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5-1 別れの音叉に導かれ

 木漏れ日差すマゾフシェの森。

 その中央にある大きな池のほとりで、幼女はキャンピングシートに座って釣り糸を垂らしていた。

 小鳥のさえずりが耳に心地良く、小さなあくびを嚙み殺していると、池に浮かんだウキが微かに揺れた。


「大当たり、ですね」


 幼女は釣り竿を足元に置くと、代わりに長尺音叉を取って立ち上がった。

 その眼前で、池の水を豪快に巻き上げながら巨竜が飛び出してくる。

 一緒に池から這い出たヴァンダを――正確には、彼女が持つブリヴェットを追って、池のヌシがようやくその姿を現したのだ。


「いい加減、正気に戻りなさーい!」


 ティアはジャンプ一番、竜の後頭部に重い音叉の一撃をお見舞いした。返す刀で、ヴァンダが放り投げたブリヴェットを地面に叩き付ける。

 三又音叉は見事にひしゃげ、その途端、竜は我に返って大人しくなった。

 四つん這いになって息を整えていたヴァンダが一睨みすると、竜はしゅんと肩を落とし、どこかへ飛び去っていった。


「まさか本当に池のヌシが、ブリヴェットに引き寄せられた竜だったなんて。でも、無事追い払えて良かったですね」

「よくない! 私、ホントに食べられそうになったんだから!」


 ヴァンダは犬のようにぶるぶると身体を振り、水飛沫を飛ばす。更に鱗に残った水滴を、タオルで丁寧に擦り取っている。

 普段からビキニ姿のくせに、水が苦手とはこれいかに。


「でもそのおかげで、池のヌシ討伐作戦は大成功です。さすがヴァンダ。竜姫の一睨みだけで、どこかへ逃げていっちゃいましたね」

「本当は、一睨みで正気に戻ってほしいところだけどね……。今となってはティアの馬鹿力でブリヴェット壊して、正気に戻すしかないんだから」

「か弱い美少女に向かって、馬鹿力は心外です。せめてマジカルガールと」

「マジカル要素ないでしょ。魔耗しきったバカデカ音叉を、力だけで振り回してる時点で、ティアもマッスルボンバーズの仲間入りよ」

「むぅ。ヴァンダこそ、竜の姫を名乗る割に竜に襲われ過ぎ、姫の威厳なさすぎです」

「しょうがないじゃない。ダボーグいるから姫やる事ないし。森にも全然帰ってないし」

「はいはい。そんな竜の間でちょっと存在感薄まってきた竜姫と、ちょっと力があり余ってる美少女のコンビで、初仕事は無事達成しました。それでいいじゃないですか」

「うーん。私の竜姫としてのアイデンティティが……」


 後片づけしながら、軽口を叩き合う二人。

 ティアが釣り糸を回収しようと池を見ると、浮かべてたウキが見当たらない。

 どうやら何かに引っ張られ、池の中に沈んでいるようだ。


「任務達成ついでに、今晩のおかずがゲットできたかもしれません……よっと!」


 力任せに釣り竿を引っ張り上げると、獲物が池から飛び出て地面に放り出された。

 釣り上がったのは……手で持ち運べる大きさの、厳つい木箱。

 よく見ると、布や蝋を使って隙間が埋めてあり、しっかりした防水処理が施されている。どうやら竜が出ていった拍子に池底の木箱が浮き上がり、釣り針に引っかかったのだろう。


