第5話
二人の父の来訪は、塔でちょっとした騒ぎになりましたが、それからも私の毎日は、相変わらずでした。
ほとんど眠れずに、陽の目覚めと共に寝台に身を起こし、オレンジの果汁と小さなパンを食べて、二人の護衛官と広間へ行って、霊水晶に祈って、打ちのめされて。
眠気を抱えながら庭園に行って風に吹かれ、あの場所に変わりがないことを遠目で確かめて、執務室へ行き、星見の記録をまとめながら、少しウトウトして。
そうして星見の記録をまとめるうちに日が暮れて。
部屋に戻って、野菜の切れ端が浮かんだ汁物をほんの少しいただいて、少しウトウトして。
夜はやっぱり眠れずに、星見をして記録につける毎日ですのよ。
アイテルとテフォンは、何も言わずにそっとしておいてくれます。ありがたいことですわ。
婚姻の話は、あれから何も知らされておりませんが、きっと、二人の父が思うように進めていることでしょう。
その夜も、結局眠れませんので、私は諦めて露台から夜空を見上げておりました。
王都は、晴れの日が多く、めったなことでは雨は降りませんの。星見にとても適した土地ですのよ。
今宵の空は雲が少なく、有明月ですから、真夜中の今は、多くの星が瞬いておりました。
天の川も、淡く輝きながら空を貫いております。
ああ、星を見ていると、少しだけ、心が落ち着きますわ。
いつの日も、星の輝きは変わりません。
私を嘲ることもなければ、嫌な言葉を投げかけることもない。
ただ、その動きで、未来を教えてくれるだけです。
清かな数多の光を見ていますと、ひとときですが、嫌なこと、悔しいこと、悲しいこと、すべてを忘れられますわ。
きっと、天上には、地上の嫌なことなど、何一つ届かないのでしょう。
もうじき安息祭が来ますわ。
あと少しだけ、私は地上で辛抱しましてよ。
それから三つの夜が過ぎ、安息祭が明日に迫りました。
安息祭は、オケアノスでは大切な祈りの日。
皆、労働はせず、家族と集まって、一日神に祈りを捧げる習わしですのよ。
塔も、安息祭の前日から人がいなくなり、とても静かになります。
アイテルとテフォンも、午後から塔を出てゆきました。
アイテルは実家へ、テフォンは軍の本部へ行くのだそうです。
他の護衛官や女官たちも、夕暮れになりますと、小鳥が巣へ帰るように、いそいそと出てゆきました。
後には女官長と、塔の外を守る、わずかな護衛官だけが残ります。
皆が帰る巣は、どんなによいものなのでしょうか。
小鳥が仲間達と囀りあうように、皆で楽しく語り合うのでしょうね。
けど、私は、部屋に一人きりですわ。
思えば、お母さまが生きてらっしゃったときから、一人きりでしたわね。お母さまは私ではなく、宰相殿を見ておりましたから。
でも、今宵で、すべて終わりですわ。
塔に閉じ込められる息苦しさも、霊水晶に祈りを捧げた後の絶望も、眠れずに一人で夜明けを待つむなしさも。
夜も更け、女官長が眠りについた頃合い、私はそっと部屋を抜け出します。
いつもと違って、扉の外に護衛官はいませんけれど、念には念を。
足音を立てないよう、忍び足で広間へと向かいます。
誰もいない広間では、朝と同じく、霊水晶が青白く輝いていました。
その姿は、夜空の星のように、清かで美しいものでした。
ああ、一人きりなら、広間も悪くないものですわね。
もし世界に私ひとりきりなら、霊水晶が応えずとも、誰にも責められず、嘲られることもありません。
塔から出られずとも、穏やかに過ごせると思いますの。
けれど、明日の夜には人が戻り、明後日からは、ここの壁にずらりと人が並び、私の務めを見張るのですわ。
内心、役立たずの巫と嘲りながら、私が祈りを捧げる様を、素知らぬふりをして見守るのですわ。
もう、うんざりですのよ。そういった毎日は。
誰もいない夜の庭園は平穏そのもので、足を踏み入れたとたん、心が落ち着きました。
風は冷たくて心地良く、見上げれば、空にはびっしりと星が瞬いています。
もうじき、私も、あの清かな世界へと行くのですわ。
そう思うと、心はいっそう晴れ晴れとして、足取りも軽くなります。
ここをぐるりと囲む石柵と柱の端に、柵が崩れて人が一人抜けられる隙間があります。
去年の夜、こうして夜の庭園を歩いて見つけた場所でしてよ。
見つからないことを祈ってきましたけど、皆、庭の手入れはしても、柵には目を向けませんでしたわ。
本当は、誰もこの庭園に興味がないのですわね。だからこそ、柵もあのようになったのでしょう。
ゆっくり、ゆっくり、草を踏みしめて歩きますと、草の先が肌にふれて、くすぐったくなります。
