届く旋律。果たす約束

鍋谷葵

届く旋律。果たす約束

 N県S市の海辺の鄙びた港町、T町の漁港と浜を見下ろせるある丘の上には、何時建てられたのか分からない荘厳な日本家屋が立っている。古めかしい瓦屋根に、黒ずんだ木の外壁、家の裏には防潮林としてアカマツ林が広がっている。

 ただ、代々『松笠まつがさ』の姓を持つ者が暮らしてきたお屋敷は、お屋敷に暮らしていたやめおの『松笠勝也まつがさかつや』が令和二年に老衰にて亡くなった時点で、空き家となってしまった。そして、ここで問題となったのは、松笠家に連なるあらゆる家が、T町のお屋敷の相続を、地方かつ田舎にあるということで、誰もが拒絶したことである。つまりお屋敷の所有権は破棄され、立派な日本家屋は事実上放棄されたのだった。

 松笠勝也が亡くなって以降、丘の上に取り残された家屋に近づく者は誰もいなかった。これは彼が鬼籍に入ったためであるが、それ以上に松笠のお屋敷に関する奇妙なうわさがT町に波及したためである。T町に波及したうわさと言うのは、誰も住み着いてないお屋敷から決まった時刻にピアノの旋律が聞こえてくるというものだった。

 生前、松笠勝也は決まった時間にピアノを弾いていた。彼のピアノの旋律は屋敷裏のアカマツ林を抜け、朝明け時の忙しない漁港に届いていた。また、漁師たちは彼のピアノを楽しんでた。決まって朝の五時に演奏が始まり、五時五分には演奏が終わるため、その五分間は仕事を止め、彼のピアノの音色に聞き入っていた。彼が亡くなった後、当然ではあるが、ピアノの旋律が防潮林を抜けてくることはなかった。しかし、彼の死から四十九日が過ぎた後、なぜかピアノの音が松林を抜けてきたのである。漁港で作業してる人々は誰もが幻聴と疑ったが、働いている人すべての耳に彼の演奏は聞こえていた。

 このようなうわさ、というよりも客観的事実はT町を恐れさせた。多くの人は誰にも看取られなかった彼の祟りと言ったし、いくらかの人はT町の誰かがお屋敷に忍び込んで勝手にピアノを弾いているだけと言った。ただ、それらのうわさを立てた人々が松笠のお屋敷に確かめに行くことは無かった。彼らは起こっている事実として、誰もいないはずの松笠のお屋敷から、四十九日の後、毎日五時から五時五分の間、彼の演奏が防潮林を抜けて漁港にまで届いていることを認識し、これだけで満足していた。

 空き家から聞こえる亡き家主のピアノの音色。

 片田舎の町を一つの興奮状態に陥れた怪奇現象は、T町の外へと広がるのも早かった。ときおり、町外からテレビやYoutuber、三流雑誌のライターなどが取材に訪れることもあった。だが、彼らがT町に来て、明朝から松笠のお屋敷周辺を取材する時に限って、ピアノの音色はパタッと消えた。そして、所詮はうわさ話だったと彼らが落胆して、取材を止めて帰ると、再びピアノの音色が聞こえるようになるのだった。

 まるでT町の住民以外に聴かせるつもりがないように振舞う怪奇現象であったが、徐々に一般的な現象として、それは海辺に住む人々にとって慣れ親しんだ海嘯のようにT町の人々へ受け入れられた。というよりも、穏やかで柔和、早逝した病弱な妻を一途に想っていた誠実な人柄の彼の死を悼んでたT町の住人にとって、彼のピアノの旋律を再び聴けることは喜ばしかった。そもそも、怪奇現象が彼の祟りとして吹聴されたのは、T町に住む人々が彼の最期を看取れなかったという一点に尽きる。だからこそ、認識が変わる負から正へ変わったのは当然と言えよう。

 しかし、認識が変わろうと彼の屋敷へと近づく者はいなかった。それは恐れというよりも、直感的な畏れのためであった。



 ×××××××××××××××



 令和五年の四月のある晴れた日の曙。

 松笠のお屋敷へと続く遊歩道は、満開の桜を携えて、彼の一周忌を飾っているように思えた。そして、喪服を着た一人の瘦躯な女性は、彼女以外誰もいない薄紅色の薄暗い坂道をゆっくりと歩いて行った。勾配急な坂道を一歩一歩踏みしめるように歩く彼女の面持ちは、辛そうであり、濡羽色の美しい黒髪が青白い額にぺたりと貼り付いてた。

 運動不足のためか、彼女が丘の上のお屋敷の正門着いた時、彼女は手を膝について肩で息をしていた。そして、一年間放置され、打ち捨てられたような状態となった正門の木戸を見ると、辛そうな呼吸をしたまま溜息を吐いた。

 呼吸を整えた青年は木戸に手をかけ、開けようとしたが、手入れのされていない木戸は彼女の力ではびくともしなかった。したがって、彼女は正門を通らず、回り込んでお屋敷の敷地内に入った。

 およそ、松笠勝也が生きていたころは丁寧に手入れがされ、雅な光景を成していただろう正面玄関の石畳の道と、縁側に面した苔むした幾らかの岩と小さな池から成る極めて個人的な庭は、落ち葉に浸されている。特に池には藻が群生しており、その上には蚊柱が立っている。