「何が入ってるのかしら、これ……」

「ちょっと待って!」


 ヴァンダはティアを押し退けて、箱に顔を近づける。

 入念に木箱の外観と匂いを確かめた竜姫は、今にも泣きだしそうな顔で振り向いた。


「これ、お婆の家に置いてあった木箱と同じものだ……」



 ヴァルソヴィア市街地の外れに位置する、レンガ造りの事務所兼自宅。その入口には『レッヒ音叉魔導事務所』の看板が掲げられている。

 応接室のテーブルには、蓋を開けた木箱をテーブル脇に置いて、ティア、ヴァンダ、千里の三人が、古い音叉を取り囲んでいた。

 ティアが叩き棒を使って音叉を鳴らすと、可愛らしいワルツが流れる。


「これはショパンの、ワルツ第九番変イ長調『別れのワルツ』よ」


 千里はすぐ、その曲名を言い当てた。


「ショパンの……新たな魔音叉って事!?」

「千里の世界の魔音叉は、一斉魔耗でただの音叉に戻ったはずなのに……なぜ、これだけ?」


 驚くヴァンダとティア。

 千里は額に爪の先を添え、古い記憶を引っ張り出す。


「『別れのワルツ』は、ショパンが別れた恋人に贈った、言わば音楽のラブレターよ。ショパン存命中は出版されなかったけど、彼の死後楽譜が発見され、広く世に知れ渡った」

「ショパンにとって真っ先に魔耗したくなるような黒歴史なのに、一斉魔耗を逃れるなんて……皮肉なものね」

「でもこれ、本当にショパンの曲ですか? それにしてはシンプルというか……」

「恋人に弾いてもらうため、彼女の実力に合わせて作曲したからじゃないかな。それにしても……リストの魔導士だったヴァンダのお婆さんが、なぜショパンの音叉を……」

「お婆は『愛の夢』の音叉以外、全部手放したって言ってた」


 潤んだ瞳で音叉の音楽を聴くヴァンダは、呟くように言った。


「密閉した箱に入れて池の底に沈めてたから、一斉魔耗を耐えきれたのかもしれないわね」

「もしかして、『別れのワルツ』には『別れの曲』と同じ楽曲の加護ムジカブレスがあるのでしょうか? 千里の世界にも、これがあれば行けるのでは?」

「うーん。どのみちショパンの魔導士はいないから、確かめようがないけど……」


 千里はしばし考え込んだ。そして何かを思い出したようにティアに振り返る。


「そういえばウェインスルトとバーストって、行方不明のままなんだよね?」

「え? あ、はい。そうです。大竜害のあの日以来」

「彼女が持ってたサン=サーンスの魔音叉も、見つかってないんだよね?」

「ええ。ウェインスルトは普段から、防音製の巾着袋に入れて持ち運んでいましたから……って、まさか!?」

「音を完全遮断した環境下なら、一斉魔耗を逃れられた……それならウェインスルト達が失踪した理由も、池底に隠してた『別れのワルツ』が魔耗してないのも、説明が付くわ」

「ウェインスルトとバーストが、魔音叉を使って何か企んでるかもしれないって事ですか!?」

「それはまだ分からないけど……急ぎましょう」


 千里は立ち上がると、コートを羽織った。


「急ぐって、どこへ?」

「牢獄のヒップ教授に会いに行くわ。彼はヴァンダのお婆さんの知り合いで、いつかの未来で私達の世界に竜を送り込んだ張本人よ!」


* * *


 早朝の音楽室。伊織は一人、ショパン『別れの曲』を弾いていた。

 久しぶりの学校、久しぶりの音楽室、久しぶりのピアノ。

 冷えきった鍵盤も、軋むペダルも、今はなぜか心地良い。

 こうしてピアノを弾いてるだけで、心の冬景色に火が灯り、感覚のない左手にすら血液が巡ってきてるように感じる。


 『別れの曲』は、ショパン練習曲エチュードの中では比較的簡単な部類だ。技術的に難しいのは中間部くらいで、プロアマ問わず好んで弾かれている。

 それでもショパンは「これほど美しい旋律を見つける事は、もうできないだろう」とリストに語ったという。

 音楽は、速弾きや超絶技巧だけじゃない。

 人の心動かす旋律は、音の速さより音色の強弱。

