re:絵の具

木田りも

幻影。

 re:絵の具。



 もう戻れない。白は白に戻れない。どうすればいい。澱んでいる。ドロドロ。あんなに綺麗だった白はいつしか見えなくなる。確かにあったものがなくなっていく。そうして終わりがやってくる。 (終わり)


 作られた世界。作られた空間。親によって、作られた人々。そのまた親も然り。純粋なんてものは、だんだんと壊れ、濁り、白っぽいもので溢れかえってゆく。完全なことなんて存在しない。この世界に存在するとすれば誰かにとっては都合の良い道化なだけ。だとすれば、僕は何になりたいのか。ただの道化止まりか、本当の幸せを掴みたいのか。そんなことは今更もうどうでも良い。先輩。あなたを、あなたを待っているんです。


 好意や好きという感情とは不思議なもので欠点すら愛おしくなる。というよりも、他の人にあれば嫌だなと思うものですら、その人が持っていると、素晴らしいアイデンティティのように感じるのだ。彼女が少し目が細くてつり目になっていて、笑うとえくぼが出ること。そして、少しミステリアスで、知らない間にどこか遠くへ行ってしまいそうな所。そんな先輩と、今、放課後の美術室で2人で目の前で、僕と話をしている。それだけでなにか、自分が先輩を独占しているような、優越感に浸れるのだ。


 特にやりたいこともなかった僕に生きがいなんてなかった。絵が上手いって言われてなんとなく入った美術部。別に描きたいことも、表現したいことも明確になんてない。書けと言われて書いている。


 1度きりの中学生活なんてよく偉そうな校長や学年主任の先生に言われるが、実感なんて湧かないし、何よりこんな毎日、授業をしたり、仲良くもない人と給食をたべたり、興味のない恋バナや、見る気も起きないドラマの話をされても、なんて反応して良いのかわからないのだ。友達なんていらなかった。担任からは人と違うことを心配されたが、どうでも良かった。将来なんてもうどうでも良いし、その瞬間しか生きられない人間にとって、生きているかもわからない不確かな将来を「夢」と語るのはどうしても理解できなかった。


 よく、無性に匂いを嗅いでいる。空間には、蔓延る匂いがある。学校の匂い、体育館の匂い、朝の匂い、夏の匂い。目に見えないものの中で敏感に感じる要素の一つ。美術部に入った時、その空間に誰もいなくなった時。その先輩に恋をした瞬間。先輩が美術室からいなくなり誰もいなくなった時。これまでなんの生きがいもなく生きていた僕。あぁ、今ならやれるって思った。気がつくと先輩が脱いだカーディガンの匂いを嗅いでいた。先輩の匂いを感じている。うちとは違う洗剤の匂い、これが先輩の匂い。直に。直接感じている。唯一無二の。これは、バレたら犯罪かもしれない。2度とここにも来れなくなる。生きがいもやりたいこともなかった僕は、初めて欲しいものを手に入れた。先輩。


 自分がこんなことをする人間なんて思いもしなかった。美術室について先輩が顧問を呼びにいく時間にして大体3分ちょっと。「僕には3分以内にやらなければならないことが、、」なんて大層なものでもないけど。先輩の匂いを直に感じられる気がして。試しに着てみる。先輩が着ていたものを着て、包まれるような感覚。バレたら終わりだ。性的な興奮というよりも、より先輩が近く感じるという幸福。先輩は僕がそんなことをしているとも知らず唯一の後輩のためにたくさん話をしてくれる。僕は、だんだん好きという感情が歪んでいくのを感じた。ただ相手と一緒にいたいだの、相手も自分と同じ気持ちだったら良いだの、そんなものが全て意味のないことのように感じ始めた。それよりも自分が生きていく上で、所有できるか否か、人をどれだけ自分のために動かせるか。なんだか、自分が今までの自分から離れていく。自分という殻を被った全くの別人。そうでも考えていないと、おかしいような感覚。好きってこういうことなんだろう。好きなんだろう。


