第17話

星見の報告書を学術院へ、星見の拠点の提案書を王宮へ出してから四日目のことでした。

いつものように、朝、夫であったアイテルを見送り、沐浴をします。

天気は変わりなく晴れやかで、空は青く、露台から爽やかな風が吹き込んできます。

白い大理石の床に温かな光が差し込むのを眺めながら、オレンジの果汁とパンを食べ、女官に身支度を整えてもらいます。

ええ、まったくもって何の変わりもございませんでしたわ。

その日も、昨日までと同じように、穏やかに過ぎると思っておりましたの。


部屋を出ますと、アイテルはいつもの護衛服に指輪を胸から下げておりました。

対してテフォンは、手甲と足甲をつけた軍装で、青い外套を羽織っていました。腰には剣を佩き、左指にはきちんと指輪をはめておりました。

「急だが、これから軍へ行く」

それで軍装ですのね。いつもより、凛々しく見えますわ。

「どんな用事ですの?」

「さあな。呼び出しがあったから行くだけだ」

テフォンの返事に、珍しくアイテルが不満げな表情を浮かべます。

「無礼ですよね。今朝方、急に使いをよこすなんて。詳しい用件も告げず」

「ま、軍とはそういうところさ」

テフォンは苦笑いを浮かべると、真顔になってアイテルを見つめます。

「アイテル、姫を頼んだぞ」

「お任せあれ。お気をつけて」

胸元に手を当てて礼を返すアイテルを見ると、テフォンは口元を緩め、左手を上げて外套を翻します。

テフォンが階段を降りるのを見送った後、私はアイテルと広間へ向かったのですわ。


それから、いつものように広間で霊力を捧げると、アイテルと二人で庭園ヘ行きます。

肌を合わせても、部屋を出れば、アイテルもテフォンも、態度を変えます。

前にアイテルに理由を聞いてみましたら「テフォン殿に悪いから」とのことでした。

テフォンは元々、そっけないところがありますが、きっと同じような理由でしょう。

けれど、夜とは違う、どこかよそよそしい態度のアイテルも、それはそれで悪くないのでしてよ。

庭園では、女官達が土いじりをしていました。

皆、地面に屈みこみ、ある者は雑草や育たない植物を抜き、ある者は土を整え、ある者は新たな種をまいていました。

私にとって、この庭園は昔から身近なものでした。

ここではいつも花が咲き、小鳥が囀っていました。

ここは毎日が静かで、日が照っていて、美しく穏やかな場所でした。

ですから私はずっと、ここは自然のまま、このように美しく穏やかなのだと思っていましたの。

もちろん、そんなはず、ありませんわよね。

この庭園の美しさは、女官達の手入れの賜物です。

なぜ、長らく気づかなかったのかと我ながら思いますが、私はずっと、己のことばかりに心を傾けていました。

すぐそばで、私のために尽くしてくれている者に、ちっとも心を向けてこなかったのですわ。

それもあって、私は最近、女官達と土いじりをするようになりましたの。

今更ですけれど、塔の最上階で生きるものに興味が出てきましたのよ。

私とアイテルは、今日は中央の花壇のそばに屈みこみます。

いつもはアイテルとテフォンの二人がいますが、今日はアイテルだけ。

私とアイテルは、花の根元で揺れる草をもくもくと抜いていきます。

すくすくと生きているものの命を絶つのは忍びないですが、こうしないと、花や有用な植物が育たないのだそうですわ。

命とは、何者かによって選ばれるものなのでしょうか。

