風にまつわるアネクドート 作:俗物

 私は風が好き。自分の名前にも入ってる風が好き。風に吹かれることだって好き。朝の河川敷沿いをランニングしているとき、夜の大通りをバイクでかっ飛ばすとき、爽やかな風もしっとりとした風も好き。いつだって、風はどっちにしても私の心に色んな感情をくれる。そして、今、私の目の前を通り過ぎた一瞬の風は私に未来を与えてくれるんだと思う。

 


 私、小柳風香がその人に出会ったのは、大学に行く途中、駅前のバス停。四月、入学したてでまだ授業が始まる前くらいのオリエンテーションの頃。私が慣れない手つきで慣れないポケットに入れた定期券を探していたら、ポロっと落としてしまった。そして落とした定期券をそっと拾ってくれたのは、彼だった。

「あの、落としましたよ」

 彼の声は私の耳にすっと入った。それはいわゆる一目惚れってやつだろう。イヤホンをしながらスマホを見る、ちょっと陰のある青年(というか優男)で、でも、こっちを見る瞳には眼鏡越しにも何かの意志が感じられた。そんな彼に対して、私は「え、えっと、ありがとうございます」と答えるのが精いっぱいだった。こっちが声を掛けようかなと思うのと同時に、彼は遅れてきたバスに乗り込んでしまって、タイミングを失った。後ろに並んでいた高校からの同期の由美が「今の人、いい人だったね~」なんて声をかけてくる。私は若干の心残りなんかもありつつ、押されるような人混みに従って、バスに乗り込んだ。

 次に彼と出会ったのは、昼休みの学食。私が由美と食事をしていると、彼が食堂の反対側で三人くらいの友人と食事しているのが見えた。この前の時とは違って、イヤホンはしていない。意外にも彼はしっかり食べるのかとり天定食のご飯は大盛りだ。こっちがずっと見ていたからか、彼は気づいて手を振ってくれた。私もすかさず、手を振り返してみた。由美が後ろから背中越しに「この前の人?」と聞いてくる。「うん、そうだよ」って返すと、「ふーん」と言う。

「風香ってよく他人の顔とか覚えられるよね」

「いや、そんなに意識したこととかはないんだけど」

「そっか~、あ、やばい、そろそろ英語始まる!」

 私としては、彼と話をしてみたかったんだけど、由美のその勢いに気おされてしまって席を立つしかなかった。三限がある由美とは違って、私は休講だったし、彼女とは教室棟の前で別れて、学内の図書館にでも行くこととした。由美からは「またあとで~」と言われて、私は歩き出した。歩きながら肌に感じる、昼下がりの風は花粉を運んでいるのか、鼻がむず痒い。仕方なくポケットティッシュを取り出して鼻をかもうとしてたとき、目の前には彼がいた。

「あ、また会ったね」

「え、えっと、この前は本当にありがとうございました!」 

 ちょっとした不意打ちに声が上ずりながらも私は答えた。慌てた私とは対照的に、彼は自然な感じでスマホを片手に持ちながら私を見ている。彼はこちらが固まっているのも気にせず、すらすらと言葉を続けた。

「いや、全然! 大したことなんか何もしてないよ。それより、三限行かなくていいの?」

「あ、いや、私は休講で」

「ん、そっか。そういえば、自己紹介もまだだったね。俺は真田奉孝(ともたか)っていうんだ。経済学部の三年で、いつもこの辺りをぶらついてんだ」

「私は小柳風香って言います。一応、文学部の一年です。あの、国際コースってとこなんですけど」

「あ、俺の代からできたとこじゃん。小柳さんはさ、このあと何か予定とかある?」

「いや、全然! 今日はもう終わりなんで」

 私の返事を聞いて、彼は少し微笑む。私はこの後、由美と会ってどこか行こうかなんて思っていたけど、せっかくの彼からのお誘いを無下にはできなかった。「由美、埋め合わせは今度!」なんて胸の中で考えている間にも、彼は「どこに行く?」なんて聞いてくれる。

「真田先輩はどこに行きたいとかありますか?」

「うーん、小柳さんってこっち出身? あ、あと先輩付けはやめてよ。別に部活じゃないんだし」

 そう笑いながら言ってくれる、彼はやはり素敵だった。

「あ、じゃあ、真田さん、でいいですか? 出身は松山です!」

「うん、いいよ~。じゃあ、まだあまり博多のこと詳しくないかな? もしよければ天神とか散歩しながら紹介するよ~」

「ありがとうございます! 真田さんの出身は博多なんですか?」

「うん、一応ね~。市内からはちょっと外れてるんだけど、春日ってとこ」

「へえ、じゃあ、詳しいんですね~」

「だからさ、任せておいてよ」

 こうして、記念すべき初デート(?)が始まった。二人でバスに揺られながら天神に向かって――高速道路を路線バスが走るのもびっくりした。感染症対策か、バスの窓は少しだけ開いていて、そこから入ってくる風は心地良かった。松山じゃ経験できないことで、私にとってはとても刺激的だった。

