第21話 松野さん、極道ベビーシッターになる

 

「ふあ~~~~、疲れた…」


 時刻はもうすぐ24時。

 搬出作業を無事見届けた松野は、指定されたホテルにチェックインをすると、ふかふかのシングルベッドにバタリと倒れ込んだ。

 最近、21時頃には寝ていたから眠くて眠くて仕方がない。


 ――こんな時間までドタバタしてたのに、住人もコンシェルジュも、なーんも言ってこんかったなぁ…。


 何なら、テーマパークのキャストなのか?と思うくらい、コンシェルジュ達はニコニコしていた。もしかして、浜ヶ崎達がお金を握らせたのだろうか。


 ――…いや、あんなに騒ぎを起こした奴が引っ越すんやから、誰でも喜ぶか。


「ふあ~~~~…」


 松野はもう一度大きい欠伸をして、枕に顔を埋める。

 フロントで受け取ったチケットには“新大阪駅行 7時発”と書かれていた。ここは東京駅にくっついているし、1時間前に起きれば、シャワーを浴びても間に合うだろう。


 ――そういや…浜ヶ崎が、何かメッセージ送ってきてたなぁ…。


 松野は閉じそうな目をこじ開けて、スマートフォンをポンポンと操作する。


「…待ち合わせ場所、は、東口………」


 あ、ダメだ。意識が飛んでしまう。

 松野は何とかアラームを5時にセットすると、そのまま力尽きるように眠りについた。


 その晩、松野は夢を見た。

 先祖代々住み続けているような立派なお屋敷で、浜ヶ崎達が笑顔で自分を出迎える。

 自分も笑顔で歩み寄り、皆と共に屋敷の中に入って行く。

 家の中には歴史的価値がありそうな刀や大きなお皿、教科書で見た浮世絵や有名な掛け軸等が、至る所に飾られている。

 始めは緊張しっぱなしだった生活も、皆と過ごすうちに、段々楽しくなっていく。

 たまに怒号が飛び交うけれど、命の危機を感じるような事は何も起こらなくて。


 なぁんだ。ヤクザって意外と、平和な世界なのかもしれない――と、ホッとする…そんな幸せな夢だった。


 最高な気分で目覚めた松野は、朝から上機嫌だった。

 東京駅で紙袋4つ分の大量のお土産を買い、ルンルン気分で大阪へ向かう。


「松野さ~ん!」

「おお!吟!」


 待ち合わせ場所には、吟が黒いセダンで迎えに来てくれていた。二人は昨日ぶりの再会にはしゃぎしながら浜ヶ崎の家に向かっていく。

 道中の会話が楽しすぎて、もしかして、夢の続きなんじゃないかと思ってしまう。

 これから、こんな毎日が送れるなんて最高だな…と、喜びを噛み締めているうちに、車は無事浜ヶ崎宅に到着した。

 高級車が4台並ぶ広々としたガレージに、吟は慣れたハンドルさばきで車を止める。


「俺も荷物持ちやす!」

「おお。ありがとう」


 二人で仲良く松野の荷物を分け、ガレージを出て歩き始める。


「は~…この塀の中に家があるん?」


 高級住宅街の中にある、一際大きい白い塀。その高さは松野の背を優に超えており、中の様子が見えないようになっている。道路に沿って真っすぐ続く壁の角は遠く、浜ヶ崎宅の敷地の広さを窺わせる。