あの雛は、親から捨てられました。

私はあの命を救うことを選びましたが、叶いませんでした。

役立たずの巫である私は、この塔で生き長らえておりました。巫の血筋のせいですわ。

それで私は、己の手で命を捨てようとしましたが、二人の夫に救われました。

彼らは、一人の人間として私を憐れみ、私の命を救うことを選んだのですわ。

そして、今の私には、巫の力があります。

でも、それだけです。何かを選ぶような知恵も、権利も、私にはありません。

ならばせめて、今できることに、限られた力を尽くそうと思うのです。

そうして、私はアイテルと並んで、ひたすらに草を抜き続けました。

このことで、他の花が、香草が、美しく健やかになるよう祈りながら。

額に汗が滲み、手は土ですっかり汚れます。

あたりは土の湿った香りが立ちこめ、土の間には小さな虫がうごめいているのが見えました。

顔を上げますと、澄み渡った空は、どこまでも青く、美しいものでした。

ああ、なんと清々しく穏やかな気持ちなのでしょう。

こんな時間がずっと続けばよいですのに。

そう思った時でした。

荒々しい足音が近づいてくるのが聞こえ、女官達が一斉に立ち上がります。

塔のほうを見ますと、護衛官たちが急ぎ足でやってくるのが見えます。

何事でしょう?

護衛官たちの表情は険しく、急ぐ様子からして、よからぬ知らせでしょう。

私とアイテルも立ち上がり、彼らを待ちます。

護衛官たちは、私たちの前で一斉に止まりますと、一礼します。

アイテルが、さっと前へ進み出ます。

「何用でしょう?」

「テフォン殿が……監獄塔に連れて行かれたとのこと」

アイテルと女官たちが、息を呑むのがわかります。

監獄塔は罪人が囚われる塔です。まっとうな者が入ることなどありません。

「軍が、動いたと?」

アイテルが険しい声で尋ねますと、護衛官が頷きます。

「軍本部から監獄塔へ、テフォン殿が連れて行かれる姿が目撃されております。それで急ぎ、使いがまいりまして」

女官達が顔を見合わせて囁きあいます。

「どういうことでしょう? 巫の夫ともあろう方か」

「どんな罪状で監獄塔へ」

アイテルが大きく息を吐いて、振り返ります。

「ミティス様、テフォン殿には罪状など断じて、ありません!」

「ええ、わかっておりましてよ」

私の返事に、アイテルの表情が、少しだけ緩みます。

テフォンは著名な将軍で、慕う兵も多いと聞いています。

人柄は誠実、立場もわきまえておりますわ。

であれば、えん罪で、ということなのでしょう。

私はアイテルを見据えます。

「なぜ、軍が、テフォンを監獄塔に? どんな罪状をねつ造されたというのでしょう?」

「わかりません。ですが……」

アイテルの手は固く握られ、震えておりました。

「テフォン殿は、著名な将軍です。あの方を、ありもしない罪状で捕らえられる者は限られます」

軍に深く介入できますのは、軍で高い地位にある者や軍の最高司令官。他は、王宮くらいでしょう。

それも大臣、宰相殿、国王陛下に準じる者。

ああ、私の二人の父は、宰相殿と国王陛下なのですわ!

「陛下や宰相殿が、動いた、ということですの?」

私の問いに、アイテルは無言でした。

それで、確信しました。

テフォンを捉えるよう命じたのは、きっと私の父たち。

陛下か、宰相殿か、あるいは二人とも、ですわ。

なぜ、私の夫を捕らえたのでしょう?

