第九話 通行人Aの災難

 僕はいたって普通の人間だ。とりたてて良いところも悪いところもない、本当にただの凡人だ。だから、こんな不可解な現象は僕には不釣り合いだ。


 仕事帰り、駅から徒歩数分の自宅へ向かって歩いていたところだった。うちの職場は朝が早い分、帰りも早い。時刻は午後15時半。天気も良くあたたかな日差しに、今日は少し遠まわりをして帰ってみようかと、普段と違う経路を辿っていた。

 するとアパートやら住宅やらが建ち並ぶ住宅街に、猫がいた。別に猫がいるなんて普通のことだ。普通じゃなかったのは、その猫が黒い女性もののハンドバッグを持っていたことだった。いや、持っていたでは語弊がある。正しくは、咥えて引きずっていた。


「……」

「……」


 僕はその猫におののいた。なにせ、小さいくせに謎の威圧感がある。そして僕はその猫の正体を知っている。


--これはマヌルネコだ。


 僕は動物園が好きだ。世界各国の動物が集合し、その生態を垣間見ることができるからだ。そしてつい先日、栃木への出張ついでに那須どうぶつ王国に行った。その動物園ではこのマヌルネコがウリらしかったので、僕はいつものように解説を読み、驚いた。

 こんなに可愛い見た目なのに、触れればひとたび噛まれるか引っかかれるかして重傷を負いかねない獰猛さをもち、飼育員すら触れられない、そんなギャップに溢れた魅惑的な猫。僕はそんな猫の魅力に取り憑かれ、動物園が出している『マヌルネコのうた』を聴くことが趣味になりつつあった。

 だから、見間違いなんかじゃない。グレーの体毛と顎周りの白い毛。丸い耳に少し短い足とふさふさの尻尾。そしてこちらをじっと見つめる黄色い目。

 ガラス越しでなく、わずか一メートルほど先に鎮座するその生き物に、冷や汗をかく。その鞄はどこから奪ってきたものなのか。その持ち主は無事なのだろうか。いやいや、そもそもこのマヌルネコはどこから出てきたのだろう。確かモンゴルあたりが生息地だったはずで、日本には生息しているはずがない。ということは、まさか動物園から脱走した?

 焦る僕をじいっと見つめるソイツは、まるで獲物を狙っているかのようだ。僕が少しでも動くそぶりを見せれば襲いかかってやると言わんばかりの目をしている。こわい。


「……」


 鞄を咥えたままの猫は、じり、と前足を一歩こちらへ進め、また一歩。僕はいつ襲われるか分からない恐怖に、立ち尽くすばかりだった。じり、じりと猫がにじり寄ってくる。まずい、このままでは僕は八つ裂きにされてしまうかもしれない--。

 だがそんな心配は杞憂だったらしい。猫は僕の足元まで近づいてくると、鞄をぼすりと落とした。


「……」

「……あ、えっと」

「……」


 猫は、僕をじいっと見ている。これを受け取れと言わんばかりに。でも、この鞄に触れたら僕が窃盗したみたいじゃないか。そんな反論も許してはくれないようで、猫はずい、と鞄を前足で僕の方へ押した。


「……」

「……わ、わかったよ」

「……」


 鞄を受け取ると、気のせいかもしれないが、猫は満足げな顔をした。この中身を確認して、持ち主に届けた方がいいのだろうか。いやいや、それより警察に行くのが先だろうか。でも、猫が持ってましたなんて言葉、信じてもらえないに決まっている……。そんな葛藤もむなしく、猫の視線による圧力に、僕はあっけなく前者を選んだ。

 なるべく中身を見ないようにしながら、財布を手に取る。中には運転免許証が入っていた。鞄はどうやらこの近くに住んでいる女性のもののようだった。


「どうしよう……」

「なぅん」

「ひっ……」


 猫が鳴いた。僕はびくりと固まって、猫の出方を伺う。我ながら情けないが、仕方ないだろう。怖いものは怖いのだ。

 猫はくるりと後ろを向いた。ほっとした気持ちも虚しく、猫はこちらを向いてもう一度鳴いた。恐る恐る僕が一歩前に踏み出すと、猫は前へ進んでいく。僕が足を止めると振り返って鳴く。


「なぅん」

「ついて来いって……?」

「……」


 猫に連れられた僕は、気づけば近くのスーパーへとたどり着いていた。そして不可解なことに、スーパーにいる人たちは猫の存在に気づかない。


「なぅん」


 猫は、スーパーの肉売り場で止まった。肉を買えということだろうか。僕が安い豚こまをひとパック手に取ると、猫は不機嫌そうな顔をして鳴いた。なんだよ、安い肉じゃ不満だっていうのかよ。お猫様のご機嫌を伺いながら、オーストラリア産の牛肉を手に取ると、それでも不満げに鳴く。何、これでもだめだっていうのか。僕はヤケクソになって、一番値の張る国産の牛肉を手に取った。


「なぁん」

「これならいいって?」

「……」


 結局僕は猫に逆らえないまま、高い肉を十五パックほど買わされた。勿論、断じて、鞄の持ち主の財布は使っていない。僕のポケットマネーで、高級肉の山をレジ袋パンパンに詰めた。


「なぅん」

「はいはい、どうせついてこいって言うんだろ」

「ゔなん」

「ごめんなさい」


 少しでも逆らうようなことを言えばこれだ。僕は猫の脅しにビビり散らかしながら、スーパーを出た。猫は変わらず僕を連れて歩く。パソコンやら重たいものが詰まった仕事用のリュック。右手には女性ものの鞄、左手には高級肉の山。はっきり言ってカオスだ。


「なぅん」


 猫はひとしきり歩くと、あるアパートの前で止まった。そこは先ほど見た免許証の住所と一致していた。外階段をぴょんと登ると、猫はまたひと鳴きする。凡庸な人生を送ってきた僕にだって、この後の展開は読めた。きっと買わされたこの高級肉は、僕の口に入ることはないのだ。

 猫は部屋の前で止まると、せっつくようにまた鳴いた。早く開けろと言わんばかりだ。


--203号室に住む女性の方、本当にごめんなさい。僕に悪気はなかったんです。ただ、この怪奇現象に抗えなかったんです……。


 僕は言い訳を心の中で唱えながら、その家の鍵を開けた。猫はぬるりとその中へ入って行った。僕はなるべく中を覗かないように、玄関にそっと鞄とスーパーの袋を置き、扉を閉めた。

 僕は逃げるように外階段を駆け降りると、一目散に自宅へ走る。これで僕は、凡人から立派な犯罪者に様変わりである。


--ああ、神様。僕が何をしたって言うんですか。

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