青く輝いて

sora

第1話

午後5時。奇跡的に仕事が終わり、帰りの電車に乗り込む。金曜日ということもあり、いつもより帰りの電車は混んでいる。見知った顔もいれば知らない顔も。知らない人は自分と同じく、奇跡的に仕事が早く終わったのだろう。

 何人かは小声で談笑している。自分と同い年ぐらいの男たち。これから飲みに行くのだろうか?……少し羨ましい。

 ガタガタと、決められたようなリズムを刻みながら、電車は線路を行く。いつもいつも同じ時間、同じ速度、同じ車両……いや実際には違うのかもしれない。自分が気づかないだけなのかもしれない。三駅ほど運んでもらい、電車を降りる。空は赤いけど、どこからか風に乗って雨の匂いがやってくる。天気予報、夜中の午前三時、雨有り。朝出かける前、テレビのスピーカーからはその情報が流れていた。綺麗な女性の声。下品な声色ではない。でも、それもほんとのところわからない。乗っている車両が同じものかどうなのかわからないぐらい、何も知らないのだ。

 雨の匂いを感じながら、ホームの階段を降りて、駅の中へ。人の中に混じりながら、自分の家を目指す。駅の中にはコンビニやお土産、スイーツのお店が所々に並んで、店員さんのスマイルと共に、こちらを呼んでいる。どこかに立ち寄り、もう先に帰っている恋人に何か土産を買おうと思い、人の波から抜け出し、スイーツのお店を見てみる。スイーツのお店のショーケースには、定番のショートケーキとチョコケーキ、モンブラン、レアチーズにティラミス。それと夏ということもあり、大きなモモのケーキがある。

 吟味して選びたいが、財布の中には千円札が一枚と小銭がひとつまみ。一番安いショートケーキ二つしか買えない。無駄金を消費しないよう、誘惑に負けないよう、仕事の日は千円札一枚しか入れない自分のルールが首を絞めてくる。

「すみません、ショートケーキを二つ」

 自分の財布のすっからかんさに呆れながらも、僕はショートケーキを頼む。

 店員さんは僕の心中なんか知らず、笑顔で選んだケーキを箱に詰めていく。緊張させないように、人波や他のケーキを見ながら待つ。しばらくすれば、ケーキ二つ分の重さを持った箱が僕の右手にぶら下がっている。

 僕はまた、同じように帰り道を行く人波の中に混じっていく。違いがあるとすれば、右手にぶら下がっている小さな幸せ。大したことないものだけど、どこか誇らしさも感じる。

 ケーキを潰さないよう、走りそうになる足にブレーキを掛けながら、歩く。いつのまにか人波から抜け出し、群れから離れた羊のように一人になって街を歩く。迷うことなく、行く道を歩く。そしたら、住処が見つかる。一年前に引っ越したマンション。4階建て1LDK。一人で暮らすには充分、二人で暮らすには狭い部屋。個人の部屋がない。時に人は、孤独であるべきなのに、僕の家にはそのような場所はない。せいぜい、風呂場くらいだ。防音はしっかりしているので歌声が漏れることはない。

 本当なら、一人で過ごすつもりだった。そのままずっと、年老いてしまうまで。なのに、人生とは思う通りにはならないもので、僕は今、恋人と暮らしている。

 二つ下。

 背は同じ。

 髪の長さは腰まで。

 目はクリクリとしたリスのようなこともあれば、細い細い素麺のようなこともある。

 要は、機嫌次第なのだ。

 マンションの玄関の鍵を開けてエレベーターに。僕らが住むのは四階。緊急時に飛び降りるにはただではすまない高さ。田舎なら遠くの山や川が見えたかもしれないが、ここはセメントやコンクリート、鉄に囲まれた都会の中。

 見えるのは走っていく電車、手を繋いで歩くカップル、渋滞した車、もはや電話をしている人は見ることがない公衆電話。

 川のせせらぎ、鹿の鳴き声、道路を走り行く狸はいない。自然を感じるのはせいぜい、雨ぐらいなもんだ。

 息が詰まりそうになるが、その分刺激も多い。田舎でのんびりと、ハンモックの中で赤子のように揺られるには、僕は歳をとり過ぎていない。

 到着音を耳にすると扉がゆっくり開かれる。自分の住処の扉に向かい、もう一度鍵を使う

 上下二つの鍵穴。

 形の違う鍵。

 銀色の鍵。

 幸せの鍵。

 鍵を開けて、扉を開く。むぉー、ではなくひゃーとした冷気が頬を打つ。心地よい風。浴び続けたら体調を悪くするような冷たさはない。

「ただいま」

 声を出す。リビングに反響する。開く扉の音。リビング隣の洋室に続く扉が開く。恋人が現れる。半袖半ズボン。どちらも白、白。肌も白い。髪は黒い。今朝はひと結び、今は解けてザバァーン。

