旗尾 鉄

 俺は、中学校の美術教師だ。


 いまは金曜日の六時間目。

 ぽかぽか暖かい春の陽気のなか、教壇に立っている。

 週の最後の授業時間、しかもこのうららかな気候。生徒たちはすっかりリラックスしている。頭の中はすでに週末モードに切り替わっていることだろう。


 美術の授業といっても、いつも絵を描いたり彫刻をやったりしているわけではない。今日は座学のほうだ。


 ラスコーの壁画にはじまる美術史を教えたり、遠近法やキュビズムなどの技法について説明したり、わりとやることは多い。


 今日のテーマは色彩についてである。

 正直に言うと、俺は絵を描いているほうが好きだ。座学のほうは少し、ちょっとだけ、ほんのわずか、苦手だった。


「……そういうわけで、芸術においては、固定観念にとらわれすぎないことも重要なんだ。自然界の色って、色鉛筆の数だけじゃないよね。晴れた空が必ず青色ってわけじゃないんだ」


「でもさー先生、学校だと茶髪禁止だよ。髪は黒って大人が決めてるじゃん?」


 女子生徒にツッコミを入れられた。教室中、みんな爆笑だ。

 俺は校内で一番若手の教師ということもあって、いじられキャラになってしまっている。どうもやりにくいな。


「まあ、それは話が別だよ。校則で決まってるんだから。人物画を描く場合は、茶髪でも金髪でも構わないよ。自分が表現したいと思うことに合わせた色を選んでください。課題の自画像、金髪を理由に減点なんかしないから安心して」


 ふたたび笑いが起きた。

 うまく乗り切れたと思った俺は、ここで気が緩んだ。余計な一言を付け加えてしまったのだ。


「髪の色だけじゃないぞ。さっき言った空の色も自由だし、人物画だったら顔の色がはだい……」


 肌色じゃなくてもいい、そう言いかけて俺はハッとした。まずい。

 最近は、「肌色」という言い方はNGなのだ。


 特にこのクラスには、父親が黒人の、レオンという男子生徒がいる。彼の肌は、褐色だ。一般的な色名としての「肌色」とはかけ離れている。


 教室が、水を打ったように静かになった。


 俺は言いなおそうとした。

 だが焦っていたせいか、「正しい」とされる言い方がとっさに出てこない。

 ベージュに近いオレンジ色、だっただろうか。

 クリームに近いオレンジ色、だったかも。

 オレンジ色に近いベージュ、だったようにも思える。

 そんな言葉、普段は使ったこともないからだ。俺にとって、あの色は「肌色」でしかなかったからだ。


「先生」


 口を開いたのは、レオンだった。


「ハダイロでいいよ。今まで、そう言ってきたんだから。そこまで、俺に気ぃ使わなくてもいいって」


 授業終了のチャイムが鳴った。

 教室はわっと騒がしくなり、気まずい雰囲気から解放された。一番ほっとしたのは、たぶん俺だっただろう。


 レオンを呼び止め、軽率だったと謝罪する。


「別にいいって。じゃあ俺、掃除当番だから」


 課題の自画像に色を塗るとき、レオンはどんな思いだろう。

 個性うんぬんといいながらの、茶髪禁止が納得できるだろうか。


 おまえたちのほうが、よっぽど物事がわかってるのかもなあ。


 生徒たちを見やりながら、俺には、自分の至らなさを感じることしかできなかった。



   了

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旗尾 鉄 @hatao_iron

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