 生きがいが常にフラフラしている。何のために生きているのか。明確にこれだ!って思いつく自分と、何もないのだから探すだけ無駄と考える自分がいる。生きがいを公に出来ないものにしてしまうと、こんな現象が起こる。匂いが好き。あなたが触れていた部分が好き。あなたが好き。ある日、カーディガンを自分の性器に擦り付けた時、快感と同時に思わず笑ってしまった。全てを手に入れたような気がした。目覚め。叶う夢。現実になった夢。自分の行動の滑稽さと思考の滑稽さには、いつも笑う。


 電車に揺られ、僕は思いつく。最終地点。これが終わったらどうなってしまうのか。僕はもう戻れないと思っていたが戻る気もないことを理解した。揺られて、揺れている。僕の体が軋む。そんなこと気づかないまま、揺られている。


 僕たちは先輩の卒業にかこつけて、お互いの似顔絵を描くことにした。じっくりと、細部まで丁寧に。でも僕はそんなことどうでも良かった。先輩の絵が欲しかっただけだ。僕は唯一の特技でもある美術を冒涜している。私利私欲のために特技を利用した。そんな風に利用してしまったのだから、僕はもう許されない。有罪判決。死刑。つまり。自分の中で死んだ僕は、もう何も失うことはない。


 「あのね、」


 8割くらい描き終わり、最終段階の頃、先輩は口を開いた。


「タイミングおかしいんだけど言うね。私、あなたが好き。卒業してからも一緒にいてくれない?」


 恐らく、これは、僕がずっと待っていた先輩の言葉だ。だから本来なら、自画像を描く手を止め手放しに喜ぶはずなのだ。そう、想像している僕の姿は遠くに行ってしまった。僕は、なんて返したら良いのか、でもやっぱり好きなことには変わりないから笑った。笑って、先輩に笑いかけた。それは僕たちの関係で言えば肯定を表すことになるのだが、僕にとって、君の絵を完成させることの方が重要だった。そして、ついに、完成した。


 完成した時の僕の高揚感、満足度は今までの人生で間違いなく1番だった。恐らくこれから、人生単位でこの幸せを超えることはないのではないかと思う。向かい合って座っていた僕たちはいつの間にか隣でくっついていて、先輩はとても嬉しそうだった。僕は、最後だからね、とこの部屋に別れを告げるように呟いた。先輩は、帰ろう、うちに来てと言っている。ただ同意した僕はもう、ひとつだけやることがあると言った。気がする。先輩はいつの間にかいなくなっていて、僕は先輩の絵とカーディガンを持って、自画像にカーディガンを着せるような形を取った。先輩がいる。幻影ではなく本物だろう。やっと手に入れた。僕の前にずっと。僕を見つめる目。えくぼ。どこか行ってしまいそうなミステリアス。そんなミステリアスを残したままの。理想。理想だ。理想がある。僕の理想。先輩。先輩。もう、抑えられなかった。匂いも覚えた。先輩の匂い。好きだ。先輩好きです。やっと答えられた。先輩に。僕は駆け出す。2人。先輩と一緒に。


 本物の先輩が戻ってきたかもしれない。自分のカーディガンと絵がないことに驚いているかもしれない。疑いようもない。ここには僕しかいないのだから、僕以外にこれを出来る人はいないのだ。つまり、もう僕しか犯人はいないのだ。


 僕は、あなたの自画像に白をかけた。夢が叶った瞬間、顔は滲み、歪んだように見える。もう、この絵は本来あった場所に戻れない。もう、戻れない。


 もう少ししたら、これは捨てよう。やっぱり捨てよう。なかったことに。今までも、この瞬間も。そして、僕は僕であることを辞めよう。僕を好きだと言ってくれた先輩が見てる僕は。あんなに綺麗だったはずの白は。あんなに心から大好きだったはずの先輩は、僕がこの世で一番嫌いな欲望の色だ。




 おわり。

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