テフォンに何か咎があるとは思えません。

となりますと、私に原因がある可能性が高いですわね。

ですが私は、今はきちんと巫の務めを果たしています。ええ、誰にも恥じることはありませんわ。

となりますと、先に出した、星見の拠点の提案書でしょうか。他に、変わったことはしておりませんもの。

「ミティス様、二人で話しましょう」

アイテルがさっと顔を近づけて囁きます。

確かにこれは、私たちの問題ですわね。ならば私たちだけで話すのがよいでしょう。

「部屋に戻りますわ。誰も入らないように」

皆にそう告げますと、アイテル一人を連れて、部屋へ急ぎ戻ります。

控えていた女官に、アイテルと共に汚れた手を洗ってもらい、女官が出て行くと、ようやく二人きりになります。

アイテルはぐるりと部屋を歩き回り、何やら確かめておりましたが、やがて私の側に戻りますと、大きく息をつきました。

「あの提案書が原因かもしれません」

アイテルが声を潜めます。

確かに、何者かが盗み聞きしているやもしれませんわね。

「星見の拠点の、ですわよね? どうしてですの?」

私もアイテルに倣い、声を潜めます。

「テフォン殿がおっしゃっていたように、星見は、我が国の防衛を根底から変える可能性があるからです。星見が盛んになれば、防壁への依存は間違いなく薄れます」

「そうね。良いことではなくて? この先、私のような力のない巫が出ても安心でしてよ」

「俺たちにとって……いえ、多くの者にとってはそうでしょう。ですが」

アイテルは言葉を切りますと、少し考えて、また口を開きます。

「巫と防壁には長い歴史があります。ゆえに、巫と防壁こそが、我が国の要であり続ける方が良いと考える者も、わずかにいるかと」

青い瞳が、じっと私を見つめます。

「歴代の巫は、皆、王家の血を引いております。俺たちの子も、ミティス様の血を受け継ぎます。俺は、遠縁ですが王家に連なる身です。それもあって皆から強い反対がなかったのでしょう」

私は青い瞳を見つめながら、低い囁き声に耳を傾けます。

「俺たちの子が女子ならば、片方の夫を王家に連なる者にする。もし男子ならば、二人の王女を娶る。そうして巫と王家の繋がりは続いてきたのです」

ええ、アイテルの言うとおり、王家と巫は切っても切れない関係ですわ。

私のおじいさまであった巫は、王女二人を妻にしました。

その前の巫も、王弟と王を夫にする、王女を妻にするなど、王家と巫の血のつながりは途切れることはありませんでした。

テフォンとアイテルが夫となる許しが出ましたのも、片方が王族だと、血が濃くなりすぎるということもあったかと思いますわ。

「巫と王家の繋がりは深く、巫の力は王家が握っております。これまでも、これからも」

だんだんわかってきましたわ。

私を含め、歴代の巫は、皆、王家の血を引いております。

ゆえに、皆、この塔で暮らしてきました。塔は、王宮のすぐ近くですから。

二人の父は、力のない私を疎んじ、あまり塔を訪れることはありませんでした。

でも、その気になれば、思い立ったらいつでも塔を訪れられましたのよ。そういう距離ですもの。

そのように二人の父がしたときもございました。

もし私が生まれながらに巫の力に恵まれていたら、二人は、頻繁に塔を訪れていたかもしれません。

「陛下は、星見が盛んになることで、軍の力が増すことを警戒しているのかもしれません」

「確かに巫は王家も同じですわ。巫の権力が薄れれば、王家の権力も薄れると?」

アイテルが無言で頷きます。

巫の霊力は、王都を守る防壁となります。

防壁の噂は近隣へと知れ渡り、オケアノスへの侵攻を思い止まらせるのですわ。

その防壁を作るのは王族でもある巫。

ゆえに、王家は軍に対して優位を保ってきたことでしょう。

ああ。それを私は崩そうとしているのですわね。

いえ、もう崩しかけているのかもしれませんわ。

我が夫であるテフォンは、著名な将軍ですもの。そして、王家とはなんのゆかりもありません。

「でも、どうしてテフォンを? 悪いのは私ですわ。なぜ、私を捕らえないのです?」

アイテルは、何度か躊躇ったのち、口を開きます。

「ミティス様は王家の血を継ぐ巫であり、テフォン殿は王家にゆかりのない平民だからです」

つまり、私が彼を選んだのが、間違いなのでしょうか?