「…‥おかえり」

 ゆったりと寝ぼけている。

 目は細く、どこか夢を見ているようだ。

「寝てたの?」

「うん……今日は早上がりだったから」

「そう」

「ご飯、作るね」

「いいよ。僕が作るから」

「……わかった」

「あと、ケーキ買ってきたんだ。ショートケーキ。ご飯の後に食べよう」

「……ありがとう」

 彼女はゆっくり頭を下げた後、隣の洋室に戻っていく。

 彼女はいつもあんな感じだ。静かで言葉数が少ない。目がはっきりとしている状態でも変わりない。

 僕の前ではいつもあんな感じだ。

 僕はそれが愛しくてたまらない。

 ケーキを冷蔵庫に丁寧にしまい、リビングに置いてあるタンスから服を取り出し、着替える。

 キッチンに戻り、鍋に水を入れて火にかける。沸騰したら二人分のパスタ。厚さ1.6ミリ。七分すれば茹で上がる。その間にソーセージを輪切りにしフライパンを予熱する。茹で上がったらフライパンに油を引いて、パスタとソーセージを一緒に炒める。醤油、味醂、料理酒を大さじ一杯入れて、塩胡椒で味付け。あとは皿に盛り付けるだけ。お好みで刻みネギを。彼女は嫌いなので、僕は自分の分のパスタにかける。

「できたよ!」

 僕はリビングのある白いテーブルに皿を置いて、彼女を呼ぶ。扉が開き、のろのろーと、彼女は白いテーブル近くの椅子に座る。僕も同じように椅子に座る。

 彼女の前に置かれた席。

 彼女が東。

 僕が西。

 南と北には誰もいない。

「いただきます」

「いただきます」

 手を合わせて、僕らは夕飯のパスタを食べ始める。

 テレビの音はない。

 僕らの指と視線はスマフォには向かない。

 電車が走る音が、窓の外、遠くの方から聞こえてくる。

 ガタンゴトンと、リズムよく。

 十分も経たない内に食事は終わる。

 彼女は席から立ち、僕と自分の皿を持ってキッチンへ。

 僕はそれを、椅子に座りながら眺める。世の中の動きはテレビやスマフォという魔法で見れるけど、僕は今、そのことに何の関心も持たない。キッチンで洗いものをする彼女を見てること以外に、何の関心も興味もない。

「ねぇ。夕飯美味しかった?」

「……」

 彼女は答えず、小さく頷くだけだ。

 もっとリアクションしてほしい。言葉を発してほしい。他の人ならそう思うかもしれないけど、僕は別に気にならない。よく見れば、耳にしなくてもわかることなのだから。

 椅子から立ち上がり、冷蔵庫に。

 白い小さな幸せの箱を取り出す。

「食べれそう?」

 僕は彼女に聞いてみる。洗い物はすでに終わって、皿は戸棚で眠っている。タオルで手を拭き拭きしている彼女は「うん」と答えた。

 小さな皿を戸棚から取り出して乗せ替える。もう一度、僕らは椅子に座る。今度はパスタではなく、白いショートケーキが目の前に。

 白いショートケーキ。どこにでもある、それでいて消えることないもの。

「どこのお店で買ったの?」

「駅だよ。僕がいつも電車に乗る駅」

「……そうなんだ」

 僕らはフォークを使い、ショートケーキを口に運んでいく。甘い味が口の中で広がる。甘い香りが部屋の中に溢れていく。僕は思わず、フォークでショートケーキの置かれた皿をたたき、リズムを作ってみる。人前でやるのはマナー違反だ。子供の時にやったら親に怒られていただろうし、レストランでやったら他のお客さんに嫌な顔をされるだろ。