「へい!そうです!」

「家、めっちゃ広そうやな」

「400坪はあるって聞いたことありやす」

「400!?大豪邸やん!」


 松野はギョッと目を見開いて、もう一度壁を見る。よく見ると、壁の所々に何かがぶつかったような丸い跡がある。


 ――…銃痕…な訳ない、よな…。ははは…。


 嫌な想像が頭を過ぎり、思わず空笑いが漏れる。

 底なし沼に爪先を入れてしまったような。そんな不安に駆られる松野の心境もいざ知らず、吟は満面の笑みで「今日から楽しみっすね!」と言う。


「そうやな…はは…」


 どうしよう。ぎこちなくしか、相槌が打てない。

 「はぁ……」と松野がこっそり溜め息を吐くと、吟が「あっ」と声を上げた。


「もう着きますよ!」


 そう言って、ピンと立てた人差し指を右に向ける。ズンズンと歩を進める吟の後ろを慌ててついて行き、角を曲がる。すると、瓦屋根のついた古い門構えが見えた。


「うわ~…凄いな…」


 松野はポカーンと口を開けて、大きな瓦屋根と歴史を感じる木造りの重厚な扉を見つめる。

 周りは普通の一軒家が並んでいるのに、ここだけ江戸時代にタイムスリップしたような異質さがある。昔、テレビで見た武家屋敷を思い出しながら眺めていると、門がギギギ…と自動で開いていく。

 いや、そこはハイテクなんかい…と心の中でツッコむと、中から浜ヶ崎が出てきた。 


「おお、来たか」


 ヒヒッと嬉しそうに笑った浜ヶ崎はスーツ姿で春を抱いている。春は眩しそうに外を見ていたが、松野が立っていることに気付いた瞬間、パアァッと目を輝かせた。


「あうー!」


 腕の中で身を捩り、松野の元へ行こうと暴れ始める。


「分かった分かった!春!危ないから暴れるな!」


 浜ヶ崎は急いで松野に近寄ると、春を落とさないようにゆっくり渡す。


「うー!うー!」

「春~!歓迎してくれてるんかぁ?ありがとな~!」


 松野は嬉しそうに笑うと、ヒシッと肩にしがみつく春の頭を優しく撫でる。


「もうすぐ着くって、今引っ越し業者から連絡来たわ」

「おお!時間ピッタリやな」

「松野の荷物は、昔親父が使ってた離れに入れようと思ってるけどええか?」

「全然ええよ。ありがとう。お世話になります」


 松野は笑顔で頭を下げる。が――。


 ――離れって、普通狭いよな…?


 はたして、3LDKのマンションにあった物が収まるのだろうか?と、松野は疑問を抱く。

 まぁ、入らなかったら入らなかったで、何か捨てれば良いか~…なんて高を括っていた松野は、浜ヶ崎に続いて門を潜った瞬間、目の前に広がる光景を見て言葉を失った。


「…いや、旅館やん…」


 門からS字を描く石畳が導く先にある、大きな母屋。築年数が古いであろう平屋が、現代風のオシャレな和モダンにリノベーションされている。

 軽く5部屋は超えるであろうL型の建物の外壁は、全て黒。所々に植えられた松の木と、木をライトアップする照明は、自宅とは思えない豪華さを演出している。それに加えて、大人三人は横になれそうな程広い縁側。その目の前にある大きな池と枯山水。もしかして、今自分が居るのは重要文化財なのか?と勘違いするくらい、芸術的な庭――いや、庭園だ。


 ――えっ、もしかして…離れってあれか…!?


 母屋とは反対側にある、もう一つの平屋に松野の目が留まる。

 “離れ”と聞いて、勝手に小さな家を想像していたのだが、大きさも見た目もほぼ母屋と変わらない。


 ――お、俺っ、こんな広い所に一人で住むんか?


