ヴァイヴ
田辺すみ
ヴァイヴ
叩け、叩け、叩けと脳髄が叫ぶ。
ひなのと知り合ったのは高校二年生から三年生になる春休みだった。
部活はとっくに引退していたのだけれど、私は勉強の合間に“叩き”に来ていた。当人よりも受験に神経を尖らせている母親と、反抗期真っ只中の弟と、無関心な父と、一緒に家にいるのが鬱陶しかったせいもある。
「木下さん、」
後輩たちの練習時間を避けてきているので、校舎に人影は少ない。ヘッドホンをつけて無心で叩いていたので、防音スタジオの窓をノックしている人影に気付くのが遅れてしまった。「ごめん、うるさかった?」
慌てて出ていくと、そこに立っていたのが高橋ひなのだった。防音スタジオと言っても校舎自体が古いので、音は漏れ出し放題なのだろうが。
「こちらこそ邪魔してごめんね。うるさいんじゃないの、何て曲?」
ひなのは美術部に所属していて、休みでもやはり学校へ出てきて描いているのらしい。一年生の時の文化祭で木下さんの叩くドラム聞いて、うわーいいなあ、って思ったんだ、と眼鏡の下の目が細まる。でももう
「さっきの曲はアデールの『サムワン・ライク・ユー』っていうやつ。学校以外で演奏なんてしないよ、下手の横好きだってさ……」
弟からも
「まあでも、叩くの気持ちいいよ。別に誰に聞いてほしいとかではなくて」
ひなのは揃っていない前髪を揺らし、に、と微笑んだ。そうじゃないかと思った。
私のもんどり打っているようなパーカッションどころではない、ひなのの描く絵は凄かった。どうやっても感想が言葉にならない類いの凄まじさだ。鮮やかな色が飛び散っている、激しく渦を巻いている、線が疾走し突き刺さる。面の上で風が吹く、雲がうなる、木々がしなる、大地は駆ける、波がとどろく、太陽が焼き尽くす、人は吠える。もの静かな彼女の手から生み出されたものとは、到底想像できない。本当に絵を見て殴られたように感じることがあるものなんだな、と初めて目にした時、私は呆けた頭で辛うじて考えた。正直にそう伝えたら、だって的を得た感想とか言えそうになかったし、ひなのは照れ隠しか絵の具とオイルで汚れたエプロンで顔を拭って笑った。描くのって気持ちいいの、“人を殴っておいて“不謹慎だけど。
いつも鉛筆や絵の具で薄汚れた制服にオイルの臭いだけでなく、ひなのの母親はどうやら家事育児をほとんどせず、家にも寄り付かないらしかった。世間知らずのお嬢さまみたいなところがあるんだよね、あの人。と、ひなのはどちらが親なのか子なのか分からないような口調で言う。今だにおじいちゃんとおばあちゃんからお小遣いもらってるんだよ。私の画材費用もそうだけど。同い年で料理も掃除も洗濯も自分でしているなんて驚きだが、そのせいでよく忘れ物をしたり、カビ臭い衣類を身につけていることで、他のクラスメイトから揶揄いの対象にされているみたいだった。みんな受験勉強でイライラしていて、ビデオゲームみたいに転落だか没落だかさせる登場人物が欲しいのだろう。私がひなのと一緒にいると、うすら笑いと陰口が四方の影から染み出してくるようで、息が詰まる。
「私はラッキーなんだよ、絵を描くってガス抜きしてるから。絵を描いてなければ、十中八九あっち側で、それどころか多分体育館裏でクラスメイト刺して逮捕されて明日の朝刊に載っちゃうよ」
夏休みに冷房の効かない美術室で二人、アイスを食べながらそんな話になる。ひなのはやたらゆっくり食べるので、スティックを伝って溶けたアイスが溢れ落ちてきている。
「おっかないね、ひなのは。だからああいう絵が描けるんだろうけどさ」
「力だよ、ニナちゃん。
勢いで突き出した手元から溶けたアイスが床に落ちた。ああ〜〜私のアイス! ひなのは半分笑った哀れっぽい声で叫んで、アイス塗れの指先を舐める。残暑の太陽が窓から差し込むのに燻られて、てらてらと輝くその指に、うごめく伸筋、転筋、虫様筋、長掌筋に私の目は釘付けになり喉が鳴った。あの手があの絵を描くのだ、あの精神があの絵を描くのだ。絡み取られてみたい、握りつぶされて、キャンバスに押し付けられて、あの絵の中へ捉えられてみたい。圧倒的な力に、翻弄されてみたい。
なんとか第二志望の大学へ滑り込んだ通知が届いた頃、ひなのは学校に来なくなってしまった。嗅ぎ回ることの上手いクラスメイトによると、母親が付き合っていた男の浮気現場に遭遇し、逆上して相手の女の頭を灰皿でかち割ったらしい。なんでそんな母親のために、ひなのまで罪を負ったように身を隠さなければならないのか、私は憤り、ドラムを叩いた。長年使ってきたスティックが割れて床に転がる。頭にひなのの声が響く、私たちはラッキーなんだよ、絵が描けるしドラムが叩けるし、友達がいるしさ。初めてニナちゃんがドラムを演奏するところを見た時、あの子なら私を、私の絵を分かってくれると思ったんだ。だから私から声かけたのも、ズルいっていうか結局自分のことしか考えてないじゃん、ってことなのかもしれないけれど、私だってニナちゃんのドラムを少しは分かるつもりだから。ゲージュツってのは選り好みで殴り合いなんだよ、『爆発』なんだって岡本太郎も言っている。
次にひなのを見たのは、卒業式の夕方だった。みんながクラス会や謝恩会なんかで三々五々散っていった後、私は防音スタジオのドラムセットのところへ戻ってきた。3年間、雑に使ってすんませんでした、有り難うございます。と申し訳程度に布で擦る。明日からどうしよう。ドラマーになりたいなんて、なれるなんて思ってはいないけれど、叩いていないと私は駄目になる。とにかくお金を貯めて自分のドラムセットを買って、スタジオを借りられるようにならなければ。親の干渉を受けなくて済むようになるのは良いけれど、ドラム以外自分一人で何ができるのかとも項垂れる。すると、誰かが防音スタジオの窓をノックする気配がした。
「ニナちゃん、手伝って欲しいんだけど」
廊下へ跳び出ると、ひなのが大きなバックパックを背負って立っていた。相変わらず揃ってない前髪と、眼鏡に映る大きな目が揺れて笑う。私は声が出せなかった。久しぶりで、言いたいことも沢山あったのに、もともとの内向的な自分に戻ってしまったようで焦った。そんな私の手を取って、ひなのは引っ張っていく。そういえば、ひなのの手に直に触れたのは初めてかもしれない。マメができて硬くなってしまった自分の手を見られるのが嫌だったせいもある。連れて行かれたのは、体育館裏だった。私を刺すの? と茶化して言ったつもりが泣きそうになる。ひなのにならそれもいい。違うよ、とひなのは暗くなった地面にバックパック下ろして言う。
「ニナちゃん、バンクシーって知ってる?」
バックパックから取り出したのは、色とりどりのスプレー缶だ。一つを手渡される。今日はこの学校からの卒業だけれど、とひなのは体育館の壁を不遜げに見上げた。また新しいものが描けると思うと、わくわくするよね。
ヴァイヴ 田辺すみ @stanabe
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