第23話 人間

 その日、朝から私は上機嫌で口笛を吹き、昨日入り損ねた風呂を目指し湯屋へ赴く。朝とは言っても明朝。日が昇れば皆仕事をし始めるため、その前には帰る。


 重傷者の部屋を覗き、自分の部屋で飾っていた切花をそのまま置いておく。後で、胡蝶ちゃんが上手くやってくれるだろう。

 静かに入浴を済ませ、誰とも会わず湯屋をでた。髪に残った雫が朝日に輝かんとしていた。


 署に戻ると、一くんが既に起きていた。

「おはよう」

「おはよう。…寝てないだろう」

「三時間寝たよ。どうせ一くんもそんぐらいしか寝てないでしょ」

 無理をするなと頭を撫でられる。まだ濡れている髪から体温が伝わる。

 自分のことなんて、本当にどうでもいいんだ。この国の人を、皆を守れれば。死のうと倒れようと寿命がすり減ろうと。本当にどうでもいいんだ。


「桂さんに会うの、久しぶりだなぁ。こんな用件じゃなかったらもっといいんだけどね」

 返事は返ってこないが、髪の雫を拭いながら一くんに話しかける。桂小五郎、今は名を変え木戸孝允。幕末において、人一倍生きることにこだわり生き延びた、長州藩士。剣術と学問両方に秀でており、幕政改革にも関わっている。日本を担っていく人物だ。

 桂さんがまた強い。剣術の力量も勿論、持ち前の頭を使ってくる。真面目に手合わせをしてくれたことは無く、毎回遊ばれて終わるのが悔しかったのを覚えている。

 芥の件は元から知っており、捜索や殺害された方の後始末に手を回してもらったこともある。届いた連絡には見舞いと、かつての仲間と宿敵に逢いに行くと書いてあった。私の数倍、先を見通して動く人物なので迎え入れる他ない。今こっちは危険だからなんて言ったら叩かれてしまうんだろう。


 日が昇り人が動き始めると、外で騒動が起こっていると連絡が入った。

「かなり暴力沙汰になっています。どうしましょうか」

「京が行ってくるよ。こっちよろしくね」

 申し訳なさそうに報告に来た青年の背中を叩く。ここ数日で見慣れてしまった制服で現場に向かった。

 

 渦中には林檎ちゃんと胡蝶ちゃん、七扇のおじさんたちが見えた。何かで手を出すような人たちではないはずだ。その三人に町の人らが詰め寄っていた。戸惑う警官たちもいる。

「中田さん、どうしました?」

 顔見知りの警官に声を掛けた。

「姫崎さん、今はここに立ち入らない方が…」

 警告も空しく。叫び声が私の耳には届いた。

「この、人殺しが!」


 振り向くと、見知らぬ人が私を指さしていた。そういうことだったのか。

 目を細めて、言葉の続きを待つ。

「この犯罪者に警官たちも毒されているんだ。こいつは人斬りだ!我々を騙していたんだ!」

 強く言い放った彼を中心に小声のざわめきが広がる。やがてそれは、思い思いの感情に変わって、大衆の声となった。私の事を、敵だと認識するような、感情。

 この問題に動き出した時、こうなるのは時間の問題だと思っていた。芥が派手に被害を出せば、四大人斬りという存在を説明する必要がある。それでも心が重苦しくなってゆく。


「だから、違うって…!」

 言い返そうとしてくれる林檎ちゃんを制止した。

「いいの。間違っては無いから。ね、危ないから離れてて。お願い。七扇のおじさんも何やってんですか。早く戻って下さいよ」

 そっと輪から押し出す。当の本人が来たことで彼女たちへの関心は薄れ、私に皆が注目していた。

「ごめんなさい。確かに、原因を招いたのは私かもしれません。でも、決して貴方たちを傷つけるようなことはしません。政府も警官も皆さんも為に昼夜動いています。どうか、協力をお願いします」

 頭を下げる。それでも罵倒が続いた。仕方ない、私はまだ人を斬り、刀を持っているのだから。でも、これ以上騒ぎが大きくなってしまうと、この人らに罪を問わなければいけなくなる。なんとか場を収めたい、そう思い口を開こうと顔をあげると、頭に石が飛んできた。


「死んで詫びろ!俺の妻は歩けなくなったんだ!家も、思い出も全部燃えた!お前のせいで!」

 やっと傷がふさがってきていた額から、また血が流れた。それでも私は、前を向いていた。

 この一言を皮切りに、石や瓦礫やらが飛んできた。警官たちが止めようとするが、やめさせた。それでは何も悪くない人を傷つけてしまう。遠くで見ていた林檎ちゃんの叫び声だけ、はっきり聞くことができた。


 ああ、この人たちもきっと、私に何かしたところで何も変わらないことを分かっている。でも人間はそんなに冷静になれないんだ。ならその苦しみ、分けられる分は私が背負うから。

 額に当たれば血が流れ、口端に当たれば切れる。腕に当たれば痣となり、骨に当たれば身体に響く。

 痛かった。でも、下がることなど許されない。


 そんな姫崎を取り囲む輪に近づく人影が一つ。その輪をかき分ける人影が一つ。

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