 どう考えてもデカすぎる。それに、母屋と木造りの廊下で繋がってはいるものの、一人ぼっちは寂しすぎる。


「旅館は言い過ぎやろ。まぁ~和風やから、松野のインテリアには合わないかもしれへんな」

「いや、そんなんどうでもええわ…」

「?」


 「どうでも良い」と言う割に何故かしょんぼりと肩を落とす松野を、浜ヶ崎は不思議そうに見つめる。


「龍二と吟の他に、あと三人しょーもない奴らがおるんやけど、今出かけてるから、帰ってきたら紹介するわ」

「おお、分かった」

「親父!引っ越し屋が来ました!」


 ブロロロロ…と響く排気音に気付き、吟が門の外に首を伸ばす。


「じゃぁ、俺が指示出すから、松野は引っ越し作業が終わるまで母屋で待っててくれ。吟、案内せえ」

「へい!…あっ…あれっ!?」


 吟は笑顔で歩き出そうとして、何となくスラックスの右ポケットが軽い事に気付く。

 重たい4つの紙袋を左手だけで持ち、右手でポケットを触ってみる。


「あれっ、あれっ」

「なんや?」

「ね、ねぇっす…!スマホがねぇっす!」

「はぁ?」

「多分、車に忘れやした!急いでとってきます!」

「ちょぉ待てって!松野の荷物家ん中に運んでからにしろって」


 紙袋を持ったまま走り出そうとする吟に、浜ヶ崎が呆れながら声をかける。すると、松野は片手で春を抱えたまま、吟に手を差し出した。


「俺、一人で持ってくから大丈夫やで」


 と言うと、松野は返事を待たずに、吟から紙袋を受け取る。


「えっ!?お、重いっすけど、大丈夫ですか?」

「お~、こんなん余裕やで。中に龍二居るんか?」

「…おぉ、居るけど。…松野、大丈夫なんか?」

「平気平気。じゃぁ、お邪魔させてもらうな」


 松野はにこやかに笑うと、片腕に春、肩に大きなボストンバッグ、片手に4つの紙袋を持ち、玄関に向かって歩き出した。


「……何となーく気付いてたけど…松野って、めっちゃ力あるよな?」

「そうっすね…ジムの社長やってただけありますね…」


 まるで重さなど感じていないかのように平然と歩く後ろ姿を、二人は目を丸くして見つめる。

 春が大好きなぬいぐるみを、クレーンゲームで取ってきた時。あの時も、違和感はあった。春よりも大きくて、それなりにずっしりとした重さがあるのに…一人で6個も持って帰ってくるなんて、大変じゃなかったのか?と。

