ことの「は」
恒南茜(流星の民)
「羽」
「もう、空を忘れたの?」
文芸の専門学校に進学するからか、それとも文芸部・元部長としてのプライドなのか、彼女が口にする言葉はどこか実像を帯びず、ふわりとしたものだった。
それに行く宛があるのかなんて、ちっともわからない。
だからこそ、捉えどころがない。
青葉が芽吹き、次第に日差しは強まってきた。
それでも未だに朝早ければ肌寒く、マフラー巻いて白い息なんかも吐いて。
三月。卒業を目前に呼び出された校舎裏でそんな風に待っていた碧葉から真っ先に告げられたのは、そんな言葉だった。
「……多分、いらないし。もう、昔ほどの熱とかない、から」
相手の顔が見られない。
足元に散らばっていた落ち葉と枝、木の実。それから申し訳程度に顔を見せる新芽。
人と話しているとは到底言えない。
「……わたしらしさとか、そういうの持ってないし」
碧葉が玲瓏に言葉を紡げば、私はそれを途切れさす。
ずっと、下を向いて。上っ面だけの会話をしていた。
「だから、書くのやめるんだ」
ずっと、真っ直ぐに。
もう、飾るのすらも諦めたように。
視線だけは感じる。視界に入った彼女の爪先がくるりと回って、ざくりと音を立てながら一歩、一歩遠ざかっていく。
その足が、落ち葉を踏みつける。パリリ、と簡単に裂ける。
それでも、お構いなしに進む。
多分、この瞬間に落とした。
熱とか、友情とか、もしかしたら紡ぐべきだった言葉とか。
いつも、周りに流されて、上っ面だけで生きてきたのに。
それでも、初めてはっきりと伝えた意思は相手を失望させてしまった。
その意思が、無駄な一言だったから。
好きになれないものばかりで構成されていたから。
わたし——
◇ ◇ ◇
——ねえ、小説を書かない?
文芸部員としての籍はとっくに失った二月の後半。
三年前、わたしを文芸部に引き入れた時と全く同じ文言で碧葉は誘ってきた。
当時、文芸部といえば大分マイナーな部活だったけれど、読書は好きな身だったし、高校で初めてできた友人の誘いを断るのも嫌だったから、頷いた。
それからの数ヶ月間が、碧葉に言わせてみれば怒涛の日々だったことをわたしは知っている。
曰く、五人の部員が必要な文芸部において足りないメンバーはあと三人。
文芸部を結成することに並々ならぬ情熱を注いでいた碧葉はあの手この手を用い、校舎中を走り回り、時には叫び、時には笑い合い、とにかく三人、必死でかき集めてきたと言う。
多分、それだけでお話が一個作れる。
でも、その隣に常にわたしがいたわけじゃなかった。ほとんどが伝聞したもので、彼女を主人公とするのなら、わたしは友人Aとか相談役の羽崎さん——とか、多分そんな立ち位置だったと思う。
——ごめん、やめておく。
別に、活動自体はそこそこやっていた。
毎週の定例会には顔を出していたし、小説も川柳も短歌も、書けと言われたものはしっかり書いた。
趣味でも結構書き始めた。
——わたし、しばらく書いてないし。多分厳しいと思う。
情熱があったことには違いない。
布団の中で素敵なお話ができたら頬が緩んだし、つい筆が乗って二、三時間ぶっ通しで書き続けることもあった。
それでも、言ってしまえば趣味程度だったのだ。
三年生になり大学受験でてんやわんやしている内に、すっかり書く時間はなくなって。
3ページきっかり部誌に寄稿したのを最後に、わたしは筆を置いた。
進学先はそこそこ、至って無難だ。
碧葉みたいに専門に進む度胸もなければ、そこまでやり続けられる確証もなかったし。
もう大学も決まったしきっかりやめてしまおう。
“厳しいと思う”。曖昧な言葉で包んだメッセージにはそんな意思が混ざっていた。
それが自分の意思なら、流されて入った部活の幕切れを自分で行った——それだけでもやるべきことはちゃんとやったと思う。
