1 それは運命と呼ぶに相応しいのかもしれない

その日、仕事帰りの只木ししきりんは、帰宅早々に玄関口で――


「はい」


にっこにこの母親からお見合いの釣書つりがきを唐突に手渡された。


「は?」


ただいまと言った直後に、おかえりなさいもなく、靴を脱ぐ間もなく、これである。

まあ、りんとしては、我が家の男連中を尻に敷くマイペース母なら、そういうことがないと言えなくもなくも……なのだが、そもそも標的が自分になった事自体がこう、心構こころがまえをさせろ、と文句の一つでも言いたくなる状況だった。


「いやね、今日、みっちゃんとこから、りんくん、そろそろお見合いどうーって言われてね。ま、こういうのは会ってからじゃなきゃなーんも、わかんないんだから、私のメンツを立てるためにも行きなさいよ!」


あきれと驚きで、靴を脱ぐ事もなく、玄関先にぽかんと突っ立ったままのりんに、母親がそう説教じみたマシンガントークの何かを言うが、そこはりんりんで慣れているので、話半分に右から左に聞き流す。


――お見合い、かあ。


結局、おかえりなさいを言わないまま母親が引っ込んでから、りんはいろいろと考えつつ、ようやく靴を脱ぐ。


恋愛という、一般に甘酸っぱいと言われる経験が一ミリもないのか。

そう問われれば、りんはノーと答える。

だが、そうした甘酸っぱくてピンク色な恋など、片思いでしかしてきていない。

それも最後は大学生だから、三十を超えたところのりんにとって、四捨五入で十年はっている。


今では仕事が恋人かというと、そういうわけでも、ない。


しがない営業、のぺーぺーなアシスタント職であるため、よっぽど緊急の案件か、取引先との大規模な懇親会があるとかでなければ、りんは多少の残業をしたとしても、だいぶホワイトな時間に帰れるのだ。

そのあたりは、腐っても地方の大企業寄り中規模企業だから人手が足りているという現状もある。あくまで比較的、ではあるが。


靴を脱ぎ、ネクタイをゆるめながら、りんは二階の自室に向かう。

とりあえず明かりをつけて、カバンを置き、受け取ったお見合いの釣書つりがきを机の上のノートパソコンの隣に置いた。


そう、リアルな恋人もおらず、仕事が恋人というわけでもないりんにとって、いて恋人になぞらえることができるものがあるとすれば、それは一つだけ。


まず、りんはスーツの上着とネクタイをいつものハンガーにかける。

それから、ノートパソコンの電源を付け、起動後の諸々もろもろのタスク起動のために待つことにしている数分の猶予ゆうよで、不服ながらもお見合いの釣書つりがきをチェックする。


「おお……」


開いた釣書つりがきで、まず一番に飛び込んできたのは写真だ。

振り袖姿で柔らかく微笑ほほえんでいる、どこか幼さを残した女性は、とんでもない美人というほどでもないが、十分に愛らしい女性だった。

ただ、それ以上にすごいのは、その振り袖や小物のセンスだ。


白地に、水墨画を思わせる薄墨色やグレーに近い色味で藤や牡丹などの大輪の花が描かれ、その絵柄で途切れた所から下が、白地ではなく、黒にも見えるほど濃い青か緑に切り替わっている。

そこに鮮やかな目を引く金の帯に、かなり濃い、やはり黒に見えそうな緑の、パールビーズのついた帯締おびじめ。

対して、半衿はんえり帯揚おびあげは主張が控えめな濃い赤紫系の伝統色。

どちらかというとモダンな振り袖を、とてもメリハリのある組み合わせでまとめ上げていて、端的に、かつ有りていに言えば、センスが良い。


一応、釣書つりがきの備考欄には、写真は成人式の時のもの、と記されている。

年齢はりんの一つ下。

職業は経理事務。

学歴はそこそこ大学の文学部卒。

住所も電車で一駅か二駅範囲の比較的近く。これはおかんネットワークの堅固さを笑うしかない。

名前は――


上橋かんばしあおい……」


どちらかというと、自分には勿体もったいない女性なのでは? と、りんうつろな目で虚空をにらむ。

と、虚空をにらりんの視界に、完全に立ち上がったノートパソコンの画面が入った。

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