 自分があんな事をしたら、暫く筋肉痛になってしまいそうだが…と首を傾げる浜ヶ崎の隣で、吟が「あっ!」と思い出す。


「そう言えば俺、一緒に風呂入ってる時に聞いたんすよ。『松野さんって筋肉ムキムキですけど、バーベル何キロ持てるんですか?』って」

「ほお!」

「そしたら、120キロはいけるって言ってました」

「120!?58で!?」

「凄いっすよね!?松野さん、ほんとにすーっごい筋肉してるんで…もし松野さんが護身術とか覚えたら、俺、喧嘩で勝てないかもな~って思ったんすよね」

「!」


 うんうんと頷く吟の言葉に、浜ヶ崎は目を丸くする。

 腕っぷしには相当な自信がある吟が、「勝てないかも」と言った。


「ほ~…。護身術なぁ~…あっ!」


 浜ヶ崎は顎を撫でながら目を細めて、ピンとくる。


 最近ずっと頭を悩ませていた、春の護衛問題。

 あれ、松野に護身術を覚えさせれば良いんじゃないだろうか。


 ――そぉや…松野をベビーシッター兼護衛に育てればええんや…。


 護身術なら、「この世界はいつ何が起こるか分からんから、自分の身を守れるようにしたほうがええで~」とか適当な理由を付けて、覚えさせられる。

 あくまでも戦う為じゃないと強調すれば、阿呆な松野は何も考えずに頷くはずだ。尚且つ、松野は優しいので、春が危険な目にあったら身を挺してでも守ろうとするだろう。


 これで、春の護衛不足問題は解決。

 護衛を探す手間も雇う必要もなくなり、一石二鳥だ。


「カーッカッカッカ!」


 腰に手を当て、天に向かって高笑いする浜ヶ崎。


「!?」


 急に笑い出した浜ヶ崎に吟はギョッとするが、ご機嫌な瞳の奥で、何かを企んでいる事に気付く。


 ――ま…松野さん、すいやせん…。俺、もしかしたら余計な事言ったかもしれません…。


 美しい庭園に響き渡る笑い声は、地獄へ引きずり込もうとする悪魔のようだ。

 やってしまった…と、吟は顔を歪めると、何も知らない松野を思い、心の中で両手を合わせた。



 玄関に着いた松野は、ドンドン!と扉を叩くと、人差し指だけを使って格子の引き戸を開けた。


「おじゃましますー」

「ばぶー」


 松野は春に頬っぺたを叩かれながら、玄関の黒いタイルを踏みしめる。


「おぉ…中も凄いな…」


 キョロキョロと周りを見回してみる。外装は真っ黒だが、内装は白で統一されている。右側にある桐でできた横長の靴箱の上には、夢で見たような大きなお皿と、生命力溢れる生け花が。目の前の壁には達筆すぎて何と書かれているか分からない毛筆が、縞模様の額縁に入って飾られている。

 豪奢な雰囲気に圧倒されていると、扉の音を聞きつけた龍二がパタパタと走り寄ってきた。


「松野さん、おはようございます」


 凛々しい瞳を僅かに細め、龍二が嬉しそうに挨拶をする。


「おはよう。今日からよろしくお願いします」


 松野がぺこりと頭を下げると、龍二も「こちらこそ、よろしくお願いします」と言って頭を下げる。


「引っ越しが終わるまで、坊ちゃんの部屋で待っててもらっても良いですか?」

「おお、分かった」


 松野はにこやかに頷くと、上がり框の前で後ろ向きになり、器用に靴を脱いだ。龍二の後を追うように、襖や柱で区切られた家の中を歩いて行く。


「ここです」


 龍二は桜が描かれた襖の前で止まると、スーッと横に戸を開く。

 龍二に続いて中に入った松野は、8畳の床一面に敷かれたパステルカラーのプレイマットを踏むと、


「うわ~!」


 と驚きながら部屋を見回した。

 手前の壁を覆うおもちゃの収納ラックには、木でできたミニカーやおままごとで使う野菜等が、カラフルなプラスチックケースに分けて収納されている。

 反対側の壁には幼児向けの絵本がぎっしりと詰まった棚が。おまけに、壁掛けテレビまで用意されている。床に散らばったおもちゃの中には松野の家でも見たメリージムやオーボールに積み木――そして、松野が取ってあげたぬいぐるみ達もある。