 思い返すと、松山って小さな町だった気がする。私の生まれは、愛媛県の中でも田舎の方、八十八か所の霊場くらいしかないところ。お父さんは郵便局員で、町の中に一つしかないもんだから皆に顔が知れていた。いや、あの田舎だったらお互いに誰でも知ってたんだと思う。でも、あの頃は楽しかった。河川敷沿いを走りながら受けた向かい風、夕暮れの神社に行って、カラスたちが一斉に羽ばたいたときの風。その風にはそれぞれ匂いがあった気がする。花の匂い、虫の匂い、鳥の匂い。それぞれ自然らしくて良かった。

 小学校三年生の春、お父さんの転職で松山市に引っ越すことになった。それまで、松山はお出かけでしか行ったことなくて、大きなお城と温泉くらいしか印象がなかった。通っていた小学校(分校だった)では盛大なお別れ会をしてもらった。他の学年の子達からも合わせて色紙ももらった。家族三人で住んでいた家を出ていく朝、荷物を詰め込んだトラックの前に、親友だった男の子がやってきた。

「風ちゃんのこと、忘れないから!」

「向こうに行っても、お手紙書くからね」

 そんな会話をしたのを覚えている。私、泣いていたかも。最後に車の後部座席から窓を開けて手を振った、振り続けたのを思い出す。その時の風は少ししょっぱかった。手紙、結局出さなかったな。

 こんなことを考えてつり革握ってぼーっとしていると、真田さんが心配そうに見つめてくる。

「乗り物酔い? 大丈夫かな」

「ううん、全然です! ちょっと考え事してて」

「ん、それならいいんだけど。それじゃ、気分転換に天神でのんびりぶらぶらしよう」

 こうやって、私の事を心配してくれる。定期券の時だって、そうだ。私はこの人のこういうところに惹かれたんだなって思って、男の子の記憶を過去に押しやる。

 天神についてからは、二人でパルコやら何やらをぶらぶらして大名ってとこでソフトクリームを食べたりした。松山には昔、ラフォーレはあったけど今はない。「やっぱり福岡は違うな」なんてことを言うと、彼は笑った。「意外と見るとこ少ないんだよね」なんて、彼は苦笑しながら言った。そんな苦笑いも私からすれば、大人っぽくて素敵だった。ちょうどスマホを見れば、由美からメッセージが来ていたけど、スタンプを送っておいたからいいだろう。夕方、新天町ってアーケードを歩いていると、大きな飾り時計が鳴り始めた。ちょうど、時間を知らせるためのものだろう。スマホを見れば六時だった。

「小柳さん、夜ご飯とかってどうする?」

「ええと、用意とかはしてないんですけど」

「そしたら、一緒にご飯行かない?」

 私は彼の言葉に甘えることにした。彼が先を歩いて、私はついていく。二人で風を切って天神の街中を歩く。私自身が松山に居たころ、経験したことがないもの。それ自体が刺激的で、大学生になってよかったと思う。

 彼が連れてきたお店は、カジュアルな感じのバル? ってやつだ。メニューもいっぱいだし、お酒ももちろんあった。松山、いや愛媛にはサイゼリヤすらもないし、新鮮だった。

「何か食べたいものとかある?」

「全部美味しそうですね! このエスカルゴってやつ食べてみたいです」

「ん、おっけ。あとは何かテキトーに頼んでおくね。あ、俺はお酒飲むけど、小柳さんどうする?」

「あまり飲んだこととかまだなくて……」

 「あまり」なんて言葉を使ってはいたけれど、これは嘘だ。私は今までお酒なんて一滴も飲んだことはない。親にだって、由美にだって、やめておけ、と言われていた。理性ではダメだってわかっている。

「あ、まだ未成年だもんね。やっぱソフトドリンク頼もうか?」

「い、いえ、飲んでみたい……かもです」

「ん、本当? それならあまり酔わないやつとか飲んでみる?」

 そう言って、彼は自分用にビールと、私のためにファジーネーブルってカクテルを頼んでくれた。桃のジュースみたいなものらしい。ちょっとして店員さんが持ってきてくれた、それは甘くてとても美味しかった。

「おいしいですね、これ!」

「そっか、一緒に飲もう。飲めなかったら俺に回してね」

 こんなところも優しいなあ。私はお酒のせいか、この人と一緒に居られるせいかわからず、頬を赤らめていた。時刻も八時を回ってきていて、「そろそろお会計しようか」なんて彼が言う。そして、彼は御馳走してくれた。そんなところも格好よく見えた。

「小柳さんは明日も早いかな。そろそろ解散にしようか」

「いや、明日は午後からですよ……?」

「もう一軒、行きつけのバーがあるんだけど行く?」

「ぜひぜひ!」

 テンションが上がった私は彼についていく。スマホを見れば、由美から「明日の心理学の課題終わらせた?」なんてメッセージが来ていた。スルーでいいや。

 二軒目のバーはいわゆる安いバーらしく、松山にもあったような雑居ビルの二階にあった。その分、メニューが多くていいんだとか。カクテルなんて何もわからない私は、彼におすすめを聞いた。

