花の色は

藤光

いたづらに移り



 空を覆う白い霧の向こうから雨が降り募る。無数の水滴が糸を引いて地面を打ち、中庭のあちらこちらに大きな水たまりを作る。この雨はもう10年ものあいだ降り続いていた。


「雨は止んで欲しくないわ」


 カーテンを取り払った病室シェルターの窓からの景色を眺めながら小町はそう呟いていた。雨のあいだ長く伸びた黒髪は、とうに彼女の腰を過ぎている。今日のために切ってあげようとしたけれど、だめだと言い張るのでそのままになっていた。


「まもなく止むよ。製薬会社セブンピークスがそう発表しているからね」


 病院ビレッジの前に広がるアスファルトを打つ雨の勢いはまだ強い。いくつかの水たまりが繋がって、また大きな水たまりができあがった。


「わたしここから見る桜の花が好きなの」


 ここからは広場に植えられた何種類もの木を見ることができる、広場を囲むように並んでいる桜も雨に打たれている。


「知ってる? 同じようでいて花の色は毎年少しずつ移り変わるのよ。去年は薄桃色で、一昨年は薄紫。黄味がかっていることもあったわね。小野さんはどんな色の桜が好き?」


 製薬会社セブンピークスが降らせている雨にはウイルスを不活性化する成分が含まれている。色味が繊細な桜の花にはその影響が現れやすいのだろう。


「わたしは白い桜が好き。だってとても綺麗なんですもの」


 ウイルスだけじゃない。この雨が10年かけて君を綺麗にしてくれたのかもしれない。真っ白に、そう漂白剤を使って人の心を脱色するように。


「小町、行こうか」

「待って、小野さん」


 病院ビレッジ玄関エントランスまでやってきた。まだ雨は降っているけれど、だんだん窓の外は明るくなってきていた。雲の層が薄くなってきている。長い間降り続いてきた雨が止む。


「雨が止んだら、あの人が迎えに来るのかしら」

「きっとね」

「わたし、雨に止んで欲しくないわ」


 小町は雨が止むと恋人が迎えに来てくれると信じてきた。10年間、ずっとそれだけを心の支えにして過ごしてきたのだ。しかし、いまはその恋人に会うことを避けようとしている。


「わたし綺麗?」


 間違いなく綺麗だよ。すっかりきれいになった。10年前の君は――。


「あの人はわたしだと気づいてくれるかしら?」


 小町、そしてぼくの順に玄関エントランスを出た。雨は止んでいた。製薬会社セブンピークスの予告どおりだった。だが、小町の願いは裏切られ、病室シェルターから見える広場へ続く桜の並木道に彼女を出迎える人影はひとつもなかった。


「わたし、散ってゆく桜が好き」

「そうかい」

 

 小町とぼくを見下ろして広がるいっぱいの水滴を含んだ桜の蕾はまだ、膨らみはじめばかりである。


「春になると風の強く吹く夜がやってきて、広場一面に花びらを敷き詰めてゆくの。翌朝、わたしはそれを見つけて幸せな気持ちになるんだわ」

「そうだね」


 ふたりきりで歩く桜並木の向こうにうっすらと青空が顔を見せはじめた。今年の花の色はきっと空色だねと話しかけると、小町は黙って頷いた。彼女の長い髪が腰で揺れた。



 はないろうつりにけりないたづらにわが身世みよにふるながめせしまに(小野小町おののこまち


(了)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

花の色は 藤光 @gigan_280614

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