「見事におもちゃでいっぱいやな~…」


 有名なおもちゃは全部揃えてあるんじゃなかろうか…と、呆気に取られている松野に、龍二は「ははは」と笑う。


「今はお気に入りの動画があるから、多少何とかなりますけど…動画に頼る前までは、兎に角色んなおもちゃで機嫌を取ってたんですよ」

「成る程な。試行錯誤した結果がこれなんやな」

「えぶー」


 深く頷く松野に答えるように、春が松野の肩を叩く。


「龍二、今まで大変やったな。でも、俺が来たからにはもう大丈夫やで!」


 グッと親指を立てて、松野はニヒルに笑ってみせる。

 全く似合っていないその表情に、龍二はフフッと顔を崩し、お礼を言う。


「今、飲み物持ってきますね」

「あ~、大丈夫!来る時にペットボトル買ったから。これ、お土産な。皆で食べてくれ」


 台所へ行こうとする龍二を止め、松野は紙袋をズイッと渡す。


「あぁ、こんなに…ありがとうございます。じゃあ、俺も外で作業の手伝いをするので、何かあったら呼んでください」

「ありがとな~」

「あう~」


 春の手を握って、龍二にバイバイと振る。ペコリと会釈をして出て行く龍二を見送ると、松野と春は笑顔で見つめ合った。


「ほな、一緒に遊ぼうか~。春」

「う!」

「!?いてててて!」


 ご機嫌な春に頬を抓られながら、松野はゆっくり腰を下ろす。

 転がっているゴリラのぬいぐるみを何とか掴み、頬を千切ろうとする春に向かってフリフリと振る。すると、ゴリラに気付いた春が、頬からパッと手を離した。


「あー!」


 ぬいぐるみをペシペシと叩き始めた春に、松野はホッと息を吐く。肩にかけていたボストンバッグを壁際に置くと、松野は春の隣で胡坐をかいて座った。


「春~、おいで~」


 春を抱き上げ、胡坐の上にぬいぐるみごと座らせる。ふわふわの髪の毛を撫でながら、松野は愛しそうに微笑んだ。


 これから、皆と共に、ここに住む。

 その実感がまだ湧かない。

 まだ遊びに来たくらいの感覚しかないし、何なら、春を撫でていても、現実味がないくらいだ。


 ――夢みたいな…あんな毎日が送れると良いな~。


 夢の中で過ごした、笑顔が絶えないハッピーな日々。

 松野は未来に思いを馳せ、一人でフフフと笑いだす。

 とても幸せそうな松野だが――この10分後、松野の脳内のお花畑は完全に消滅する事になる。


 搬入で傷をつけないよう門を養生していた作業員は、フラフラと近寄ってきた男達に気が付くと「ギャー!」と悲鳴を上げた。

 叫び声に驚いた浜ヶ崎と龍二と吟が、一斉に門へ視線を向ける。すると、出かけていたはずの三人の子分達が、痛そうに足を引きずりながら、門の中に入ってきた。


「お前らどうし…」

「親父!カチコミです!!」


 眉間に皺を寄せる浜ヶ崎に、三人は苦悶の表情で叫ぶ。


「何っ!?」

「兄貴!大丈夫っすか!?」


 力尽き、地面に倒れていく傷だらけの三人の元に、吟と龍二が急いで駆け寄る。と同時に、三人を追いかけてきた敵の五人の組員が、鉄パイプを握り締め、したり顔で敷地に入ってきた。


「?なんや、外が騒がしいなぁ…」


 うっすらと罵声が飛び交っている事に気付いた松野は、春を抱っこしたまま外に出る。

 カラカラカラ…と引き戸を開けると、その音に気付いた敵の一人が、勢い良く玄関に顔を向けた。


「見つけた…」


 焦点が定まってないようなイカレた目をした男は、浜ヶ崎家の長男――春を見て、ニヤリと怪しい笑みを浮かべる。

 男は鉄パイプを持ち直すと、全速力で走りだした。


「春!松野!危ない!」


 男の動きに気付いた浜ヶ崎が、必死の形相で唾を飛ばす。


「へっ!?」


 松野は大声に驚くが、すぐにこっちに向かってくるヤバそうな男を見つける。


「ヒィッ!!ちょっ…何!?は!?」


 状況が呑み込めず戸惑う松野だったが、男の目が春を捉えている事に気付く。


 ――えっ!て…鉄パイプまで持ってるやん!!


 もしかして、春に危害を加えようとしているのか?こんなに小さな赤ちゃんに?と、松野は恐怖で腰が抜けそうになる。


「だ、誰か…」


 周りに助けを求めようと見渡すが、浜ヶ崎達は離れた場所で応戦している。


 ――ダメや…誰もこっちに来られへん…!


「えっ、あっ…」


 松野はパニックになりながら、春をぎゅっと抱きしめる。

 どうしよう。このままじゃ、春が大変な目にあってしまう。


 ――それはあかん…!俺が…俺が、春を守らんと…!


 目の前に迫る男に怯えながら、松野は咄嗟に拳を握る。そして、


「おりゃー!!」


 とありったけの声で叫ぶと、男に目掛けて思いっきり拳を突き上げた。


「ウグゥッ!!」


 拳がガツン!と顎にクリーンヒットし、男は綺麗な放物線を描いて飛んでいく。


「あっ、兄貴ぃ!!」


 ドスン!と地響きのような音をたて、男が地面に叩きつけられる。

 ピク…ピク…と痙攣しながら泡を吹く仲間を見て、もう一人が「テメェ、このやろ~~!!」と声を荒げた。「うおぉぉぉ!!」と叫びながら殺気全開で殴りかかってくる男に、松野は「ヒィッ!」と声を裏返らせる。

 やばい。どうしよう。もう一人こっちにやってきた。


 ――しっかりせな…春を守れるのは俺だけや!絶対に、俺が春を守らなあかん!