石柵は、去年と同じく、格子の一部が崩れたままでした。
私は身をかがめて、崩れた格子の隙間をくぐり抜けます。
その先はもう、遮るものはなく、眼下にはオケアノスの夜の大地が広がってました。
ぽつぽつと灯りは見えますが、ほとんどは暗く、聞こえるのは風の音だけ。
王都も今は眠りについていますのね。
このまま宙へ身を躍らせれば、すべてを終わらせられます。
意外なほどに、心は穏やかでした。長らく待ち望んでいた瞬間でしたから。
目をつむり、いざ、風に身を踊らせようとしたときでした。
「……よせ!」
怒声と共に足首をつかまれ、声をあげる間もなく、後ろへ引きずり倒されます。
そのまま乱暴に引きずられ、土の上に手をついた瞬間、褐色の足が目に入りました。
狼藉の主はテフォンでした。
険しい顔で、息は絶え絶え、額には汗が浮かび、荒い呼吸を繰り返しています。
「落ち……つけ」
テフォンは、肩で息をしながら、かすれた声で、そう言いました。
様子から、急いで走ってきたことが見て取れます。
でも、なぜ、テフォンがここにいるのでしょう? 安息祭は軍で過ごすと、塔をとうに出たはずですのに。
すると、テフォンの腕が、すっと伸びてきます。
身を動かす間もありませんでした。
私は、テフォンの腕に抱き寄せられます。
大きな体は温かく、触れた瞬間、ほっと力が抜けるのを感じました。
ああ、お母さまが、たまにこうして抱き締めてくれましたわね。私は、それが大好きでした。
「姫は……よく、やっている」
掠れた声がそう告げ、私を抱き締める腕に力が入ります。
テフォンの香りと温もりがあまりに心地良くて、私は思わず目を閉じます。
「もう、無理をしなくていい」
大きな手が、私の髪を撫でます。ゆっくり、優しく。
そういえば、宰相殿も、昔はよく、私の頭を撫でてくれましたわね。大きな手で、優しく、少し笑って。
今となっては、なんだか夢のように思えますけれど。
しばらくそうしてテフォンに体を預けていますと、テフォンが腕を緩めます。
テフォンから身を離して顔を上げると、テフォンは苦しげな表情を浮かべておりました。
「すまない、姫」
テフォンがため息をついて、そう言います。
「俺は以前、姫にひどい言葉をぶつけた。己を恥じている」
黒い瞳が、じっと私を見つめます。
そこには嘲りも狡さもなく、言葉は心の内から出たものだと感じられました。
「そもそも一国の防衛を巫一人に頼るのがおかしい。俺たちは間違っている」
ええ、本当に、なぜ巫一人が、国の護りを背負うのでしょう?
他の者は何をしているのでしょう?
そんなこと、誰にも言えるわけがありませんから、ずっと、ひとり悶々と、霊水晶に祈りを捧げておりました。
けれど今、軍の将軍が、それは間違いだと断言しました。
「姫は十分、責務を果たした。一人の軍人として、姫のこれまでの奮闘に、心から敬意を表する」
テフォンが胸に手を当て、恭しく頭を下げます。
……なぜでしょう。
急に、涙がにじんできました。別に悲しくなどありませんのに。
「泣け。存分にな」
テフォンが笑顔になります。
初めて見るテフォンの笑顔は、柔らかく、温かく、少し幼いものでした。
「どうせ俺しかいないんだ。気にするな」
テフォンは優しい声でそう言うと、再び、私を抱き寄せます。
あたたかい体に再び包まれた瞬間、私は、急に涙が止まらなくなりました。
声も出ます。止まりません。
大きな手が、背をとんとんと叩きます。
ついに堪え切れなくなり、私はテフォンにすがって、声をあげて泣きじゃくります。
護衛相手にこんなことをするなんて、自分でも信じられませんわ。
ですが、どうすることもできませんの。
声も涙も止まりませんの。
まるで私が壊れてしまったよう。
ああ、昔、ちっとも力が発揮できなくて、悔しくて惨めで悲しくて。
お母さまに向かって、泣きじゃくったことがありましたわね。
その時のお母さまも、こうして私を黙って抱き締めて、背をとんとんと優しく叩いてくれたのですわ。
どれくらい、そうしていたことでしょう。
存分に泣き叫んだからか、さすがに心も落ち着きました。
いうよりも、疲れましたわね。
私が身を離しますと、テフォンは黙って笑い、横を見上げます。
いつの間にか、アイテルがそばに立っておりました。
珍しく、困ったような表情を浮かべております。
「アイテルはずっと、姫を案じていた」
アイテルを見上げながら、テフォンが言います。
