私と春風。そして彼女。

@zawa-ryu

第1話

―花の色は 移りにけるな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに―


 春の風に乗って運ばれてきた薄桃色の花びらが、開け放した窓から一片、私の机に舞い降りてきた。

「あら?」

 握っていたシャープペンシルを離し、そっとそれを摘み上げてみる。


 遅咲きの桜が咲き誇る、校門から校舎へと続く道。

 その彩の中を歩く時、私はいつもとは違う、何か特別な出来事が待っているような、そんな何の根拠もない期待に胸が膨らむ。


 新学期を迎えた私、谷川結愛とその友人、芽理、春菜、そして真由。

 私たちは晴れて最上級生となり、また4人揃って同じ教室で授業を受けている。


 校舎を右往左往する新入生につられる様に、なんとなくフワフワと浮き足立っていたこのクラスも、始業式から一週間が過ぎ、通常通りの授業体制になると、徐々に日常の落ち着きを取り戻しつつあった。


 私の隣では芽理が退屈そうに、シャープペンシルをくるくると回している。

 後ろの席の真由は時折うんうんと唸りながら、彼女の趣味である自作小説の構想を練っているようだ。その隣で机に上半身をぐでっとあずけた春菜が、よだれを垂らして意識を失っていた。


 私が花びらを手のひらに乗せ、窓の向うにふわりと還すと、薄桃色の欠片は四月の優しい風と手を繋いで、またどこかへと旅立って行った。



「この句は余りにも有名ね。六歌仙の一人、小野小町の名歌で、小倉百人一首にも収録されているから、ご存じの人も多いと思います」

 カツカツとチョークの音を立て、黒板に向かっていた現国教師「操ちゃん」が、くるりと私たちの方に向き直る。

 板書された可愛らしい丸字は、その文字だけ見れば、まさかこの教卓の前に立つザ・中年のイカツい男性教師が書いたものとは誰も思わないだろう。


 文字は人なり。その言葉通り、17歳の乙女をその身に宿した現国教師である田辺操教諭は、私たち生徒の良き先生であり、友人であり、お姉さんなのだ。

 私たちが「操ちゃん」と呼べば、「なぁに?」といつも穏やかな笑顔で応えてくれる。

 だが、こんな麗らかな木漏れ日の射す午後に、いや授業中にあって、彼女、じゃ無かった彼の声はいつになく沈んでいた。


「では、この和歌の現代語訳を読んでいきますので、聞いていてね。えーコホン。桜の花の色は、むなしくも色あせてしまった。むなしく私が…うっ、失礼。むなしく私が、私が、この世で月日を、過ごしっ。うっうう。うううう。」