 エモーショナルな旋律とそれを盛り立てる伴奏を、意識して弾き分けてやればいい。


 昔取った杵柄で、伊織は思いのまま調べを紡いでいく。

 やがて最大の難所、激しい運指うんしが求められる中間部――和音連打とアルペジオに入る。


「あいた」


 演奏が止まってしまった。

 やっぱり指を早く動かそうとすると、どうしても痛みが走る。


「それでも……思ったよりは弾けたかな」


 左手を撫でながら、伊織は少し微笑んだ。曲さえ選べば、弾けない事もないじゃないか。

 予鈴のベルが鳴ると、伊織は鞄を持って音楽室を後にした。



 教室に入ると、クラスメイトは皆一様に、ぎょっとした顔を向けてくる。


「おは……よう」


 ぎこちない挨拶は誰に言ったわけでもないが、誰一人として返してくれない。

 一瞬の沈黙が通り過ぎると、皆はそれぞれの会話に戻っていく。

 がやつく教室を突っ切って、伊織は最後尾窓際の席に座った。窓越しの校庭に目を向けると、複数の視線が後頭部に突き刺さる。


 まぁ……こうなっちゃうよね。なんてったって僕は――。


 ピアニストの夢破れたショックで家出し、衝動的にポーランドに飛んで一か月以上音信不通! 突然ふらり戻ってきたかと思えば、弾けないはずのピアノを早朝の音楽室で弾いている、痛々しい思春期ナイーブ男子高校生なのだから!


 異世界ポーラを、大人が信じてくれるはずもなく。

 母や先生、クラスメイトの想像を裏切らないよう、僕は痛くて思春期でナイーブな高校生を演じなければならなかった。


 ちなみに千里は、僕と一緒にポーランドに趣き、現地のホストファミリーの下で引き続き留学生活を送る事になっている。

 中学生だった千里が数か月で二十五歳になって帰ってくるわけにもいかず……そんな言い訳で母が納得したのも、父が海外に出ずっぱりで、自分はピアノ教室しか知らない世間知らずだからかもしれない。


 そんな事を考えていると、担任が教室に入ってきた。

 皆は雑談を切り上げ席に着く。


「今日はまず、新しい友達を紹介しよう」


 ガラッと引き戸が開き、転校生が入ってくる。それだけで、男女問わず感嘆の声が漏れる。

 そりゃそうだ。ナイーブな男子休学生より可愛い女子転校生の方が、興味を引くに決まってる。

 ましてやそれが――、


「初めましてーっ! あたし、シャーロット・クラクス。よろしくデース! 気軽にロッティって、呼んでドーゾデース!」


 金髪と淡褐色ヘーゼルの瞳を輝かせる、ハイテンション美少女なら。


「おーい、伊織もーっ! 学校でもよろしくねー!」


 伊織を見つけると、皆の前でぶんぶん手を振ってアピールしてくるロッティ。仕方なく手を振り返すと、それまで腫れ物扱いしてたクラスメイトがこぞって理由わけを訊いてくる。


「おい、ちょっと待て垂石。どういう関係だ!?」

「お前学校サボって、ポーランドでナンパしてたのかよ!」

「そ、そんなんじゃないって!」


 色めき立つクラスメイトを諫めていると、先生が助け舟を出してくれる。


「はーい、静かに。ロッティさんは垂石君の妹さんの代わりに日本にやって来た、ポーランド出身の交換留学生です。皆色々教えてあげて、仲良くするんだぞ~」

「よろしくデース! ちなみに伊織との関係は~、友達以上恋人未満! ヤキモキデース!」


 またしてもクラスをざわつかせるロッティ。

 さっきまでの疎外感はどこへやら。伊織はクラスメイトから、再び事情聴取を受ける羽目になった。



 激動の復学アンド転校初日を終えると、伊織とロッティは連れ立って帰路に着く。


「ニッポンジンってみーんな優しいね! 今日一日でこの世界の事、だいぶ詳しくなれたし!」


 ただでさえパッチリお目目のロッティなのに、今は付け睫毛にアイメイクして、制服のスカートも登校時より膝上十センチくらい上がってる。

 たった一日で違和感なく女子高生ジェイケーに変身できるの……順応力バグってない?


