第6話
夜が明け、安息祭の朝が来ました。
昨夜、部屋に戻った後の記憶はありませんけれど、目覚めた時、私は寝台にきちんと寝ていました。
ええ、目が覚めた瞬間から、その朝は、これまでとは何かが違うと感じましたわ。
まず、眠気がありません。
眠くても眠れずに朝を迎え、悶々として寝台から身を起こしてきましたのに、今朝は、少しも眠気がなく、すっきりとしています。
ああ、体が軽いですわね。
気力が隅々まで満ちあふれていますわ。
勢いよく寝台から身を起こして、大きく伸びをしてみます。
朝の光と風が、すがすがしいですわね。
床へ足を付けますと、ひんやりとした大理石の感触が、また心地よく感じます。
安息祭ゆえ、女官はいません。それもあって、気が楽なのかもしれませんわね。
夜着を寝台の上へ放り投げたって、咎める者がいないのですから。
さあ、沐浴をしてさっぱりしましょう。
浴室に入りますと、昨日のうちにためておいてくれたのでしょう、浴槽には水がたっぷりとありました。
手桶に水を満たして全身に浴びますと、身が引き締まります。
ああ、本当に生まれ変わったようですわね。これまでは、沐浴はおっくうなばかりでしたのに。
沐浴を終えると、麻布で体を拭き、いつもの白絹の衣をまといます。
一人ですから、髪はそのまま。
卓の上に用意されていた林檎の果汁だけを飲んで朝食としますと、露台へ出てみます。
見えるのは、青空と、薄く白い細月に、王都を囲む城壁ばかり。
星見以外で露台へ出ることは、これまでは避けていましたの。塔と城壁、二重に閉じ込められている気分になりますから。
けれど今朝は、城壁が陽を受けて輝き、とても美しいですわ。
ええ、今朝は、何もかもが、これまでと違って見えます。
昨夜、一度死んだからでしょうか。
昨夜、テフォンが来なかったら、間違いなく、私は死んでいました。
声をあげて泣いたのも、ぐっすりと眠れたのも、いつ以来のことかしら。
安息祭ですから、今日は務めも休みです。
けれど、どうしても霊水晶を見たくてたまらず、私は広間へ行くことにしました。
部屋の外に出ますと、なんと、アイテルとテフォンが控えています。
「今日は安息祭ですわよ?」
私の言葉に、二人は顔を見合わせて笑います。
「姫様が、気がかりでございましたので」
「アイテルは家に帰るのが気が重いようでな。正直、俺も同じだ。どうも、都は息苦しい」
毎年、アイテルは、安息祭には必ず塔を出ていました。昨夜のことで、私を案じているのでしょう。
「もう、あんなことはしませんわ。今からでも塔を出て、安息祭を楽しみなさい」
「ならば、今年は塔で安息祭を楽しませていただきます」
アイテルの青い瞳がじっと私を見つめます。
アイテルは忠義の士ではありますが、意外と頑固だと、女官長から聞いたことがあります。
「だそうだ。俺も今更、塔を出るのは面倒でな」
二人が安息祭を塔で過ごしたいなら、私に止めることはできません。
「好きになさい」
二人にそう告げて、私は広間へ向かいます。
広間では、霊水晶の青白い光の下、女官長が一人、たたずんでいました。
私たちを見ると、女官長はさすがに驚いた表情を浮かべます。
「これは、まあ……忠義なことで」
女官長の言葉に、アイテルとテフォンがさっと一礼します。
「おや、姫様……」
女官長は目を細め、私を見つめます。
「今朝はずいぶんとお顔色がよろしゅうございますね。よくお休みになられたようで、何よりです」
「ええ、今朝はとても気分が晴れやかですのよ」
そう言って笑うと、私は霊水晶の前に立ちます。
「今日は安息祭ですが」
女官長の言葉を無視して、私は霊水晶を見上げます。
今日も霊水晶は青白く透き通り、清浄な光を放っていました。
切り立った縁が、星のようにきらきらときらめいています。
ああ、なんと美しいのでしょう。
今日も、霊水晶は何も応えてくれないしょう。
けど、よろしくてよ。
私には、二人の忠実なる護衛官がいます。
霊水晶が応えずとも、二人だけは決して私を責めません。
それで十分ですわ。
そう思いながら、私はそっと目を閉じます。
瞬間、指の先まで、気力がみなぎりました。
暗闇の向こうに、いつものように青白い光が揺らいで見えます。
けれど、いつもと違って、青白い光は明瞭で、強く輝いていました。そう、北の夜空の昴のように。
心は、鏡のように平らかでした。
全身を、光の粒が通うのが感じられます。
わかれば、とても簡単なことでした。
この力は霊水晶と同一。
あとは、身の内にあふれるこれを、霊水晶へ還せばいい。
青い光へと手を伸ばすと、温かなものに指先が触れます。
ああ、なんと私は今、安らかなのでしょう。
視界に、満月のような、黄金色の光がいっぱいに広がります。
しばらく身を包む幸福感を楽しんだあと、ゆっくり目を開けると、霊水晶は黄金色に輝いておりました。
不思議なものですわね。