「塔を去るとき、アイテルがあまりに姫が心配だというものでな。気になって、今夜は塔に留まり、様子を見ることにしたんだ」
アイテルは、相変わらず黙ったままです。何を考えているのか、ちっともわかりません。
「姫が助けようとしたは雛鳥は死んだ。だが、姫は、生きている」
ええ、私はあの場所から飛び降りて、命を終わらせようとしたのですわ。
けれど、それは叶わず、テフォンに助けられたのですわね。
「軍でも、兵が同じようなことをする。何度か経験がある。それもあって、留まることにしたんだが……」
アイテルは、やっぱり、いつもの無表情で私を見下ろしています。
「アイテルが姫のことを何度も言わなければ、俺はそのまま塔を出ていただろう」
テフォンがアイテルから私に視線を移します。その表情は真剣そのものでした。
「アイテルは、姫が思っているよりも、はるかに、常に、姫を案じている。こんな忠臣はそういないぞ」
当のアイテルの表情には、何の変化もありません。
確かに、アイテルは、いつも、さりげなく私を気にかけてくれます。
古くからの護衛官の務めだとしても、アイテルが誠実であり、たいへんな忠義の士だとは、よく存じておりましてよ。
「姫、もう少しだけ生きてみろ。今の姫には、少なくとも二人、信の置ける味方がいる」
「姫様、テフォン殿の申し上げるとおりです。どうか」
アイテルがようやく口を開きます。
表情こそ、変化はありませんが、声は悲しげで、少し震えていました。
「生きていてこそ、苦しみが癒える機会もある。アイテルを悲しませるな」
私は二人の護衛官を見やります。
二人の護衛官からは、確かに、嘲りも憎しみも感じません。
特にアイテルは、出来損ないの巫の護衛官を長らく務め、不満もあったことでしょう。
それでも、女官達と違って、心の内を外に出さずにいてくれました。
これほど忠義を尽くしてくれる護衛官を悲しませるのは、あまりに不義理ですわね。
けれど、やっぱり私は、生きることに疲れたのですわ。
この先、また、あの毎日を繰り返すことに、なんの意味がありまして?
今までも息をするだけで精一杯でしたのに、この先、私は子を成す道具として、知らない男二人と暮らします。
もし、その子が巫の力がなかったら? 今以上の重荷を背負える自信はありませんわ。
すると、アイテルが、私をじっと見つめながら口を開きます。
「ご婚姻の話が、お気に召しませんか?」
……ああ、本当に、アイテルは時々、私の心を映すような言葉を口にしますのよ。
「そうですわね」
私は正直に答えます。
「恐れながら、陛下と宰相殿のなさいようは、あまりに姫様のお心内にそぐわないものだと憤慨しておりました」
「ええ、でも今に始まったことではございませんでしょう?」
二人の父は、私が婚姻の話をどう思うかなど、気にもかけませんでした。
その事実に、たぶん私は、深く深く、失望したのですわね。
けれど、お母さまも、二人の父も、女官長も女官も、そもそも皆、私の心になど、ちっとも興味はございませんでした。
つまり、私は、この世界に不要な存在なのですわ。
ならば、いっそ。
「ならばいっそ、姫は、アイテルと俺を夫にすればいい」
一瞬、聞き間違いかと思いました。
「テフォン殿、なんという、ことを」
アイテルが大きく目を見開いてテフォンを見ますが、テフォンは平然と笑っています。
「おかしいことではないだろう? 過去の事例や風習を調べてみたが、巫の夫の身分は問われない」
「それは」
「貴殿が言うとおり、陛下と宰相閣下のなさりようは、あまりに勝手が過ぎる。ならばと、考えてみたのだ。俺たちなら、姫を守れる。確実にな」
アイテルが黙りこみますと、テフォンは私とアイテルを交互に見て、からりと笑います。
「ま、あくまで一案だ。世の中には、いくらでも抜け道がある。俺も、前線には戻れなくなったが、姫の護衛という抜け道があった。生きていれば、なんとでもなるさ」
テフォンはそう言うと、私の手を取ります。
「今宵は部屋へ戻ってゆっくり休め」
テフォンがゆっくりと立ち上がり、私も、大きな手につかまって立ち上がります。
「ああ、見ろ。今宵の星は素晴らしいな」
確かに、今宵の空は、空気が澄み、星がとてもたくさん瞬いています。
天上の星々にとっては、地上の騒動など、どうでもいいことなのでしょうね。
今宵の私の涙も、天上の星からは、まさにあの星のような、小さなきらめきの一つに見えるのかもしれません。
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