夜の河

犀川 よう

夜の河

 夜の河は私の終わりを受けとめられる。


 あなたはそんなことを微笑みながら言った。夏祭りの終わった神社の本殿の裏で、浴衣の似合うあなたはわたしの手を握った。ほんの僅かな灯りの下でわたしにすり寄るあなたの白い頬。ずっと一緒にいられると思ったのに、高三の夏はあなたに残酷な選択を強いた。


 住んでいる村には大きな河があって、道路の高架橋と人専用の石橋があった。わたしたちはその石橋で河を見ながらいろんな話をした。友人のこと。学校のこと。そして、将来のこと。

 

 あなたは高校を卒業したら、家の都合で二回りも年上の男性のお嫁さんになることが決まっていた。家柄とお金の事情で編み込まれた鋼鉄の白装束を着せられたあなたは、ただ従うしかなかった。大事な一人娘。そして一家を担う大事な生贄。

 

 そんな現実を少しでも忘れようと、わたしとあなたはあの石橋から河をよく見ていた。美しく光りながら淀むことのない流れ。わたしはあなたと手を繋いでから決心を告白した。――どうか一緒にこの村を出よう――。あなたは一瞬も迷うことなく首を振った。――ここが、わたしのお墓だから――。あなたは下に流れる河を見て微笑んだ。わたしはずっと一緒にいることは叶わないと知って、心の中で泣きながらあなたに言った。――それなら、わたしたちが卒業した日にこの河に送ってあげる、と。


 どうせの娘として育てられたわたしだ。悲しむ者など誰もいない。村八分にされているようなもので、周囲は汚いものを見る目を隠そうとはしない。だけど、あなただけは違った。わたしに優しく、そして、わたしを好きになってくれた。

 秋になり石橋で互いの想いを知った。だけど、あなたからもわたしからも、この村を出るという言葉は出てこなかった。あなたが卒業して嫁ぐ前に、わたしはあなたを殺すと硬く約束をしたのだ。その誓いだけは何としても守りたい。好きな人の最初で最後のお願い。わたしの家の台所には使いもしない柳刃包丁がある。それであなたを送り出すことを決めていた。


 冬になった。あなたは自分の育った神社で死にたいと言った。そこから河までは歩いて三十分はかかる。だから、あなた食べることをやめてしまった。けして口には出さないけれど、わたしが背負っていく負担を考えてのことに違いなかった。一日一日と死が近づいているのに、あなたはどんどんと透き通っていった。もとから痩せ型のあなたがさらに研ぎ澄まされていく姿を見て、わたしは恋愛感情以上のものを抱いた。どうして人はこんなにも綺麗になれるのだろう。大晦日、わたしはあなたに許しを請うて、初めての試みをした。身体のすべてが触れる気持ちよさで涙しか出なかった。


 春の足音が聞こえてくるとあっという間に卒業式の日になってしまった。あなたは卒業証書を教室のゴミ箱に放り込んだ。それはあなた自身の生を投げ捨てたようで、わたしの胸はとても苦しくなった。――今夜七時、神社の裏に来てね――。いつもの逢瀬の誘いと何一つ変わらない声色と笑顔であなたはわたしに言った。それが最後の誘いであった。わたしはあなたにできるだけの笑顔を見せてから、卒業証書をゴミ箱に投げ入れた。あなたはやつれきった身体をわたしに預けると、卒業を祝ってくれた。


 春の午後七時は、本格的な夜の始まりという闇色のドアを開けたばかりの世界でまだ薄暗かった。わたしは理由わけもなくあばずれに殴られた頬を抑えながらタオルに巻いた獲物とあばずれの睡眠薬を持って神社に向かった。どうやって終わらせようか。できるだけ痛くないようしてあげたい。この日までに調べておいたそれらの方法を一つ一つ確認しながら歩いた。不思議と悲しみはなかった。そして恐怖も感じなかった。半年近く心の準備をしてきたからだろうか。

 歩きながら一昨日の最後の睦み合いを思い出した。夜には誰も来ることないあの石橋で、ひんやりとした石畳に押しつけるように抱きしめられたあなたは、棒切れのように成り果てながらも、夏と変わらない笑みを捧げてくれたのだった。


 動揺はなかった。心のどこかで、なるかもしれないと思ってもいた。済んだ後の始末の為だけに超絶的な断食をするくらいの優しい人だ。をわたしにさせようなんて、最初から思っていなかったのだろう。胸からお腹のあたりまで服を真っ赤に染め上げたあなたは神社の戸板を背にして果てていた。わたしは膝を折り、あなたの前にしゃがみこむ。白い頬を撫でてあげた。口元には満足そうな、あるいは安心した笑みを浮かべていた。――ばかねえ――。それしか言葉が出なかった。


 だけど、わたしは約束を果たした。まだ微かに呼吸をしている。目は虚ろになっていて、わたしを見ることはできていないだろう。わたしは持ってきた包丁で何度も刺した。反応はない。それでもあなたを仕留めたのはわたしであると思いたくて、何度も刺した。そして謝った。――ごめんね。こんな怖いことを一人でさせてしまって――。わたしはあなたがこの村から足が離れたと思うまで刺した。


 あなたを完全に奪ったと確信することができたので、わたしはあなたを背負って歩き始めた。力が抜けて重いはずなのに、あなたは本当に軽くなっていた。こんな気遣いに感謝をするなんておかしいかもしれない。だけど、わたしはあなたに、ありがとう、と呟いた。こんなことでしかわたしとあなたは一緒になれないなんて、本当に馬鹿げているけれど、うれしい気持ちで一杯になった。


 夜の河はわたしとあなただけのもの。あなたを一旦降ろしてからそっと抱き寄せ、あなたの硬い唇にわたしのまだ柔らかい唇を合わせた。それからわたしはあなたを背負い直してあの石橋の真ん中へと歩いていった。涙は出ない。この世の全てから解放されていくあなたの笑顔を思い出して、少しだけホッとしている。だから、二人の思い出が詰まったあの石橋の上から、落ち着いてあなたを河へと送り出すことができた。


夜の河はわたしとあなただけのもの。

夜の河はあなたの終わりを受けとめられた。


夜の河はわたしとあなただけのもの。

わたしもみそぎを済ませたらこの河を渡る。

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