『獣』

涼波

『獣』

 

 全身に毛があって、四足歩行する動物のこと...これを世間一般では『獣』と称すらしい。でも私はそうは思わない。私の個人的な意見だけど、『獣』というのはこの世の全ての欲を集めた人間のことを表す言葉なんだと思う。...だって人間は欲深い生き物で、それは本能的に獲物を求め食い漁る『獣』と同じじゃない?


 そんなこと思わない、とお父様やお母様には一刀両断されたけど、私の意見は変わらない。



 みんな、みーんな、きっと『獣』なの。スーツとかセーターとかで身を隠して、己の強欲さを偽る、欲深い『獣』。



『欲張りは身を滅ぼす』なんて言葉があるけれど、あれは嘘。街を歩いていても、電車に乗っていても、洒落た喫茶店に行っても、どこにでも欲まみれで醜い『獣』は居る。みんな欲張りで汚らしいのに、身を滅ぼすどころか欲で身を肥えさせている...。あーあ、いやらしいいやらしい。


 そんな『獣』に私もいつかなってしまうのか、と考えると、それもまたいやらしい。あぁ、でも『獣』になりたくない、というのもまた欲深い願望で、もしかしたら私ももう『獣』なのかも。


 そんなことを考えながら、今日も私は長い長い帰路を辿る。辺りは薄暗くて、人通りの少ない一本道。こんな場所にか弱い女子高校生が一人......時々通りすがる『獣』の目線が気色悪いったらありゃしない。


 でも結局、何かの事件・事故に巻き込まれたりはせず、もう自宅の目の前にいた。...何だかつまらないわね、拍子抜けしちゃう! なんて思う。


 洋風チックな、金色の装飾が施された奇抜的な扉を丁寧な手つきで開き、玄関に足を踏み入れ、そうして扉を閉める。開いた時と同じように、丁寧な動作で。


 いついかなる時も『獣』とはかけ離れた、お淑やかなで清楚な人間にならないといけない、そんな思考が私の心を縛り付け、体を従わせてしまうのだ。


 だから履物だって脱いだら端っこに揃えて置くし、外套もキチンと洋服掛けに掛けて仕舞う。そうして玄関から突き当たり右の、大理石で作られた長い廊下を歩き、お父様とお母様が居る部屋の前で足を止める。ここでも淑女としての作法は忘れずに、コンコンコンコン、と四回のノック。


 入れ、と中から渋い声がして、私は迷いなく部屋に入った。


 そこには、高級感溢れる洋風の机を挟んで会話するお父様とお母様の姿があった。予想通りの行動をする二人に、私は少しうんざりする。だってお父様もお母様も毎日決まってこの時間に、この部屋でお話しているんだもの。いい加減別の事をして欲しいもの......なんて考えは、いけない。それじゃあ『獣』と同じだわ。


 誰にも注意された訳じゃ無いけど、少しだけ反省する。


 一人反省会を済ませると、お父様とお母様の顔に視線を向けてから、帰宅報告。


 そこに学校での私の優等生ぶりをさりげなく混ぜた会話を入れ込んでおくことも忘れない。私の活躍を聞くと、お父様とお母様がものすごく喜ぶからだ。


 それから、過剰だと思われないように加減を見極めたビジネススマイルを常に顔に貼り付け、お父様とお母様に精一杯の愛嬌を振りまく。それこそが淑女としての作法であり絶対的マナーだから、私は徹底して演技する。


 きっとお父様とお母様も、演技した私の事を望んでいるはず。......だって二人は、この世界に溢れる愚かな『獣』の内の一人に過ぎない存在なのだから。


『獣』は欲深い人間で、『獣』じゃないのは私だけ、だから私は『獣』の価値観に合わせて『獣』の欲望に答えてあげる。じゃないと、世界中の『獣』が可哀想で仕方がないから。私なりの善意があっての対応なの。


『獣』である二人が私の嘘臭い笑顔に満足したであろう頃合で、さりげなく部屋を退室すると、私はまた長い廊下を歩き、二階へ続く階段を上がり、そうして自室に辿り着く。


 お父様やお母様の自室に比べると随分ちっぽけで何も無い部屋だけど、別に不満や文句があるわけではない。この部屋のこじんまりとした感じは嫌いじゃないし、何より、私が欲深き『獣』ではないことを証明する唯一の物だから、私はこの部屋が良い。


 部屋の中には茶色の古びた勉強机と手元を照らすためのランプ、それに少しだけお洒落な装飾の椅子があって、それ以外にある家具はベットか壁に掛けられた時計くらいだろう。言ってしまえば質素な室内で、この家の部屋の中で『一番何も無い』のが私の部屋だと思う。


 私は顔に張り付けた偽りの笑みを、今この場で漸く引きはがし、洒落た椅子にだらしなく腰掛ける。でもそれは一瞬だけで、「いけない」と思い直し姿勢を正して座る。


 それからというのも、日課である読書を小一時間程度、その後の自主的な勉学の時間を含めると合計で三時間程私は机に向かっていた。食事も、睡眠も、何もかもを忘れて己を偽る。その行為に何か、得体のしれない未知の快楽のようなものを覚えていたのかもしれない。もしくは、その逆......。


 私は無意識のうちに『獣』になることを拒もうとし、そして得体のしれない未知の恐怖に溺れていたのかもしれない。


 拒む......? 私は、『獣』になりたくないという己の欲で、抵抗した? それはつまり、汚らしい『獣』も同然の所業であって......。私は、欲にまみれた『獣』なの?


 胸の内でグルグルと目まぐるしく渦巻く、どす黒い沸々とした感情が私に問いかける。


 あなたは、獣?