ベッドに身を投げ出して、深くため息を吐く。そうだ、やるべきことはきちんとやった。
片付いたことよりずっと大事なのは、これから何をするかだ。
大学に入って、どういう風にキャリアを積んで、どんな職に就きたいか。
サークルだって入りたいし、友達だってもちろん欲しい、バイトも始めなきゃ。
曖昧な
学部も学部だし、潰しも効くからきっとなんとかなるって——そう思えるし。
それでももし、本当に私らしさが固まっていて。
自分はこうなるんだ——って誇示できたら。
そこから進路まで逆算していたら。
碧葉が脳裏をよぎる。彼女はそうだ。凄いこと、なんだと思う。
でも、それはあまりにも怖い。
自分自身の移り気加減なんて、自分が一番知っている。
だから——割り切るのが一番だ。
それが、わたしにとってのらしさなのだ。
◇ ◇ ◇
◇ ◇
◇
【夢 持っていい】
——いやいや、何を打ってるんだわたし。
心の中で軽くツッコミを入れつつ、検索ボックスを空にする。
スマホを持っていて手持ち無沙汰だとつい調べ物がしたくなる、癖だ。
卒業式まであと一週間、暇な時間が増えて、考え事をする頻度もこうしてネットサーフィンをする機会も受験期よりぐっと増えた。
遊びに行く日もあれば、こうして無為に時間を過ごすこともある。はっきり言って暇だった。
そんな中で無意識に生み出されて。それでも、ただ一文字がこびりついた。
夢を持て。
好きをいっぱい詰め込んで、希望と願望を混ぜ合わせたわたしらしさの完成品。
物事に打ち込むのと、それを夢にするのはずっと違うとよく聞く。
わたしは、好きなものを全部趣味のままにしておきたい。好きなもので食っていけるほど社会は優しくない、なんて耳にタコができるぐらい聞いてきたし、そこで踏み出せるぐらいの勇気がない。
書くの、結構好きなのかもしれない。
擦り切れるまでビデオテープを流したのと同じ。もう、飽きかけてるかもしれない。
全部、かもしれないだけだ。何一つ決まっちゃいない。
半ばまで埋まって、それ以降は白紙のメモ。
スマホにいくつも書かれたそれと同じ、中途半端に染め上げて、あとはまっさらなままだ。
多分、碧葉の誘いを断ったのは正解。
中途半端なわたしはきっと、彼女にとっては毒でしかないだろうから。
だから、凄い。
多分、自分らしさで染め上げられた碧葉はもっと凄い。
◇ ◇ ◇
「亜依、今日遊びに行かない?」
「ん、もちろん。どこ行く?」
「カラオケとか良くない? ほら、平日安いし」
高校を卒業しても交友関係は持つべきだ、と良く言う。
それなら、いいように流されて、いいように関係を維持しておくべきだ。
午前登校。久々に人に溢れた教室で友人の提案に相槌を打つ。
誰かの友人として、仲良しグループの一員として、そうやって自分を保つことは大切だ。
そんな、大事な大事な儀式の中、
「羽崎さん呼んでって。A組の鷹峰さん」
不意にクラスメイトからそんな伝言を受け取った。
「ごめんね、ちょっと待っててもらっててもいい?」
もちろんだよー、と。
当たり障りのないことを口にして、当たり障りのない返答を背にしながら、教室の入り口で待っているという碧葉の方に向かう。
「亜依、この間あたしが言ったこと、覚えてる?」
開口一番、まるで何事もなかったかのようにけろりとした調子で碧葉は口にした。
「……覚えてる。もう書かないんだ——って」
「それじゃないの。もっと前」
「——小説を、書かない?」
「うん、そう。一度断られたけど、やっぱりあなたが必要だって、あたしの中で結論づけたの。だから、書いてくれない?」
いつもあたし本意、それが碧葉だ。
一度断られたことをもう一回相手に頼むとか、普通じゃない。
