【KAC20247】無聊のレゴリス

有明 榮

城春にして赤錆深し

 一陣の風が吹いて、大地を削るように、かつてその町の大通りだった道路に、真っ赤な砂ぼこりが巻きあがった。


 否、砂ぼこりではない。モル質量159.69g/mol、密度5.24g/cm^3、融点1838K。組成式Fe2O3、あちこちで吹き荒れるこの粒子の正体は、俗に「赤錆」と呼ばれる酸化鉄である。


 その赤黒い砂嵐の中、騎乗する馬とともにガスマスクをつけた一人の男が、錆によって荒れ果てた街を訪れていた。彼は後に「偉大なる探検者」と呼ばれたのだが、この時は世界各地を放浪してきたその彼ですら、この赤錆が世界を覆った起源を知り得てはいなかった。


 城門を潜った男が街を見渡すべくゴーグルを外した時、目元に刻まれた皺はより一層深くなった。道端に打ち捨てられた自動車は窓ガラスまでもが赤褐色に染まっている。コンクリート造りの建物は最上階こそまだ元の色を保っているが、それもやがて足を延ばした赤錆に覆われるであろう。大通りを進んだ先にある、かつて社交の広場として用いられたと思しき公園跡地では、調査の為にかつてこの空域を飛んでいたと思われるジェット戦闘機が、ゴム製のタイヤを残して赤褐色に染まっていた。


 この町も、時期に赤錆に沈む。


 男は白髪交じりの眉の根を寄せた。


 彼は生まれてこの方六十年近く、赤錆とともに暮らしてきた。数少ない清浄の地とされてきたその土地は辛うじて赤錆による浸食を免れてはきたものの、それもひとえに徹底的な検問と、アルミニウムを用いたテルミット除染のおかげであった。


 彼が生まれるはるか昔、突如として飛来した金属生命体は、海、川、湖と言ったありとあらゆる水系を利用して赤錆を菌糸のように世界中に張り巡らせ、瞬く間に世界を覆ってしまった。しかし、長らくこの星の主人として振舞ってきた人間たちが、新参者にそうやすやすと玉座を明け渡すことはなかった。来訪者の主成分が鉄とわかるやいなや、テルミット法によって赤錆を鉄に還元させ、水際でその浸食を止めにかかった。それは人間の知恵というよりもはや、星の主人としての意地によるものであった。


 とはいえ、昼夜で活動の制限される人間には、いくら知恵が備わっていたとしても限界があった。彼の村もまた、迫りくる赤錆の波を捌ききれず、ついには一昼夜にして赤錆に飲み込まれてしまった。十四の時である。それ以来、彼は馬を乗り継ぎつつ、世界を覆った赤錆の正体を突き止めるために、世界中を旅して回っていた。


 しかし、どこへ行っても、赤錆の元凶は見つからない。人は言う。それは地中深くに埋まっていると。また人は言う。それは海底に眠っていると。ある人は言う。それは天高く浮かんでいるのだと。またある人は言う。それは人の心に潜んでいると。全て探り、全て調べつくして尚、彼は未だその正体をつかめずにいた。ただ一つ確かなのは、人の生活に希望がほとんど残されていないことである。人類は無機質な赤錆によって取って代わられつつあったのだ。


 と、背後で物音を聞きつけ、彼は振り返った。砂鉄よりも軽い錆の粉が舞っている。すぐ近くに誰かいるのかもしれない――彼は馬を降り、その砂ぼこりの舞う方へと歩みを進めた。


 そこには、五本指の足跡がある。確かに、それは人によるものだ。もしや、まだここに希望が残っているのか? ――彼は逸る鼓動を抑えながら、その足跡の続く方へと歩いた。


 足跡の伸びる先には大きな建物があり、その建物の奥にはいくつかの尖塔が断ち、屋根の中央にはドームが備えられている――きっと、教会だったのだろう。入口の扉を押すと、扉は赤茶色の小さな粒子へと崩れた。


 その教会の奥、未だ浸食を免れている祭壇には、一人の少年が――あるいは少女が――腰かけていた。祭壇の上で胡坐をかいているソレは、見た目には十歳くらいで、絹糸のような細くて白い髪の毛を、胸のあたりまで伸ばし放題にしている。服も浸食されてしまったのか、ぼろ布を継ぎ接いだローブを羽織っていた。


「――そなたは、この町の生き残りか」彼は尋ねた。祭壇の彼/彼女は、無言で小さくうなずいた。

「そなたは、ずっとこの町にいるのか」

 彼/彼女は、また小さくうなずいた。この町には、かつては人間がいたのかもしれない。

「他の人間はいないのか? この町はいつ飲み込まれた?」


 彼/彼女はその質問に答える代わりに、ひらりと祭壇を降りて、部屋の奥にある木製の扉を開けた。その先はまだ錆には覆われておらず、ひんやりとした石段が奥へと続いていた。


 男は見知らぬ人間に従う危険性を知りつつも、もしかしたら、という思いを込めて、続いて石段を登って行った。らせん状に続いている石段は錆に覆われているどころか、所々に水が滴っており、苔すら生えているところもあった。


 まだこの町には、希望が残っているかもしれない――彼はそう思いながら、白髪の彼/彼女が潜った小さな木製の扉を開いた。


 するとそこには、一面の花畑が広がっている。それとともに、甘く優しい香りが鼻腔を刺激した。


 昔図鑑で見たことのある、白い花――カモミールの花が、暴力的な赤錆に抗うように、理不尽な逆境に抗うように、一面に咲き誇っていた。


 数十年ぶりに目の当たりにする植物を目の前にして目を輝かせる男に向けて、白い髪の毛の彼/彼女はそっと微笑んだ。


 まだ、花々は残っている。生きようと残っているはずなのだ。


 男は懐から取り出した短刀で数株のカモミールを土ごと掘り出すと、腰のバッグに優しくしまった。そして、次に訪れた村で、人がいようといまいと、必ずこの花を植えようと心に誓った。


 彼が顔を上げた時には、花畑の向こうには誰もいなかった。

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【KAC20247】無聊のレゴリス 有明 榮 @hiroki980911

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