 何か様子がおかしいと気付いたクラスメートたちが、ざわつきだす。

「みんなごめんなさいっ!私、もうダメっ」

 そう言うと操ちゃんは教卓に突っ伏して泣き出してしまった。

「操ちゃん!どうしたのっ?」

「大丈夫?操ちゃんっ」

 数人のクラスメートが席を立って教卓に駆け寄る。

「ううっ。みんなごめんなさい。私、私…失恋したのぉ。うううううぇぇーん」

「ええッそんなっ」

「操ちゃん、かわいそうに」

 おじさんを取り囲むJKの集団。そのおじさんの背中を撫でる者、ティッシュを差し出す者、一緒になって涙ぐむ者。…傍から見れば、なんてカオスな絵面だろう。


 私はというと、後ろの席の真由と同じく口をあんぐり開けて、ポカンとするしか他無かった。

 隣の芽理は、顔を伏せて肩を震わせている。

 芽理の性格上、同情して泣いているのでは決してない。彼女は可笑しくて仕方ないのだ。

 声が出ないように両手で顔を覆っているが、「くくくくくっ」という声が漏れ出てしまっている。

「えっ?なに?もう授業終わった?」

 喧騒で目を覚ました春菜がガバッと起き上がる。

「まだ始まったとこ」

「なぁんだ、おやすみぃ」

 私が答えると、春奈はそう言うなりあっという間にまた寝息を立てだした。



「…それでね、次の日お店に行ったら、その男の指に、指輪が、指輪がっ」

「ええーっ何それっ?」

「最低!信じられないっ」

 教卓ではまだガールズトークが繰り広げられている。

 芽理はどうにか笑いを堪えて息を整えると、「ふーっ」と長い息を吐き出し、教卓を眺めて言った。

「ねぇ結愛、私らってさ、いちおう受験生なわけじゃん」

「えっ?うん。受験するかしないかは別として、世間一般から見たらそうだね」

「私最近思うのよ…ずっとこんな毎日が、続けばいいのにって」

 腕を組んで遠い目をする芽理の言葉に、私はほんの少し、胸の奥がざわついた。


 そうなのだ。私たちはもう高校3年生。あと1年もすれば、否が応でもこの校舎から吐き出され、社会という海の中にドボンと飛び込まなければならない。

 あと1年。

 たった1年で、私にそんな準備が出来るようになるのだろうか。


 押し黙った私を見て、芽理が明るい声を出した。

「まっ今は今を楽しもうよっ。結果は後からついて来るってね」


 今を楽しむ、かぁ。そんな悠長な心構えでいいんだろうか?とも思ったが、確かに、もう二度と味わえないであろう高校生活を満喫しておかなくては、とも思う。


 高校生活…勉強、スポーツ、友情、恋愛。ぱっと思いつく中で私が胸を張って、卒業後に悔いなくやり遂げましたと言えそうなのは、「友情」ぐらいのものだ。

 勉強はまあそこそこ。スポーツは苦手だから置いといて、「恋愛」これに関しては丸っきりダメだ。もし通信簿にそんな欄があったら、「もう少し頑張りましょう」どころか、その項目全体にでっかく✕印をつけられて、間違いなく保護者面談の対象になる。


「うふふ。春奈ったら寝顔もウケるなぁ。写メ撮っとこ」

 芽理が取り出したスマートフォンの画面に、「春奈♡」と書かれたフォルダが見えた。

 芽理も大概もの好きだなぁ。

 春奈の寝顔なんか私にとってはただの恐怖映像にしか見えない。

 いや、待てよ。もしかしてこの二人って、実はすでにそういう関係になってるのか?私が知らないだけで。

 そういや、春奈の部活が無い日は二人でべったりだし、芽理と幼馴染の私より、春奈の方が芽理のことをよく知っている。芽理がシリアルに牛乳をかけずに食べるなんてのは春奈から聞かなきゃ一生知る事は無かっただろう。…まあ超どうでもいい事だけど。

 芽理は芽理で、スマホにわざわざハートマーク付きのフォルダを作ってるぐらいだし。むむむ、何か一歩先を行かれた気分だ。


 真由は?そうだ私には真由がいる。まさか真由に限って、私に内緒でそんな浮ついたことしてるとは思えない。

 …いや、そうとも限らないな。いつも小説を書いてる投稿サイトで、ひょっとしたら同世代の男子とイイ感じになってるかもしれないし。

「君の今度の小説、良かったよ」

「嬉しい!あなたのだって素敵だったよ。私フォローしちゃった♡」

 なんてことが繰り広げられてる可能性だって否定できない。

 うーん、どうしたものか。

 教卓で目を潤ませてる角刈りおじさんですら恋をしているというのに、

 私ときたら…。



「…はぁ」

「どうしたの結愛…?」

 私の大きなため息に、真由が顔をあげる。

「ぇびぃぴらぁぁふぅぅ」

「ちょっとコイツ今、エビピラフって。クソウケるんだけど。エビピラフ食ってる夢でも見てんのかな。今度作ってやろ」

 隣の席で、芽理は春奈の寝言をムービーで撮って一人で盛り上がっている。

 私は真由の方に振り返って聞いた。

「ねえ、真由。ちょっといい?」

「えっ…うん。何…?」

「恋、した事ある?」

「えっ!」

「恋よ恋。恋愛したことあるの?」

「無い無い無いよっ。あるわけ無いよそんなのっ」

 いつもおっとり口調の真由が、早口になって顔を真っ赤にさせている。

 これはシロだな。

 いや、何を言ってるんだ私は。

 何か今日の私は、自分でもわかるぐらいおかしくなっている。

 いつもはそんな事、考えたことも無かったのに…。

 頭の中が急にごちゃごちゃして、どうしちゃったんだろ私。


「突然どうしたの結愛…びっくりするじゃない…」

「ごめん。そうだよね、何か私、今日変かも」

「大丈夫?…風邪でもひいた…?」

 私のおでこに、ぴたっと真由がおでこを引っ付ける。


 その瞬間、私の心臓が音を立てた。


 フワッと真由のいい匂いが香ってくる…。

 

「うん、熱は無いみたい…」

「えっ?ああ、うん。ありがと、真由」

 熱もないのに、私は何だかぼうっとして、教室に吹く優しい春の風に寄りかかった。

 いつまでも、いつまでもずっと、この風に吹かれていたい。

 この風が、永遠に止まなければ、いいのに…。


 しばらくそうしていた私は、やがてうわ言の様に呟いた。

「ねえ真由?私、ううん、私たちってさ。…このままで、いいのかな?」

「えっ…?」

「ごめん、訳わかんないね。忘れて」


 春の風が運んでくるのは、きっと花びらだけじゃない。

 そうきっと…。


「…恋って、どんな感じなんだろ」

 また独り言のように呟く私の手に、真由は少し困ったような笑顔を浮かべて、

そっと柔らかい手を重ねた。


「恋、したこと無いから…わからない、けど…」

 真由の温かい手。

 私は、そのまま何も言えずに真由の言葉を待った。


「………」


「ごめん…やっぱり私もよくわからない…」



 開いたままのノートに、また薄桃色の花びらが一片、私の書いた文字の上に舞い落ちる。


 私は目を逸らして、花びらの舞う、窓の外を見つめた。




―花の色は 移りにけるな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに―

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