そういう、普通じゃないところ。それが積み重なってるから、碧葉は凄いのかもしれない。
……それでも。行き過ぎたそれはただの自己中で——それが、わたしはあまり好きじゃない。
「……やだ」
絞り出した声は、か細くて。それでも、わたしの意思を端的に反映した。
「どうして?」
全く悪びれもしない様子で彼女が聞いてくる。
もう、限界だった。
彼女に、全部ぶちまけてやりたかった。
「今、忙しいからっ! 卒業までにやりたいこと、いっぱいあるし——っ!」
「そのいっぱいって? どういう風に忙しいの?」
「友達関係保たなきゃ、とか——そうやって、自分から動かなきゃ私を残せないから——っ! 大変なんだよっ!? 私らしさがない子って——っ!」
コンプレックス、本音。
全部全部ぶちまけた。
教室の前なのに、次々に言葉が口をついて出て、ちっとも止まなかった。
「……らしさって、そうしなきゃ保存できないもの?」
「碧葉にはわからないかもしれなけどっ!」
「……確かに。わからない、かも。だから、それを知りたいんだけど」
話にならない。
ほとんど成り立たないままで、もうこんな会話していたくない。
1秒でも早くここから立ち去りたい。
「もういいからっ!」
HRがまだ、だとか。
約束、とか。
全部跳ね除けてでも逃げ出したかった。
吐き捨てて、床を踏み、駆け出す。
革靴が擦れてキュッと音を立てる、尚更不快だ。
「自分らしさを残すなら、小説が一番の媒体——っ! 覚えておいてっ!」
だから、そうやって信じて、断定して、口にできることが凄いんだって、どうしてわからないんだろう。
ほとんど喧嘩別れなのに、最後までそんなことを言う。
脳裏にこびりつく碧葉の声は走って、振り払おうとしても振り払えなくて。
逃げ出してもなお、私はその場に囚われていた。
◇ ◇ ◇
◇ ◇
◇
「──ねえ、作家、目指さない?」
誰しも夢は見られる。
言ってしまえば言葉のアヤだけれど、寝れば一発だ。
情景そのまま、記憶が転写された夢。
霞がかかった視界の中でも、ぼんやりとそれだけはわかった。
自信満々、少しばかりふてぶてしい笑顔を湛えた碧葉。
わたしの手元にある本を境にして、彼女だけがはっきりと輪郭を保っていた。
「────」
それが教室だったのか、どこだったのかもわからない。
返事に、わたしがなんて言ったのかもわからない。
きっと、それほどまでに碧葉は凄い。
初めて会った瞬間に、彼女はわたしが見ていた世界全部を上書いて、自分のものにしてしまったのだ。
悔しかったけれど、初対面のときからずっと、碧葉は凄かった。
「もちろん、生半可なものじゃないのは知ってる。でも、あなたが読んでるそれ──」
彼女はわたしの手元にある本を指して、口にする。
「──それを読んでるならきっと、あなたは変わりたい。わたしには、わかるよ」
ずっと、ずうっと、碧葉は私にとって眩しかった。
近づけば、逆説的に自分の空っぽさが浮き彫りにされる。その眩しさに、焼かれそうになる。
誰よりも怖いから、近づきたくなくて。それでも、誰よりも凄くて、隣にいて。
「……今日は、宮沢賢治なの?」
「うん、雨ニモマケズ、風ニモマケズ。詩も素敵、喝を入れられてる気分になる」
「……それって、本当に素敵?」
彼女にそそのかされるままに文芸部員になってから、幾日経った時だったろうか。
もう、お互いに出会ったきっかけすら忘れかけてた日、部員がほとんどいなくて。部室に二人きりだった日。
彼女が読んでいたものを、強く覚えていた。
「素敵だよ。もがいてるのを、肯定してくれるんだもの。逆に、もがけって強いられてるぐらい。亜依が最初に読んでたのだって、同じようなものでしょ?」
──『よだかの星』
碧葉が初めて話しかけてきた時に、わたしが読んでいたものだ。