「それにしても……なんで普通に日本語喋れるのに、あんな片言で喋るんだよ?」

「色々便利かなーって。都合悪い事訊かれたら必殺、『日本語ムズカシイ』でごまかせるし」

「友達以上恋人未満とか言ってる時点で、ペラペラだって分かるだろ」

「んー、日本語ムズカシイネ」

「わ、なんか許せる。悔しい」


 結局、ショパン『別れの曲』の魔音叉で戻ってきたのは、伊織とロッティだった。


 二十五歳の千里は、元の世界に戻るのを拒否。ポーラに残ってティア、ヴァンダと一緒に音叉魔導事務所を開く事になった。

 ティアは、自身にとって束縛の象徴である魔導学院には戻らず。

 ヴァンダも、ヒト側から人竜の行く末を見守っていきたいと、町で暮らす事に。

 三人とも、ポーラの音楽家の魔音叉を使い、今度こそ魔導士になろうと頑張っている。


「今更だけど、ホントにこっちの世界に来ちゃって良かったの?」

「もちろんだよー! なんてったってあたしと伊織は、フィフティ・フィフティ――友達以上恋人未満の関係なんだから!」

「それ絶対使い方間違ってるって……でも、そうだな。ショパンの魔音叉が使えなくなって、お互い魔導士じゃなくなっちゃたしな」

「それでも、伊織があたしの夢を叶えてくれた事には感謝してるよ。だから今度は、あたしが伊織の夢を叶える番」

「ロッティも叶えてくれたよ。千里も見つかったし、こっちの世界に戻ってこれたし」

「それは約束の話でしょ! あたしが言ってるのは、夢の話!」


 ロッティはスタタッと前を走ると、くるっと回って振り返る。

 短いスカートが翻り、夕日に煌めくハイトーンブロンドがふわりと舞う。


「『復活』の音叉はもうないけど、代わりにあたしが、伊織を癒す音叉になってあげよう!」

「どうやって?」

「そんなの決まってるじゃない。いつも隣にいるパートナーとして、だよ!」


 ロッティは笑顔で右手を伸ばした。伊織も自然とその手を取る。

 それだけで心の音叉は癒されて――いや、うるさいくらい高鳴っていく。


「だから伊織。今度はショパンの事じゃなく、ショパンを教えて。伊織の左手の代わりに、あたしがピアノで連弾してあげる!」

「なるほど……その手があったか。よし、帰ったら早速試してみよう!」

「うん!」


 二人は手を繋いだまま、夕焼けに染まる坂道を下って帰路に着く。


 怪我を治す音叉は手に入らなかったけど、僕はかけがえのない音叉を見つけていたのかもしれない。

 その音叉はうるさいくらい、僕の心と共鳴する。

 早鐘を打つ心臓が大量の血液を押し出してくれるなら、いつか僕の左手にも血が巡り、またピアノが弾けるようになるんじゃないかって思えてしまう。


 家に帰ってくると、入れ違いで買い物に出掛ける母と、ばったり出くわす。


「あら、お帰りなさい伊織、ロッティちゃん。お父さんから国際郵便届いてたわよ」

「ただいま……って、こんな時間から買い物行くの?」

「なんかねぇ、今臨時ニュースやってて。よく分からないけど、ヨーロッパの方で怪獣が暴れてるらしいの。トイレットペーパーとか品薄になるっていうし、一応買い溜めしておこうかなって」


 そう言い残して、母はさっさと出掛けてしまった。

 伊織とロッティは顔を見合わせると、急いで玄関先に置いてあった小包を持ってリビングに入る。

 中に入っていたのは……銀色に光る二又の音叉。


 意を決して鳴らしてみると、標準音Aの後に、ショパンのワルツ第九番変イ長調『別れのワルツ』が流れる。


「行こう伊織。ティアちゃんたちが危ない!」


 中に入っていた手紙を読んだロッティは、伊織の手を取った。

 激しく明滅を繰り返す音叉を見て、今度こそ放すまいと、繋いだ手をしっかりと握り返す。


「音を導き閉じこめられし魔導の音叉よ、御身が主の調べをしばし解き放て」


 モーツァルトは言った。旅に出ない音楽家は不幸だと。

 だから僕は旅に出る。

 それは不幸な現実から逃げだすためじゃない。

 旅を通して仲間と出会い、成長し、夢を叶えるため。


「来たれ魔導士イオリ・タレイシの名と身において」


 隣でやいのやいのとやかましく、手紙の内容をまくし立ててくる相棒と共に。


 だからショパン、僕らと一緒にもう一度。

 君の音叉で、竜のハートを撃ち抜きにいこう。


「演じよショパン! ワルツ第九番変イ長調Op.69-1――マリア・ヴォジンスカへの抒情詩。悲恋となった『別れのワルツ』に、再会を果たすと誓ったあの日の思い出と共に――!」



〈了〉

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ショパンと音叉とドラゴンハート トモユキ @tomoyuki2019

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