第28話 飛び方を知らない蝶の籠
「おばちゃん、これくれ」
手に取ったものをそのまま掲げる。俺には何がいいか分からないが、こうするべきな気がした。
「あらいつもの娘さんねえ。お兄さんが買うの?贈り物かしら?」
「おう、そうだそうだ。なんかいい感じにしてくれ」
爪紅を受け取り、奥に消える店主。
「ちょっと、何してるんですか!それは私には…」
「使えなくても、もってりゃいいんだよ。欲しいんだろ」
やっと俺の方を向いた女の顔は綺麗だった。
「ほらよ」
店主から受け取ったのをすぐ渡す。渋々受け取った女は、無言で腕を引っ張り、茶店へ連れていった。
注文したものが届くと、少しづつ話し始めたので聞いてやることにした。
「私は医者です。こんな、お洒落なんていらないんです。装飾品なんて怒られてしまうし。人の為にならなきゃいけないんです。…なのにこんなもの」
年頃の娘にしては質素な格好だったことに気づく。いい生地の服を着ているところをみると出自は悪くないようだ。医者の家か。
「あんた、なんで医者やってんだ?」
僅かにひっかかる物言い。どうせ、二度と会うことは無いだろう。素直に聞いてみることにした。
顔を上げ、目を合わせられる。その瞳には意志が映らなかった。
医者という奴らはもっと、遠い存在に思っていた。度々怪我をすればしつこく説教してくるし、病気をすれば恐ろしいほど過保護になる。
俺が、いや俺の家柄でそうなっていたのかもしれないが、医者なんてのは嫌みなおっさんしかいないんだと思っていた。
でも、こういう女の医者もいて。年相応にお洒落もしたい。
医者も人間なんだな。
「…これ、お返しします。どなたか、別の方に渡してください。さようなら」
代金を置き、立ち上がる。その腕を掴んだ。
「やめてくれよ。これはあんたに買ったんだ」
何日も、何日も。見ていただろう。ただ、見ていただろう。
「貴方がしていることは、貴方の我儘です!何も知らないくせに…!」
女の目からは涙が溢れた。やってしまったのか、俺は。
「おい、ちょ、えっと」
あたふたしている男を見て、自分から涙がこぼれていることに気が付く。
「ずっと、我慢してきたのに。我慢できていたのに。なんで貴方は諦めることを否定するの。私の意志を聞くの」
きっと、彼はそんなつもりじゃない。それも分かっているけれど、言葉が発せられてしまった。
「確かに俺が悪い。あんたのことを考えてなかった、すまん」
買わなかった相応の理由があったんだもんな、と言う。
「それでも、あんたにこれを持ってて欲しいんだよ。やりたいことができない辛さは俺にだって分かるさ」
背中に背負った大きな刀を撫でている。
「どうやったって、叶わないことはある。…もう維新は終わってしまった。時間は戻らない。でも、もしかしたら、やりたいことに近づける日が来るかもしれない。あんたが死ぬまで医者かどうかも分からないじゃないか」
「私が、至の者が死ぬまで医者として生きていかないなんて許されない」
「なんで自分の生き方に許可を求めるんだ」
はっと、した。
「…それが、当たり前だったから」
「じゃあ今日から変えろ。家の柵から抜ける方法だってある」
涙が止まらない。人生が変わっていくような風が吹いた。
今まで、生まれた時から私は医者だった。私には《医者》という名前しかなかった。彼は、《至胡蝶》という名前を思い出させてくれた。私だって、と思うことを否定しないでいてくれた。
「ほら、結婚式とか、あるかもしれないじゃねえか。その時用に取っておいてくれ」
最後にもう一度、済まなかったと詫びてその場を立ち去ろうとする。
「あの!」
女は今日一番大きな声で呼び止めた。
「ありがとう、ございます」
丁寧にお辞儀をした。恥ずかしくなって、
「おう」
とだけ残して足早に立ち去った。
「なあんてことも、あったなあ」
短く切りそろえられた爪を空にかざす。自分から発せられる薬の匂いは、もう分からなくなってしまった。
あの後、蘭さんの道場で再会することになる。探す気は無かったが、また逢えたことはとても嬉しかったのを覚えている。
ありがとう。私の生き方を教えてくれて。
「何々、惚れ気話、あるの?」
「そんなんじゃないって」
京子ちゃんとは最近、突っ込んだ話も冗談も言えるようになった。きっと、私には分からないくらい怖いことができるんだろうけど、命を扱っている点では、私と一緒だ。
ふわり。肌に触れる風にどこか違和感を感じた。勘、だ。周りに人気はない。胡蝶ちゃんには特に何も言わず、もぞもぞと動いてみる。腕を出し感触を確かめ、空気の匂いを嗅ぐ。気のせいか。そう一息つき呼吸すると、途端に身体から力が抜けた。
不味い。
「京子ちゃん!」
突然倒れた友人。身体を支え、顔色を確認し脈をとる。呼吸が細くなり、手足が脱力している。私は、この様子を見たことがある、否なったことがある。
「…おじいちゃん!」
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