「……好き、だったから。一応、昔に」
昔読んでいた短編集に挿入されていたお話。
子供が読むには曖昧で、理解できなかなったのが悔しくて。読んだばかりの時は毎日のように読み返して意味を考えていた。
数日に一度、数週間に一度、数ヶ月に一度。数年に一度。
次第に間隔が開いていく中で、その周期がたまたま訪れたのが碧葉と出会った日だった、ただそれだけ。
習慣の一部だったのだ。
「曖昧な自分、決めつけられた限界、疎外。当然、鳥じゃ星にはたどり着けない。そんなのは、重々承知してるよ」
それでも、碧葉はそんな当たり前に歯を突き立てて、噛み砕いた先にあったものがどんなだったか、必死に咀嚼する子だった。
もう、昔考えていたことなんてほとんど覚えちゃいない。
どんな解釈で読んでいたか、なんて。当然わたしにはわからない。
「でも──”当然”だから、とか。一般論だけで世界を定義してたら物語は始まらない。一つ、亜依を書き換えることが許されるのなら、変えたいのはそういうところかも」
「なにそれ」
彼女の言葉はわたしには重くて。
咀嚼しきれなかったものが、ふっと口の端から漏れ出る。
「ちょっと、大げさすぎたね。ただ、あたしが言いたいのは──」
そうだ、あの日。彼女はわたしの反応を見てくすくすとひとしきり笑った。
そして、最後に言ってみせたのだ。
「──もう少しだけ、都合よく。自分を捉えたって良いと思うよ」
◆ ◆ ◆
世界は、全然わたしにとって都合が良くない。
小説良いなって思っても、一気に書けるほどわたしはそれが好きじゃなければ、才能もない。
文字を刻むのにも時間はかかる。思いついたアイデアは擦り切れてる。執筆にいっぱい時間を割けば睡眠時間も成績も、友達付き合いも侵食される。
一つを立たせればもう一つが立たず。
不器用で、都合が悪いわたしには何かを切り捨てることでしか上手く生きていくことができない。
受験が終わってから久しぶりにキーボードを叩こうとした時、指先が震えていた。
震える指先で無理やりキーボードを叩き、出来上がった文章は文芸部で活動していた頃をトレースしただけのお粗末なもの。
ブランクの末、ほとんど初めからやり直さなくちゃいけない──そこで筆を取り直せるほど、多分、わたしは執筆が好きじゃなかった。
思えば、受験期。一片、そこで焼かれたんだと思う。
日々を送るのが手一杯、えがいた進路は昔の自分が考えてたらしい夢で染め上げられたものなんかじゃなくて、至極無難なものだった。
当然わたしが執筆する時間はなくなっていって──それでも、碧葉は違った。
あたしは大学でも書き続けるから、と。
文芸の専門学校を選び、ひたすら知識を詰めぶっ倒れる寸前まで小説を書き、らしさを限界まで燃やし尽くすように戦っていた。
そこでうねった情熱が、真っ直ぐすぎる彼女がきっと、眩しすぎて。
そのせいで、筆を取ることが憚られたんだと思う。
彼女といるだけで追い詰められたのは確かだ。
だって、ずっと焦がされてるんだから。
だというのに、いつも碧葉が口にすることは魅力的に映った。
焼かれてもなお、どうして近くにいようと思ったか。
凄まじい輝きを放つ星の隣で、わたしもその光を享受していたかった、彼女の作ったコミュニティーに加わりたかったから──違う。
『小説を、書かない?』
そんな打算的な考えで頷いてたんじゃない。
わたしが、そうしたかったから。
見て倣え、ああなりたかった。あたし本意なまま輪の中心にいる碧葉に憧れた、けど──ずっと、その隣にいたかったわけじゃない。
わたし自身が変わりたかった。
自分で、輝けるようになりたかった。
『やっぱり、書きたい』
指先が叩く画面上のキーボード。
放っぽり出されたメッセージに答え、既読がつくかなんてお構いなし。