 だがここには、僕と彼女しかいない。彼女は食べるのをやめて、同じようにリズムを作り出す。

 瞳を大きく、愛らしくて。

 カチカチカカチッチ……混ざったリズムはひどく不愉快だ。規則性なんてものはなく、あちらこっちら適当に音を出しているだけだ。ひどく不愉快だ。なのに僕らは声を出して笑い始める。二人の音楽はしばらく続く。終わった頃には、甘いショートケーキは影も形もなくなっていた。

 二人で皿を洗い、気分が良い僕らはそのまま一緒にお風呂に入った。彼女が寝る前にセットしていたらしく、湯船は程よい暖かさを保って、僕らを待っていた。湯船でこれからのことやら、明日の予定、朝食は何にしようかと話し合う。彼女は「うん」「そうだね」しか言わなかったけど、壁に響く声は、香水よりも甘かった。

 すっかり暖まり、リビングに戻ると、眠気が僕らに襲いかかってくる。せっかくの金曜日。抗おうとテレビをつけようとしたが、彼女はフラ〜と洋室にあるベッドに向かっていってしまう。まるで森の奥から何か得体の知れないものに呼ばれるかのようにフラ〜と。僕はテレビをつけるのをやめて、リビングの明かりを消して、洋室に行く。二人分のシングルベッド。部屋が狭いこともあり、二人分のシングルベッドは隙間がないほどに引っ付いている。まるで磁石だ。洋室は程よく冷えている。冷気を作り出すクーラーは元気に職務を全うしている。

「永遠にそのままでいてくれよ」と思わず呟く。

「何か…言った?」

 聴こえていたのか、ベッドに横たわった彼女は僕を見ながら尋ねる。ショートケーキを食べた時のような愛らしさは瞳にはなく、ぼやーと夏の陽炎のようにはっきりとせず、細い。もう眠気に取り込まれそうになっているようだ。

「なんでもないよ。おやすみ」

 洋室の明かりも消して、僕らの住処は真っ暗になる。窓の外から街灯が少しばかり侵入してくるけど、カーテンで遮っていることもあり、眠りを妨害するには弱すぎる。隣のベッドで眠る彼女の髪を撫でる。

 もう眠ってしまったからか、なんの反応もない。吐息も聞こえない。静かに静かに、夜は更けていく。

 いつのまにか、夢の中。

 ひろい広い荒野。青々さはなく、地面から生える草はほぼ枯れていて、生命の芽吹きすらない。しかし、遠くの方を見れば新緑の大地。風がそこからの匂いを運んでくる。随分と嗅いだことのない土の香り。そこに惹かれて、荒野を歩く。だけど道は途中で無くなる。大きな破裂音が響き、僕はできた穴の中に落ちてゆく。

 真っ暗で、何もない。

 そこで目が覚めた。

 明かりを消していたから、部屋は暗い。静かな世界にザァザァーと雨音が鳴り始める。

 枕元に置いたスマフォを見る。

 時刻は午前三時。天気予報通り、雨が僕らのところにやってきた。カーテンを少し開けて、外を見る。拒まれた水滴が、窓に張り付いてこちらを覗いている。街灯の光が彼らの中に混じっている。

 綺麗だ、と思っていたら激しい光が外を駆け抜けた。数秒後に、破裂音。夢の中と同じ音。雷も一緒にやってきたらしい。不規則に、ランダムに、計画性もなく、僕らがケーキの前で奏でた音楽よりもリズムなく突発的な、人間の感情にある怒りの放出のように激しく鳴いている。

「……うん?」

 しばらく、その怒りを眺めていると、自分の服を引っ張るものがいることに気づく。彼女も起きたようだ。目が暗闇に慣れたこともあり、ちいさな手の元を見ると彼女の顔がよく見える。怯えている。雷の音に驚いて、飼い主に助けを求める犬のように。

「大丈夫だよ」

 僕はゆっくりと彼女の髪を撫でる。

 街灯は消えておらず、雨の奥で道を照らす信号も赤く光っている。僕らを熱気から守る洋室のエアコンも止まることなく働いている。雷はひどく怒ってはいるけど、僕らがここから立ち去る心配なんてものは何もない。

「大丈夫だから」

 撫でる手の神経に想いを流す。

 しばらくすれば、彼女はまた眠りにつく。

 外を眺める。

 雷はなく、ただ青い宝石が輝いている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

青く輝いて sora @soraironisomate

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