「俺も、遠縁ではありますが王家に連なりますから咎めがないのでしょう。身内よりも外の者を罪人とするほうが、体面を保ちやすいかと」

「王家の体面を、ですわね」

「ええ、巫の体面もです。それと」

アイテルは目をそらし、また言葉にしばらく迷った後、私をまっすぐに見据えます。

「それと、ミティス様への罰も、テフォン殿で事足りると判断したのでしょう」

アイテルの言葉に、私は息が止まりそうになります。

私への罰? それは、つまり。

「テフォン殿は名の知れた将軍です。怪我で前線から退いたと思ったら、すぐに巫の夫となった。これは、世間では少し不自然にも見え」

その時、女官達の叫び声が聞こえます。荒々しい足音も。

アイテルが険しい顔で腰の剣を握り、さっと前に出た時でした。

鈴の音なしに、女官長が入ってきます。

珍しく顔は険しく、後ろには武装した兵が二人いました。

赤い外套に兜をかぶっていて、顔は見えません。赤い外套は王宮付の近衛兵の証でしてよ。

「何用か? 無礼であろう」

厳しいアイテルの言葉にもかかわらず、女官長はずんずん近づいてきますと、足を止め、一礼します。

「申し訳ございません。これよりは、王宮の近衛兵も塔の内外をお守りしたいとのことで、お部屋にも入ろうとするものですから」

幽閉ですわ。

女官長の言葉の意味を理解した瞬間、すっと全身が冷え、息が苦しくなります。

二人の父は、明確に私に敵意を持っています。

それを近衛兵を通じて、わざわざ伝えに来たのですわ。

ああ、テフォンをは無事なのでしょうか。

「ご配慮、痛み入りますが、部屋の中までの護衛は行き過ぎです。礼をわきまえよ」

アイテルの朗々とした声を聞くなり、女官長が振り返ります。

「アイテル殿もこのように仰せです。皆様、ゆめゆめ、姫様に無礼のないようお気をつけを」

女官長の声は厳しく、近衛兵は顔を見合わせると、踵を返します。

女官長が振り返って一礼し、兵を追って出て行きます。

皆が出て行くなり、私は露台へ走ります。

思ったとおりですわ。

塔の下は、赤い外套を翻す近衛兵でいっぱいでした。

「完全に囲まれていますね」

アイテルが背後に立って呟きます。

「テフォン殿が危ない」

私は拳を握りしめます。

塔に来たのが王宮付の近衛兵である以上、テフォンを捕らえるよう命じたのは二人の父で間違いないでしょう。

私たちを幽閉するということは、私たちに王宮へは近づかせないつもりですわね。

きっと、私たちが最も望まないこと、テフォンを処刑するつもりなのでしょう。

ええ、それが、私への一番の罰ですもの。身内の私を罰せずとも、確かに、それで十分すぎますわね。

ですが、私が何をしたというのでしょう? 

それに、テフォンはずっと国のために尽くしてきましたわ。

「趣味の星見に没頭するよう、世間知らずの妻をそそのかした。軍の実権を握るために……など、どうにでも理由はつけられましょう」

アイテルが、私の心中を察したかのような言葉を呟きます。

ですが、道理ですわね。

私は長らく巫の力に目覚めず、防壁を張れませんでした。

我が国の防衛は、テフォンをはじめとする軍の人間に委ねられ、軍の力も増したことでしょう。

二人の父は、王家の力をそぐことになった私を、私が思っている以上に憎んでいたことでしょうね。

それで二人の父は、次の巫を産むよう、私に婚姻を迫りましたが、その時になって私は力を得、父らの望みとは違う者を夫としました。

私が二人の父の立場でしたら、娘がさぞ忌々しかったことでしょう。

さりとて、力を得た巫に反対もできません。それを見通して、私は、夫を選んだのですから。

さらに私は、父らへの反抗に満足せず、星見の予測を巫の力に代わるものにしたいと望んでいます。

そうなれば、王家の力は確実に弱まることでしょう。

ええ、二人の父の心中は、察して余りますわ。

けれど、これは私が決めたことです。

確かに、私はテフォンから大きな影響を受けています。

命を助けられ、安らぎを与えられ、星見の可能性を教えられたのですから。

それでも、星見を巫の力の代わりにしたいということは、私が決めたことですわ。

それが、外からはわからないのでしょうか。私がテフォンの言いなりになっていると思われているのでしょうか。

これまでのことを考えれば無理もないと思いますが、悔しいことですわね。

「ミティス様、このままでは、テフォン殿が処刑されてしまいます」

外を見ながら、アイテルが緊迫した声で言います。

「助けないと。早く」

でも、どうやって?