スマホを放り出し、ベッドから飛び起きる。
今、覚めたばかりだけど。
もう、冷めているかもしれないけど。
「私、出かけてくるっ!」
青臭いこと、言ってたいし、やってやりたい。
まだ、都合がつくって──そう信じたい。
駆け降りた階段、フローリングを踏み締め、玄関。靴へ強引に足を突っ込み、その足で蹴り上げ一歩、外に飛び出す。
ぽつぽつと灯る街灯、肌寒さに悴んだ手をポケットから引き抜き振り上げ、ひた走る。
しばらく使っていなかった筋肉が悲鳴を上げる、伸び縮みするたびにつま先が痛む。
それでも、知らない。
後から痛くなろうが今行かなきゃ。都合よく、この後のことなんて忘れてればいい。
踊り出た交差点、左右の確認も程々に突っ切って、坂に差し掛かる。
一歩、足が伸びる。路端の雑草を捉え、すぐに視界から消える。抜き去った。
走る、走る。
ガードレール、掲示板、電柱の標識、カーブミラー。
全部、視界から消えて、晴れて、上向いて。
肺から押し出した息の白さ、その向こう側。
捉えた。
暗くなろうとしてる空の下。
星が瞬く準備をしてる麓──学校だ。
◇ ◇ ◇
「──来てたんだ」
揉めたのなんて関係なし、普段通りの口調で碧葉は口にする。
「……来たよ。メッセージ、見た、から」
肺に溜まった邪魔な呼気を吐き出すようにして、言った。
切れ切れとしたままでも、はっきりとそれは言葉になった。
もう最終下校時間に差し掛かろうとしている。
静まっていく喧騒に、消えていく照明。
窓の外の賑やかさが次第になりを潜めていく中で、それを背に、碧葉は重なった紙を見つめていた。
「……そっか、じゃあ増えるんだ。これ」
薄く、彼女がはにかむ。
見間違えるわけもない。
少し大判で、部室に重なってる中だと薄っぺらい方で、それでもギチギチに字が詰まった拙い原稿。
間違いなく、わたしのものだ。
「ねえ、亜依。あたしが書きたかったもの、知ってる?」
「……何が、書きたかったの?」
戸惑ったようなわたしの口調が面白かったのか、不敵に笑うと彼女は窓を開け放つ。
3月の風が温もっていた部屋を冷ましていく。
けれど、それすら吹き飛ばすように。
去っていった喧騒にとって代わろうとするように。
「せーしゅん──っ! ぐんぞー、げき──っ!」
唸る情熱を、星が瞬き始めた空に向かって思いっきり叫び散らした。
「……青春、群像劇!?」
「そうっ! 青春群像劇っ! 全員が全員主人公──そういうお話を、文芸部員みんなで書きたかったのっ!」
ずいっとわたしの方に顔を寄せて、碧葉は高らかに宣言する。
紅潮した頬で、荒々しい吐息で。その身に迸ったであろうものが、わたし諸共焦がすぐらい、ひしひしと伝わってくる。
「だけど、亜依が書かないって言うから。主人公が一人減るの、ずっと寂しくて──それでも、ここに来たってことは……?」
わざとわたしを茶化すように、彼女は言葉をそこで切る。
自分の口で言いきってしまえということだろう。
碧葉や他の部員みんなを主人公にした青春群像劇──その中に、わたしが書いた物語を挿入する。
わたしの青春が、そこまで特別なものだったか。
情熱飛び交う活劇も、ひょうきんに毎日を過ごした末の喜劇も、心を奪われた末の悲劇も、そうやって括れないぐらい、中途半端なものなのかもしれない。
わからなかった。
そこに足るものを、わたしが書けるか。
「……書か」
──やっぱり、書かない。
その中に埋もれることの方がよっぽど惨めだから。
漏れた声が、自然と答えを紡いでしまおうとした時だった。
「書かなくたっていいわけない。亜依は、もう立派に主人公なんだから」
碧葉が、強烈な肯定が、わたしの否定を塗りつぶした。
「どうして──っ!? どうして、いつもそこまで言い切れるの!?」