 そう腹を括った松野は、目を瞑り、無我夢中で拳を突き上げる。

 すると、運よく拳が顎に当たり、強烈なアッパーが決まる。


「ウグゥッ!!」


 男は綺麗な放物線を描き、ドスン!と地面に落ちていく。

 白目を剥いて伸びている男。その無様な姿を見て、三人の敵は戦う手を止めた。


「おっ…お前、何者だ!!」


 こんな奴、浜ヶ崎組で見た事ない。

 男たちは松野をギロッと睨みながら、鉄パイプを力強く握り締め、松野ににじり寄る。


 ――ヒエェッ!ささささっきは偶然顎に当たったけど…っ!


 今度こそ、ダメかもしれない――と、松野は一瞬怯みそうになる。しかし、腕の中には、不思議そうに事を見守っている春がいる。春の為にも、絶対にここで引く訳にはいかない。


「俺は…」


 ゴクッと松野が唾を飲む。と同時に、男たちは返事を待たずに襲い掛かっていく。

 松野はキッと男達を睨み付けると、


「俺は…浜ヶ崎組のベビーシッターじゃ――!!」


 と叫び、三人を勢い良く殴り飛ばした。


「…すげぇ…」


 額に汗を浮かばせた吟が、宙に飛んだ三人をポカンと見つめる。

 浜ヶ崎も龍二も、目を丸くして松野を見つめている。


「はぁ、はぁ…」


 興奮して息が上がった松野は、春を落とさないように抱きながら、ヨロヨロとその場にへたり込む。異変に気付いて視線を落とすと、手と足が勝手にプルプルと震えていた。


 ――こ、怖かったぁ…。


 本当に、殺されると思った。春が居たから何とか気を張れたけど、居なかったらきっと、されるがままだった。

 ああ、人を殴ってしまった。人を殴るのなんて初めてだ――と、考えてハッとする。


「えっ…これって…正当防衛、よな…?」


 目の前には白目を剥いて寝転がる五人が居る。“死屍累々”という言葉がピッタリの状況を見て、松野の頭の中に“暴行罪”という文字が浮かんだ。


「!!」


 ゾワゾワゾワッと、体の中を恐怖心が駆け巡る。

 こんなに人を殴ってしまったのだ…もしかして、自分は警察に捕まってしまうんじゃないだろうか。


「ちょっ…はっ、浜ヶ崎!」

「……」

「大丈夫だよなぁ?お、俺っ…悪い事してないよなぁ!?」


 自分の顔を指差して、松野は必死に浜ヶ崎に話しかける。

 豪快に拳を振るっていた姿から一変、冷や汗をかき、おろおろし始める松野を見て、浜ヶ崎はあんぐりと開いていた口の端をフッと持ち上げる。


「…これは、期待以上やな」


 頭を抱えてパニックになっている松野を見ながら、浜ヶ崎はボソッと呟く。

 今まで色んな死闘を経験してきたが、あんな漫画みたいなパンチを放つ奴、始めて見た。


「ふ、ふふっ…」


 あの威力はヤバい。強すぎる。まるでゴリラみたいだ。


「ふははははっ」

「えっ…何で笑ってるん?ちょっと!俺、捕まったりしないよなぁ!?」


 腰に手を当てて楽しそうに笑う浜ヶ崎に、松野は真っ青な顔で訴え続ける。



 これは、一人の社長が、ある日急に会社をクビになり、極道のベビーシッターになるお話。

 この後の松野の人生は、夢で見たものとは程遠い、スリルとハッピーが激しく入り乱れた、波乱万丈なものになっていく。




====================

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

前作同様、作成に一年以上かかってしまいましたが、無事公開できてホッとしております。

お付き合いいただき、また、貴重なお時間をいただきありがとうございました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

【完結】松野さん、極道ベビーシッターになる 櫻野りか @sakuranorika

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