「んー、おすすめか。小柳さんって好きなものとかないの? お酒じゃなくていいんだけど」

「好きなもの、ですか。風、ですかね。いつも風が好きなんですよ」

「そしたら良いカクテルがあるよ」

 そういって、彼が注文してくれたカクテルはシーブリーズという名前だ。制汗剤と同名だが、「海のそよ風」という名前は素敵だった。口を付けると、お酒の香りがする。そして、真田さん、いや、奉孝さんの顔が近く見える。

「酔っちゃったかな?」

 奉孝さんは、テキーラサンライズというカクテルのグラスを掲げながら見つめてくる。彼も少し酔ってるのか、とろんとした瞳がより一層魅力的。返事をしようとしたとき、また由美からのメッセージが届いた。「今、どこにいるの? あの男の人といるの? 早く帰った方がいいって」。私の返事は一言、「うーん、大丈夫だよ」。そんな私を見て、奉孝さんは、「ん、大丈夫? 帰らなきゃいけない?」

「そうですねえ、あのバス停の時に一緒だった友達が心配してるみたいで」

「ふふ、そうだよね。心配になる時間かな。最後にデザートカクテルでも飲んでみない?」

 そう言って、彼が注文してくれたのはグラスホッパーってお酒だった。チョコミントみたいでとても美味しい。そして、彼がお会計のために席を立っている間に、由美から着信が来た。着信画面を見て、時間を確認すれば十時四十分。せっかくのデートを邪魔された気がして、苛立ちながらも電話に出る。

「もしもし」

「もしもし、風香? 今どこにいるの? まだあの人と一緒に居るの?」

「えっと、天神のバーだよ。うん、別に何もないって」

「バー? 無理に飲まされたりしたんじゃ」

「そんなことないよ! お酒も私のために飲みやすいもの選んでくれたし、うん、奉孝さんは良い人だよ」

「ともたかさん? ああー、そうなのね。カルーアとかレディーキラーじゃない?」

「うん、その辺もしっかりしてる。だから心配しないで。この人は良い人だと思うの」

「私は心配なの。風香のことが心配なんだよ」

 段々と、言い合いみたいになってしまった。思い返せば、由美と出会ったのは高校生になってから。それまで由美は、大阪の吹田とかいう知らない街に住んでいたらしい。彼女相手に、中学三年間で遊びつくした松山の街を紹介したのはこの私だ。なのに、なんで保護者面されなきゃいけないんだろ。大街道の自転車屋を紹介して、二人で市電と競争なんてこともした。あの風も気持ちよかった。なのに、今は……。

「子ども扱いして! もう、由美には関係ないじゃん!」

「そんなこと言わなくたって……」

「いや、あ、奉孝さん帰ってきたからまたね」

 会計を済ませてきてくれた奉孝さんを見て、電話を切った。険しい顔をしている私を見て、奉孝さんは怪訝な顔をしている。

「小柳さん、どうかした?」

「いや、由美が電話でひどいこと言って……」

「ひどいこと?」

「私のことを子供扱いするんです。昔、松山の都会の遊びとか教えたのは私の方なのに」

「んー、それは由美ちゃんが悪い気がするな」

「ねえ、真田さん。下の名前で読んでもいいですか?」

 一瞬、奉孝さんが固まった気がした。ただ、その一瞬の間の後にはあの時の意志が見て取れた。

「うん、いいよ。風香」

 二人で階段を下りてビルの外に出た。ビルの扉を開けると同時に風が吹く。「きゃっ」という私の声を受けて、奉孝さんが庇うように前に立つ。そして、二つの手は一つに重なり合う。もう、私の中では高校生までのイメージ、それは男の子だったり由美だったり、もこの風と共に過ぎ去っていくのが見えた。この風の匂いはツンと鼻を刺激して、過去との別れを暗示しているみたいだった。そうだ、私はこの大学で、福岡の街で生きていくんだ。



 とある男のスマートフォンのメッセージ履歴

「なあ、あの女の子どうなったん? どこ出身やったん?」(18:40)

「ん、今デートしてるとこ。愛媛の松山らしい。それでさ、このあと飲み誘えたわ」(18:46)

「マジ? ええやん」(19:14)

「で、どうなったん」(20:13)

「ん、二軒目誘えたんやけど(笑)」(20:32)

「おお、進捗報告してくれ」(21:09)

「この子、マジで頭弱いわー。何の疑いも無く酒飲んでくれる。無知ってすごいなあ。逆に怖くなってきたんやけど(笑)。普通、緑色の変な酒とか素直に飲まんぜ」(22:21)

「マジでウケるんやけど、ホテル誘えたわ。せっかく友達っぽい子が忠告してくれてたみたいやけど、逆効果やったみたい。無知乙って感じやね。松山って田舎やけんなあ」(22:46)

「おお、うまくやったな! 東京とか大阪の子やったら無理やろけど。埼玉とか千葉とか、東京でも町田とかでもこっちより都会やったりするけんね。大阪やったら堺とか吹田とかもよな、兵庫は西宮やけど」(22:49)

「とりま、ホテル行ってくるわ。つか、さっきから風冷たいんやけど、どっかのおっさんのゲロの臭いが流れてきて不快」(22:51)

「おお、それはおつかれ(笑)」(22:53)

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