フードに手を伸ばしてしまった。


 男はフードの取れた私の顔を見つめると、目を細め、恍惚にも似た表情を浮かべた。


 それからのことは、断片的にしか覚えていない。私を連れて行かせないように、男の足に縋りながら嘆願するお姉様を、冷酷な眼差しで腰にかけていた剣を取り出し、刺した。


 嘆願の甲斐もなく、目の前で姉を殺された。男は、私にとろけるような笑みを浮かべ、泣き叫ぶ私を眠らせて誘拐した。


 ──ここに、救いなどない。




 一ヶ月後、泣きながら愛を囁く彼を拒絶し続けた。


「セリーナ。君の家族のこと、本当にすまなかった。それでも、君を愛してしまったんだ」


 散々やめてと叫んでも殺したくせに。


「五月蝿い。そんな言葉聞きたくないわ」


 ウィリアムは私の言葉など聞きたくないとでもいうように、腕の中に私を閉じ込めた。


「何もしなくていい。ただ俺のそばにいてくれ」

「……」


 無理やり引き剥がそうとするも、力でかなう筈もない。


「俺……セリーナがいないと駄目なんだ。辛い……どうしたらいい、どうすればよかったんだ」

「私の方が辛いわ」

「そうだよな、すまない。セリーナ」


 そう言うと、ウィリアムは骨が軋むほど、強く私を抱きしめた。




 一年が経った今、私は大きくなっていくある感情を必死に抑えて、罪悪感に苛まれていた。


「セリーナ」


 ウィリアムの甘い声が、耳朶を打つ。


「セレーナ、俺を見て」


 月明かりに反射した彼の瞳が煌めく。火傷しそうな熱量を持つ瞳だ。


 彼は椅子に座る私の前に跪き、見せつけるように手の甲に口づける。


「セレーナ、俺を愛してくれ」


 いつも通り膝に頭をのせて、私の愛を乞う。


 一年間、ずっとその繰り返し。でも、それも今日で終わり。




 私は泣き出しそうな、歪んだ笑みを浮かべて、両手を伸ばし、跪く彼の頬を包み込んだ。


「ウィリアム」


 衝撃を表すように、ぽかんと薄く開かれた彼の唇に、初めて私から口づけた。


 自分の気持ちを認めると、口づけに心を引き裂かれそうになる痛みもなく、安らかで満ちたれた気持ちになる。


「どうしたんだい?セリーナ。君から口付けるなんて」

「ふふ、あなたはずっと私に優しいのね」


 雲の上を歩くような、軽やかな足取りでウィリアムの荷物が置いてあるところへ行き、彼の短剣を抜く。


「……セリーナ?」


 冷んやりとした鈍色の刃を喉に突きつける。彼の黒曜石のように美しい瞳が動揺で揺らぐ。


「セ、セリーナ……やめるんだ!」

「来ないで」


 私に哀願する彼の姿に胸がいっぱいになる。


「セリーナ!」


 私は大粒の涙を零しながら、聖女のような晴れやかな笑みを浮かべる。あぁ、ごめんなさい。お姉様。お姉様を殺した憎らしい彼を、愛してしまった……。愛してしまったのだ。


「ウィリアム。私はあなたを憎んでいないといけなかったの」

「なに、を……」


 彼の目に涙が溢れ出す。


「でも駄目だったわ。私はあなたのことを愛してしまったもの」


 毎日、愛と憎しみで引き裂かれそうな胸の痛みを、あなたは知らないのでしょう。


「ずっと、罪悪感で頭がどうにかなりそうだった」


 私は、恍惚に酔いしれたような笑みを浮かべた。


「だ、駄目だ。やめてくれ、セリーナ!」


 ウィリアムが泣いて懇願する。その顔に心臓がギュッと掴まれたような痛みが生じる。私も大概、愛が募っていたのだと嬉しくなった。


「──さようなら。憎らしくて、愛おしいあなた


 勢いよく喉を掻っ切ると、鮮血が飛び散り、口からごぼっと血が吹き出した。


「あ……あああああ…………嫌だ嫌だ嫌だ、セリーナ。俺を置いてかないでくれ」


 首を止血しようと抑えて、私を抱きしめ、ぼろぼろと涙を流す彼を見つめる。その顔は苦痛に歪んでいた。彼の私への愛をもっと見つめていたいけれど、視界が曇り、体温がだんだんと奪われていく。もう、痛みは感じなかった。


 残り少ない力で彼の頬に手を添え、穏やかに微笑む。声には出せなくなってしまった「愛してる」の言葉、口の動きを読み取って、ウィリアム。


「う……うおおおおおうおううう── 」


 ウィリアムは私の手を握り、獣の咆哮のような叫び声を上げた。


 それは、絶望と後悔が入り混じった悲鳴だった。


 ごめんなさい。ウィリアム。

あなたを愛してしまった自分が許せなかったの。


 愛憎の涙が横に流れていく。


 ウィリアム、愛しているわ。── でもね、ここに救いは無いわ。




 真夜中の箱庭にウィリアムの泣き叫ぶ声がこだましていた。

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