「そうやって叫べることが──否定できることが亜依のらしさだから。自分が何者かって、本当に興味がないのならもっと濁すよ。なのに、いつもそうやって本気で向き合おうとするんだもの」
トン、と。碧葉がわたしの胸を叩く。
揺らぐ、塗り替えられる。初めて彼女と出会ったときのように、世界が一つ色づいていく。
「今はまだ惨めな自分に苦悩する一羽の”よだか”。でも、それが羽ばたき、星になるまでの過程が立派な物語になること──胸を打つこと、あなたは知ってるでしょ?」
彼女が手にしていた原稿用紙が全て、わたしの胸に押し付けられる。
受け止めきれなかったものが一枚、また一枚と散っていく。
数え切れないほどの枚数じゃない。全部で何枚か、十分に数え切れるほどだ。
それでも──だからこそ、落ちていく一枚一枚、それを埋め尽くすおびただしい数の文字。それを刻んでいた時に迸っていた熱情が、ありありと思い返された。
「らしさに悩むあなたが群像劇を編む過程で主人公として、自分を再定義する過程──それは、十分物語として足り得ると思うの。だから──」
また、彼女はわたしに答えを教えてくれる。
鷹峰碧葉は凄いから、行くべき道を知っていて、”モブ”のわたしですら導こうとする。
今までは委ねるか、自分には無理だと首を振っていた。
それでも、今は自分の意思がいい。
碧葉の強烈なエゴは、確かにわたしを塗り替え、像を固定する。
でも、一から百までそうでありたくない。皆まで碧葉が言うな。この意思は確かに今、わたしのものになったんだ。
「かく──っ! 書いて、やるから──っ!」
叫び。碧葉を貫き、部室から羽ばたいて、それは開けっ放しだった窓から空いっぱいにまで、確かに轟いた。
「……なんだ。亜依も、結構言うんじゃん」
呆けたように碧葉が口にする。
そうだ、言ってやった。
してやったような優越と恥ずかしさが顔を熱くする。
それでも、その落ち着かなさは──きっと、いつものらしさをぶち抜いたから。
日常で括った枠の外に飛び出たものだったから。
「その方がわたしにとって都合、良いもん」
間違いなく、わたしが望んていた熱だった。
◇ ◇ ◇
◇ ◇
◇
「亜依、今日、遊びに──」
「──ごめんっ! やらなきゃいけないこと、あるからっ!」
手を合わせ軽くお辞儀。
全身で申し訳無さを表現しつつ、チャイムが鳴ると同時に教室から躍り出る。
「──来たね」
「来るに決まってるでしょ。流石に約束したんだから」
一時間の手短なHRを終え、わたしが向かった場所は、群像劇の編纂場所──文芸部の部室だった。
「他のみんなは?」
「……そろそろ来るんじゃない? でも、書くことに拒否反応示したのは亜依だけだったから。他の子はすんなり書いてくれるんじゃないかな」
「……なにそれ。わたしはすんなり行かないってこと?」
「本当のことじゃん。それに、手がかかる子ほど可愛いってよく言うし」
飄々と碧葉はわたしの反論を受け流してしまう。
それでも不服だ。畳み掛けるように何か口にしようとした時、ガタン、と。
建付けの悪いドアを開けて、一人、部室に入ってきた。
「おー、彩晴。こんにちは、今日から群像劇の編纂だけど──途中まで書けた?」
──
肩までのショートカットに、小麦色の肌。
軽く制服を着崩した彼女は高校二年生、後輩だった。
「……先輩、そのことなんですけど……」
ためらうようにして、一拍。
だけれど、意を決したように彼女は言い切った。
その瞬間に、空気が凍った。
あの碧葉ですら、表情を凍りつかせた。
「……私、部活辞めます」
ことの「は」 恒南茜(流星の民) @ryusei9341
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