朝の海 作:奴

 丘の木々のあいだから、家々のあいだから、海は小さく見えている。枝葉にまぎれてきらめく平らな海は、けれども、はるか先とも思われず、草木のかおり、土のかおりのなかに、潮ははっきりと満ちている。潮風が梢を渡り、空気に混ざり、私のまわりで踊っている。

 朝の月がたたずむ空は、水平線いっぱいに広がる海よりいっそう淡い色をし、大気はいよいよ冷たく、風が黙った今、何もかもが、ただ在るばかりというかんじを呈する。

 吸いこむ空気の冷たくかおること、海のきらめきのただ静かなること、ただそればかりに心を惹かれて、こごえる足は軽く、進んでいく。一歩一歩、向かっている。

 空は高い。雑木林のなかに寒椿の赤色はいっそうまばゆい。朝でも暗い樹々のなかに、それをいっそう際立たせる湿っぽい土のなかに、赤く秀でる花びらが夢のように惑わしてくる。星々のようにまぶしくちりばめられた姿が、忘れられなくなる。丘を下るあいだ、いつまでも頭の内側で椿は咲いていた。海すらも、しばし忘れた。

 さても、丘をくだり、住宅街に入り、磯のかおりがいっそう鼻に嗅がれてくると、もう胸には海原をかかえている。家にはばまれて見えないはずのものが、私の心に満ちて、体よりも心よりもずっと、広々と渡っている。アスファルトを踏んでいく硬い感触にも、ふと、砂浜を裸足で歩くときのやわらかい感触が思い出された。私はまだしばらく続く硬い路面に、無性に喜びをおぼえ、じきに現実となるはずの幻覚に身をゆだね、海に導かれて進む。朝の海が、私の手をとり、鼻に己のにおいを嗅がせ、私をすっかり陶酔させてしまう。

 それはほとんど、それよりも大いなる者が存在しえないほどに偉大な者——人はふつうそういう存在を神と呼ぶけれど——なにか、そういう神さまといってもよいくらいの存在に、手を引かれているのも同然な気がする。こんなふうに表現するのはすこし壮大すぎる気もするけれど、今のこの私の感覚は、それくらい果てしない。微風に海をさとり、海原の無限の広がりや、さざ波のきわめてささやかな起伏など思いえがくと、私までもがそのなかに溶けて、ぼんやりとしてくる。そうすればこの一生も万事万象もみないっさいのことは平穏無事に過ぎてゆくというかんじがする。すべては太平の朝を駆け、安楽の夜に眠るという、そういう気がする。

けれども、すべてが海に還るなどと言ってしまうと、山や野原は自分が相手にされなくってがっかりするだろうか。それとも山や野原ですらもみずからの還帰するところを海とみさだめて、いつしかそこへ還ろうと思うのだろうか。志賀直哉の『暗夜行路』には、主人公が鳥取県の大山≪だいせん≫で野原に寝ころんで一夜を過ごす場面がある。そのときの、月と星々とがかがやくさなか、天と地とにいだかれている感覚といったらないだろう。自分がちっぽけだという安らかな心地といったらほかにないだろう。ああいう、いわば自然と自己との合一とでも言うのが正しいような、溶けいるような、無我のような境地は、きっとそんなに味わえるものではない。

 海を思うとき、海に向かうとき、海にあいたいするとき、私はそうして自分が無限のなかに混ざりこんでどこまでも生きてゆく心地にひたる。私は眠っている。本当に眠っているのとはちがう。けれども、眠っていると云うほかない。海を思って海に溶けいり、海と命を同じくし、自分自身が海である、という心情は、私に本当の無限と太平とをいだかせる。それは実際に海に入ったときの、あの全身にしみる冷たさが、私の内側に水が侵食してゆくかのように思わせるのと同じことかもしれない。泳ぐとき、私は肉体的に海と合一するけれど、反対に、思うときになると、私は今度は精神的に海と合一するのである。

 そのうちに、浜辺も見わたせるくらいになってきた。寄せ返す小さな波の音も、浜の砂に生えている草も、もはや想像の影絵ではない。目の前に広がる本当の景色なのだ。海が広く渡って、照りかがやいているのも、想像のなかの光明ではなく、私の目をくらます光なのだ。

 靴を履いたままで、浜に降り、枯れかかった草のあいだを進み、一面の薄茶色の真砂に漕ぎ出で、背後に足跡を残していく。船が海原を行くときに、後ろに残る波の痕跡を、蹴り波という。だとすれば、こうして砂の上に点々と残される足跡も、ある意味では、私という人間の蹴り波みたいなものだ。そうしてどこまでもやわらかい砂を進んでゆくのだ。風や雨で消えてしまっても、そういう波は私の心のうちに、いつまでも響いている。

 ひとしきり歩いて、みぎわで靴を脱いだ。靴下を詰めこんで、すこし離れたところにほうると、私は波のきわに近寄った。足の裏では不安定なかたさをもち、指先にもちあがった細かい粒が、足の甲を洗う。体は、足から、海と一つになっていく。

濡れた砂が吸いつく。

 波がたえず洗い流す。

 また砂が吸着する。

 そうして足首まで水につかるころ、胸を張り、深く息を吸い、吐く。空と海とに、境界線はない。一面が、一つの青色に澄みわたっている。

 波は私に来るけれど、戻っていくようではない。来たものが、私の足をさらい、濡れた砂にしみこんで、そのまま帰らない。

 風はない。松も波も静かになった。空には綿を裂いたような雲があって、青空にじんわりと溶けている。

 息を吸った。そうして吐いた。空気は冷たく、おだやかだ。空気と水が、私の体をやさしく透かした。そうして、


 海はただ在る。

 海は、ただ在る。

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