 …私は獣じゃない。


 じゃあ、あなたは『獣』?


 …私は『獣』じゃ、ない…のかな。


 あなたは『獣』。


 …そんなはず、ないわ。だって私は、私は、わたし、は......。




 けも、の......?






 プツリ、と何かが切れたような感覚によって、意識は覚醒する。酷く不愉快な、決して二度と味わいたくないような最悪な目覚めだ。やけに重たい体を起こすと、どうやら私は机に突っ伏して寝てしまっていたらしい。......勉強道具が開いたままになっていること、それに私の右手には愛用のシャーペンが握られていることも考慮して、それは間違いないだろう。


 壁に掛けられた古臭い時計を見れば、時刻は午前六時丁度を指していた。いつもなら五時には起きているのに......何だかイヤな気がする。


 と、私が物思いにふけっている間に時間は過ぎていく。慌てて机の上の教材やら筆記用具やらを鞄、学校で使用する鞄にしまい、部屋を出ると、そのまま階段を降り、一階の洗面台で顔を洗う。


 これも淑女、というか人としての常識。......『獣』とは違うのよ、私は。


 誰にも聞かれていないのに、私は脳内でそんな否定をする。自分でもおかしいってことは理解しているけれど、それでも胸の内に秘める、言葉では到底表すことのできないであろう『何か』が私に呼び掛けている気がしてならないのだ。


 朝食は碌に喉を通らず、結果的に何を食べたのかすら記憶が曖昧な状況、でも私には自分の体調を気にする心身的余裕は微塵も無く、今日も律儀に学校に登校しようと鞄を持つ。フラフラとした足取りで自宅を後にし、私は歩き出す。得体のしれない『何か』に急かされ、背後から銃口を突き付けられているような、心底気持ち悪くて最悪な感覚を拭えないまま。


 今日は何もかも上手くいかない、少しだけ嫌な朝だった。でもこれで良い。私は欲に溺れない『人間』であって、『獣』とは違うのだから......。




『獣』では無い、と脳内で否定し続けながら、私は重い足取りで学校に向かう。心は焦燥感に侵されても、私の足は思うように進まない。結局、学校のすぐ近くの書店に着いたのが、家を出て約一時間が経過したタイミングだった。通常なら二十分で着くはずの通学路を、今日は三倍かけてしまった事に、何よりも私自身が驚いている。


 あれ、どうして......。何だかいつもより体がだるくて気が進まなかったけれど、それでも学校には行くつもりだった。だって、私は『人間』、学校をサボったり遅刻したりするのは『獣』の所業でしょ......?


 あと数十歩で校門に着くのに、その数十歩が遠い。私の足に幾つもの錘が付いているのか、と錯覚してしまう程に、足が重いのだ。


 どうして、どうして、どうして。なんで私の足は動かないの?


 そんな疑問は、他人には到底理解できないような問いなんだろう。だって、足は自分で動かせるから、自分で自由自在に操ることができるから、簡単なはずだ。私だって、今までは何不自由なく足を動かすことができていた。でも今日このタイミングに限って、まるで足の動かし方を記憶から削除されたかのような感覚に陥ってしまっている。


 このままじゃもう、私は『獣』と同類になってしまう。それで良いのか、と脳内で鳴り響く警鐘とは対照的に、私の体は、足は動かない。






 否。


 正確に言えば、私の足は漸くだが動いた。確かに動きはした。でもそれは私の目指す学校とは正反対の方向、目的地は分からないが、ただ一つ言えるのは私が学校から離れているという事実があることだった。


 正反対の方向に歩く私の足は、軽やかで軽快なリズムを刻んでいる。いやだ、『獣』にはなりたくない、駄目な存在になりたくない、私は『獣』じゃない。『獣』じゃ、ないはず。




 ......あなたは『獣』。


 違うわ、だって私は......私は欲のない淑女、『人間』よ!


 ......今日のあなたは、いいえ、今日からあなたは『獣』。


 いや! 『獣』は欲にまみれた汚い存在なの! 私はそんな存在にはなりたくない......!


 ......じゃあ、なんであなたの足はこんなにも楽しそうに、学校から離れようと歩いているの? あなたも本当は、『獣』になりたかったんじゃないの? あーあ、いやらしいいやらしい。本当にいやらしいわ。


 違う、違う違う! 私は、わた、し、は......。


 ......もう楽になりなさいよ。あなたは『獣』なの、欲望に憑りつかれた愚かな『獣』。






 私は、『獣』......?




 ......そうよ、あなたは『獣』。




 もう、なにが正しいのか分からない......。




 ......それで良いの。さぁようこそ、これであなたも立派な『獣』よ。あなたが否定し、拒み続けた『獣』。『人間』だったあなたはもうね。




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 私は『獣』。


 学校をサボるのは背徳感があって楽しかったし、自らの欲に身を任せて衝動的に動くのは最高の快楽だった。私を常に縛り付けていた何もかもが一斉に消え去り、体の重さもどこかにいった。今この瞬間が心地よくて、快楽という名の欲に溺れている証だ。


 あれだけ嫌っていた『獣』という存在になって、どうやら私は満足しているらしい。


 その事実が、どうしてか面白い。面白くて、たまらなく不愉快だった。私は『獣』、それは拭い切れない現実で、もう変えることのできない人生の汚点。でも一時の快楽に溺れ、道を誤ることが『間違い』だとは到底思えない、そんな私の頭の中が非常に面白くて、腹立たしくて、不愉快なのだ。あーあ、いやらしい。





 私は『獣』。



 わたしは『獣』。



 わたしは『けもの』。



 わたしはけもの。





                                  『獣』

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『獣』 涼波 @NanaSuzunami

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