私たちは塔の外へは出られません。テフォンを助けにはゆけないのです。

「塔の外へ出るのは難しいでしょう」

「使いを出すとかはできませんの?」

「それで上手くいくかどうか。使いが王宮へたどり着けたとしても」

アイテルが、王宮の方角を見ます。

「こたびのことは、陛下の命でしょう。ならば、最終的には、陛下の御心を変えるしかないかと」

「ただの使者では難しそうな任ですわね」

「ええ。陛下はお気に入りの者としかお話にならないとのこと。せめて、父上か兄上と連絡が取れれば……いや、あの二人では、弱いか」

アイテルが軽く息を吐いて私を見ます。

「とにかく、俺たちだけでは無理です。王宮には届かない」

「どうすればよろしくて?」

「協力者がいりますね。俺たちは外に出られない。ならば別の者に陛下へ訴えてもらうしかありません」

「陛下が御心を変えざるをえないような協力者……そんな方がおりまして?」

「すぐには思いつきませんね。俺たちは、長らく塔に閉じ込められていたわけですし、知己がいません」

アイテルが、眉をひそめて、塔の下に並ぶ近衛兵たちを見つめます。

ああ、テフォンのために、私達はどうすればよいのでしょう?

何も思い浮かびませんわ。

本当に、私は、何もできないのでしょうか?

この塔からできることはないのでしょうか?

アイテルが下を眺めながら呟きます。

「ミティス様のお言葉なら、とも思いますが、塔を抜け出すのは無理であるし」

「それはどうでしょう? 私の言葉も、あの二人には届かないかも知れませんわよ? 頑固ですから」

「確かに」

陛下は頑固な性分ですのよ。一度決めたことを容易には覆しませんの。

「陛下が、テフォン殿を殺したくても殺せない状況にしないと勝ち目はなさそうですね」

「ええ。私たち以外の誰かに、そのような状況にしてもらわないとなりませんわ」

アイテルが下を見ながら目を細めます。

「しかし、テフォン殿は相当に警戒されてますね」

「そうですの?」

「この近衛兵の数。王宮詰めの全部を動員したんじゃないですか? 俺たちを塔に閉じ込めるだけなら、この数は必要ないはずです」

塔の周りは、赤い外套の近衛兵でびっしり埋め尽くされております。

「どうしてこんな数をよこしたのでしょう?」

「見せしめでしょう。こたびの事を大きくしたいのかと」

アイテルが塔の下を見たまま言葉を続けます。

「これだけの近衛兵が、塔の周りを囲むのは異常です。みな、巫に何があったのか、何か咎められるようなことがあったのか、気になるはずです」

「そうですわね」

「その上で、テフォン将軍を処刑すれば、ああ、きっと巫の夫が大変なことをやったんだろうと、皆、納得するでしょう。つまり、一種の芝居ですね」

アイテルがふっと息を吐きます。

「テフォン殿は、名も知れていて、人望も篤い。ここから出られたなら、テフォン殿を慕う者……協力者はすぐ見つかるでしょうに」

「なぜ、陛下は、テフォンを害したいのでしょう?」

と言いますのも、陛下は決して愚鈍ではありませんことよ。

テフォンは経験もあり、有能な将軍です。

腕の怪我で戦場に立つのは難しくとも、その経験は我が国にとって大いに有用でしょう。

殺すよりも生かしたほうが利になるとは、陛下もわかっていると思いますの。

星見を取り入れる利点も、ある程度はわかっているかと思いますわ。

ですから、私は、陛下に提案書を出したのです。

「きっと、王宮は、テフォン殿を恐れているのでしょう」

アイテルが、ぽつりと呟きます。

「恐れる? どうしてですの? テフォンが陛下に害なすようなことをするとでも?」

「そうではなく……テフォン殿の人望や能力を恐れているのかと」

アイテルは、ためらうようなそぶりをした後、私の目を見て、ゆっくりと言葉を紡ぎます。

「万一、テフォン殿が、反乱でもしたら。そういったことを恐れているのかと思います」

「テフォンが反乱? そんなこと、絶対にしませんわよ」

「ええ、あの人は絶対にしないでしょう。でもそれは、俺たちだからわかることです。外から見たら」

アイテルは一瞬、顔をしかめると、どこか悲しげな顔で遠くを眺めます。

「テフォン殿は、力、実績、人望を兼ね備え、さらにミティス様の夫となられたことで名誉も得た。反乱を起こしたら、誰も勝てないでしょう。陛下以外にも恐れる人は少なからずいるかと」