あれほど望んだことですのに、いざ叶いますと、喜びもなければ、驚きもなく、心は平らかなままでした。
手を下ろすと、金色の光は弱まっていき、やがて霊水晶は元の青白さを取り戻しました。
さあ、これで今朝の務めは終わりですわ。もっとも、安息祭の日ですから、務めは不要でしたけれど。
振り返りますと、アイテルとテフォンがぽかんと霊水晶を見上げています。
二人のそんな様を見るのは初めてですから、なんだかおかしくなって、私は笑ってしまいました。
「姫様……おめでとうございます」
アイテルが、恭しく膝を折ります。
「見事だな。霊水晶があんなふうになるとは。金色の満月のようだった」
テフォンが微笑みを浮かべて私を見ます。
「姫様……!」
女官長が駆け寄ってきて、私の前で跪きます。
「本当に……なんということでしょう。ああ、もう、すぐ王宮に知らせなくては」
「今日は安息祭でしてよ?」
「そんなこと……姫様のなしえたことに比べれば、些細なことです!」
女官長は叫ぶようにそう言うと、階段へと駆けていきます。
「これから、騒がしくなるな」
女官長の後ろ姿を見送りながら、テフォンが呟きます。
「仕方ありませんわ。今までが静かすぎたのですもの」
私は踵を返します。
庭園から、花の香りを乗せた風が吹き込んできます。
「行きましょう。今日は花と小鳥と、安息祭を祝いますわ」
ああ、なんだか広間に響く足音すら、美しく感じますわね。
後に続く、二つの足音。
青白い光に照らされた、石壁。
弓形に曲がった石梁の向こうに見える、緑と花々。
目に入るすべてが、くっきりと鮮やかに、輝いて見えます。
本当に、今日はなんと安らかで、すがすがしくて、気持ちがいいのでしょう。
私は、これまで、この世の、何を見てきたのでしょう。
巫が力に目覚めたことは、すぐにオケアノス中へ伝わりました。
安息祭が終わってからの三日間、私は、持てる限りの力を霊水晶へ注ぎ続けました。
五年ぶりに、オケアノスの防壁を張るためですわ。
無事、務めを終えた今、私は部屋の露台から、城壁を見守っています。
防壁は、霊水晶に貯められた巫の力が使われますの。
今、広間の上にある部屋では、防壁を張る器具を護衛官が操作していることでしょう。
「防壁を見るのは初めてだ」
露台の柵に両肘を乗せて城壁を眺めながら、テフォンが言います。
「美しいものですよ。城壁の上が、満月の黄金色に輝くんです」
その隣で、城壁を眺めながらアイテルが答えます。
今日も王都の上には青空が広がり、城壁の上を鳥たちが飛んでいます。のどかなものですわね。
私の力で防壁が張られるのは初めてですが、お母さまの力で張られた防壁なら何度も見ています。
アイテルが言うように、防壁は満月のような淡い黄金色で、それは美しいのですわ。
黄金色の防壁は何者をも阻み、王都は不落と言われてきました。
ゆえに、どの国も、長らく我が国へは手出ししませんでした。
けれど、私には力がなく、五年、防壁は張られず、
国境を守っていたテフォンが私に厳しくあたったのも、思えば当然のことですわね。
さて、私の力を使った防壁は、果たして上手く張られますのかしら?
露台の長椅子に座ってくつろいでいますと、鳥たちが騒いで、城壁の上から一斉に飛び立ちます。
思わず立ち上がった瞬間、城壁の上に、まばゆい黄金の光が現れました。あの、満月と同じ色の光ですわ。
テフォンとアイテルが声にならない声を漏らします。
私も、身が震えました。
今、確かに、私の力で、防壁が張られたのですわ!
まばゆい光は、炎のようにゆらゆら揺らいで消え、後には淡い金色の光の帯が残りました。オケアノスの防壁ですわ。
「やったな、姫!」
テフォンが振り返り、嬉しそうに笑います。
「姫様のご貢献は、オケアノス中に伝わりましょう」
アイテルが恭しく膝を折って一礼すると、テフォンが誇らしげに言葉を続けます。
「オケアノスどころか近隣中だ。あれを見て、国に伝えない間諜はいまい」
それからは、皆の態度が一変しました。
女官長や女官達の態度からはあからさまな嘲りが消え、恭しくなりました。
二人の父からは、毎日のように贈り物が届くようになりました。
誰も訪ねることのなかった塔へ、貴族たちが押しかけるようにもなりました。
もちろん、贈り物も、謁見も、すべて断りましたわ。巫の務めの邪魔になると言えば、誰も何も申せませんもの。
そう、今の私は、力のある巫なのです。
巫の力ゆえ、皆が私の言うことを聞き、私の顔色をうかがうのです。
変わらないのは、アイテルとテフォンだけですわ。
二人は、力のない巫であった私を助けてくれました。
彼らにとって、私に力があるかどうかは、ささいなことなのでしょう。
ええ、彼らだけは、明日、私が再び力を失っても、変わらずに味方でいてくれると思いますわよ。
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