「つまり、私たち、嫌われておりますの?」

「おそらく、一部には、とても」

「少なくとも、二人の父上は、私達のことはお嫌いですわね」

私の言葉に、アイテルは無言でした。

「でも、二人の父上は、みなに好かれておりまして? とてもそうは思えませんけれど」

今度は、アイテルは困ったような表情で口を開きます。

「もちろん快く思わない者もいるかと。ですが、元々地位がございます。テフォン殿は著名な将軍なれど平民の出。それが今は王家に連なりました。みなからの嫉妬もございましょう」

「嫉妬……」

「はい。怪我をして王都に来たら、労せず巫の夫となって悠々自適。何不自由なく、ミティス様と穏やかに暮らしていたのは事実です」

それは思いがけない指摘でした。

力のない巫の夫となることはさぞや肩身が狭いだろうと、私はテフォンに申し訳なく思ってきました。

ですが、今の私には力があります。

塔に閉じ込められているとはいえ、私たちが穏やかに暮らしているのも事実です。

二人の夫には王家の縁もできました。

塔の外には、これらを面白く思わない者がいるのですわね。

「アイテルも何か言われまして?」

「直接にはありませんが、噂は耳にしますね。護衛からまんまと巫の夫の座を手に入れた、抜け目なく欲深い奴と」

ああ、やはり。

言いがかりですが、私の夫になったことで、そのように見る者もいるのですわね。

私は、アイテルの手を握ります。

「ごめんなさい。私の夫になれば馬鹿にされるとは思っていましたけれど……そのようになるとは思ってませんでしたわ」

「そんな、謝らないでくださいませ」

アイテルは慌てた様子でそう言うと、私の手を握り返します。

「俺は、非難を受けるのは承知で、喜んで申し出を受けました。たぶん、テフォン殿も同じです」

アイテルが陽だまりのように穏やかに微笑みます。

「ミティス様、どうか俺たちを夫にしたことを悔やまないでください。あなたの夫となって、俺たちは大きな名誉と、同じくらいの幸せを得ました。満足しています」

言葉の後、大きな手が、私の頬に触れます。

二人きりとはいえ、昼間に、面と向かってこんなことをされるのは少し恥ずかしいですわね。でも、悪い気はしませんわ。

「テフォン殿も、俺と同じようにあなたから幸せを得ているはずです。お顔立ちが穏やかになりましたから」

「そうですわね、確かに」

「俺も、笑うことが増えたようです」

アイテルがにっこりと笑います。

確かにアイテルは、笑顔が増えましたわね。

前はいつも、むすりとしていて、笑顔なんてなくて、何を考えているのか、ちっともわかりませんでしたもの。

今は、相変わらず言葉は多くはないですが、何を考えているかは少しはわかるようになりましてよ。

「私も、アイテルとテフォンを夫としてから、とても穏やかに過ごせておりますわ。きっと、笑うことも多くなっているかと思いますの」

「ええ、ミティス様は、とても朗らかになりました。それが嬉しいんです」

アイテルはそう言いますと、青い目を、露台の外へ向けます。

相変わらず塔の下は赤い外套でびっしりと埋まり、地面が見えません。

この分ですと、広間や階段にも相応の兵がいることでしょう。

私たちは塔から出られません。

であれば、塔にいながら、テフォンをなんとかするしかありません。

「テフォン殿は俺たちに必要です。なんとか助けなければ……ここから……」

アイテルが拳を握りしめます。

私達には時間がありません。

急がなければ、テフォンは処刑されてしまいます。

どうすればいいのでしょう?

塔で、何ができるのでしょう?

「私が塔でできることは、広間で、霊水晶に力を捧げることくらいですわね」

それが、真っ先に浮かんだことでした。

さらに考えを巡らせてみます。

届くかどうかはさておき、王宮宛てに手紙を出してみる。

なんとかしてアイテルと塔からの脱出を試みる。

女官を王宮へ使いに出す。

それで?

うまくいったとして?

何をするのでしょう?

何を、陛下に伝えるのでしょう? 

結果、どんな効果があるのでしょう?

「おっしゃるとおり、できそうなところは、防壁を張るか、使いを出すか」

アイテルが下を見たまま言います。

私が霊力を注いでアイテルが装置を動かせば、防壁を張れるでしょう。

けれど、防壁を張ったところで、何になりましょう?

皆、驚きはするでしょうが、それだけです。

すると、アイテルが、姿勢を正して私を見ます。

「ミティス様、防壁をいつもと変えることはできるのでしょうか? 色とか形とか」

それは、思いがけない問いでした。

昔も今も、私は何も考えずに、ただ集中して霊水晶に力を注いでいるだけです。

霊水晶に注いだ力がどうなるか、考えたことはありません。どうこうできるとも思えませんわ。

「無理、だと思いますわ。考えたこともやったこともありませんもの」

「そう、ですか。防壁の様子がいつもと違えば、塔で異変が起きていると示せるかと思ったのですが」

防壁の色は、淡い黄金色です。

それを、たとえば霊水晶と同じく青白い光にできれば。

あるいは揺らがせるなどできましたら、見た者はおかしいと思いますわね。騒ぎになるかもしれません。

防壁を見ておかしいと思った市民が塔まで来れば、塔を囲む異様な数の近衛兵にも疑問を抱くことでしょう。

「ミティス様、いかがでしょう?」

「そんなこと、言われましても」

無理ですわ、と言おうとして、言葉を飲み込みます。

ええ。無理だとは思いますわ。

ですが、まだ、試してはおりません。

無理だと決まったわけではありません。

無理を承知で、力を注げば、少なくとも防壁は出せます。

防壁を出すのは朝の務めの時です。

この時間に防壁が張られれば、不思議に思う者がいるかもしれません。

塔を訪れ、塔の異様な事態を見て、騒ぐ者が出てくるかもしれません。

「少なくとも防壁は出せますわ」

そう言いますと、アイテルは嬉しそうに笑いました。

結果がどうなろうと、何もしないよりはましですわよね。

そもそも、私がこの塔でできることは、霊力を使うこと以外ないのですから。


アイテルと部屋を出るなり、さっそく近衛兵に行く手を遮られました。

予想どおりでしてよ。やはり、塔の中にも近衛兵が大勢いるのでしょう。

女官長が近衛兵に何かを言おうとしますが、先んじて私は口を開きます。

「おどきなさい。広間へ行きますわ」

この塔の主は巫。この塔は巫の場所。

それを思い知らせてやりたかったのですわ。

もっとも、どこまで伝わるか、わかりませんけれど。

「巫の聖なるお務めにございます。ゆめゆめ妨げませんよう」

女官長が告げますと、近衛兵たちは、兜越しに顔を見合わせ、行く手を開けてくれました。

礼をわきまえている者たちで幸いでしたわね。

朝と同じように広間へ向かいますと、女官長と近衛兵もついてまいります。

広間では、霊水晶が変わらず青白い光を放っておりました。

相変わらず、清浄として美しいですわ。

ええ、腹正しいほどに振り回されてきた石ですけれど、憎らしいほどに美しいのは認めてましてよ。

霊水晶の前まで進み出ますと、私は改めて青白い透明な巨石を見上げ、深く息を吸います。

アイテルと女官長が一礼して踵を返します。

何も言わずともわかりますわ。防壁の装置がある部屋へ向かうのでしょう。

女官たちと護衛官が、朝と同じように壁際に並びます。

近衛兵はきょろきょろとあたりを見回して目障りでしたが、護衛官に促されて、同じように壁際に並びました。

これで、今朝と同じですわね。

皆の視線が注がれます。

やること自体はいつもと同じですわ。

心を鎮めて、霊水晶に力を注ぐだけ。

何をどうやってもできなかった昔と違って、今はどうすれば霊水晶に力を注げるか、身に染みついています。

ですが、こたびの祈りは、テフォンのためです。

私はテフォンを救いたい。アイテルもそう望んでいます。

もう一度、深く息を吸うと、私は霊水晶を見上げて、目を閉じます。

視界の向こうで、ぼんやりと青い光が揺れます。

意識を一点に集中し、大切な夫の名を唱えます。

テフォン。

あなたは私を救ってくれました。今度は私が、あたなを救う番でしてよ。

その時、突然、心に、言の葉が浮かんできました。

ああ、これは私の心の内そのもの。

これを皆に伝えなくては。

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