 荒れ果てた庭を見て、彼女は虚しさを覚え、あえて庭を見ないように玄関へと急いだ。

 鍵のかかっていない玄関の硝子戸は、正門の木戸とは異なり、彼女の弱々しい力でもすんなりと開いた。扉を開けると、広々とした土間が広がっており、そこには木のサンダルが一足、脱ぎ捨てられていた。

 彼女はサンダルを揃えると、蒸れて仕方がない革靴を脱いで土間から上がった。軽い彼女の体重でさえ、埃が薄っすらと積もっている木の床は軋み、不気味な音を屋敷中に響かせた。

 人気のない屋敷を木床がきしむ音とともに、彼女はズンズン進んでいく。慣れ親しんだ光景であるかのように。

 かくして彼女は一切の迷いなく、屋敷の西側、つまり防潮林に面した部屋の前に着いた。

 ただ、彼女は黄ばんだ襖を前に躊躇いを見せた。彼女はいままでの迷いない動作とは異なり、襖の黒い引手に手をつけた瞬間に止まった。それは逡巡と焦り、そして緊張のためであった。

 こみ上げる緊張は彼女の額を濡らした。背中を濡らした。そして、掌も濡らした。


「梅は咲いたね。桃の花も咲いた。桜も咲いた……」

 唐突に襖の奥から物腰柔らかな青年の声が聞こえた。彼女はびくりと肩を震わせると、躊躇いをかなぐり捨て、力一杯襖を引いた。すると床に積もっていた埃が宙を舞った。

 宙に舞う埃で遮られる彼女の視界の先には、古い畳の匂いとアカマツの匂いが籠った和室が広がる。葡萄染の絨毯が敷かれ、その上には使い古されたアップライトピアノと座面の黒い革が禿げ、黄色いスポンジが見えているピアノ椅子が置かれている。

 そして、彼女が聞いた声の主は、開け放った肘掛け戸からアカマツ林を見ている。彼女と同年代とうかがえるワイシャツと黒いスラックスに身を包んだ中肉中背の青年は、後ろで手を組んで、外を眺めているだけで動かない。ただ窓から吹き抜ける苔や草、潮の匂いが混じった冷たい風が、彼の短い黒髪をなびかせる。


「やあ、ところで今は何の季節かな?」


 彼女の存在に初めから気付いていた彼は、意地悪な笑顔を浮かべながら彼女の方へ振り向く。しかし、彼女は嫌な顔一つせず、それどころか空き家で佇む青年を恐れず、彼に微笑む。


「いまは向日葵です」

「そう。もう向日葵か」


 使い古されたアップライトを撫でながら彼は寂しそうにつぶやく。触れているのにもかかわらず、埃が舞わないのは、彼がピアノをずっと使ってきたためなのか?


「それじゃ、金木犀も咲いて、紅葉も色づき始めるね」

「はい」

「緊張しないでよ。なにも、初めてじゃないだろう?」

「初めてどころか慣れ親しんでいますよ」


 青年の声はいつの間にか渋みが増しており、手には硬さが、顔には中年男性特有の黄ばみと皴が入った。そして、髪にも霜が微かに降りた。

 突如として変化する彼に、彼女は驚かなかった。


「噂をすればなんとやら。もうすっかり晩秋だよ。君はまだ夏に居るというのね」

「ふふ、あなたにはそう見えるんですか?」

「うん、僕の目には夏が見えるよ。青い空、照り付ける太陽、向日葵、浜辺で作るアジの干物。綺麗な手を魚の内臓で汚すのは、今思えばもったいなかったね。いや、それ以上に外で仕事を手伝わせるなんて想えていなかったよ」


 初老の男性となってしまった彼は、ピアノ椅子の座面を半分空けて座ると、アップライトピアノの蓋を開けた。ごつごつとして彼の茶こけた手と、すっかり汚れてしまった黄ばんだ白鍵は、彼女の目に涙を浮かばせる。


「さあ、こっちへ」

「はい」


 恭しく一礼をする彼女は、彼がぽんぽんと叩いたピアノ椅子に座った。そして、彼女が真横に座る彼を見つめると、彼の髪は真っ白になっており、顔も手もしわくちゃになっていた。しかし、彼の顔に浮かぶ笑みだけは、部屋に入ってきたときと何ら変わっていない。それはとても優しく、柔和な笑みであった。


「まさか自分で弾けるようになるとは思わなかったよ」

「努力なされたんでしょう?」

「まあね。ピアノの旋律が好きと言ってくれる人が傍に居たからね。彼女は僕を置いて先に逝ってしまったけど」


 はにかみながら彼は白鍵を薬指で優しく、撫でるように押すと、和室にドの音が響く。調律は完璧である。


「始まりはいつだってこの音からだった」

「初めて覚えた曲は『きらきら星』でしたものね」

「そうそう。ピアノを覚えようとしたとき、あんな簡単な曲だって僕には難しかった」


 硬くてごつごつとした彼の左手に、彼女はしなやかでほっそりとした病的なほど白い手をのせる。


「でも、朝明け時に僕を残して、海の向こうに、空の向こうに逝ってしまった人のために僕は覚え続けたんだよ」

「知ってますよ」

「そう? ずっと秘密に練習してきたんだけど」

「ずっと、そばに居ましたもの」

「恥ずかしいね」


 白髪塗れの髪を撫でて、彼は笑う。そして、彼女も呼応するように笑う。


「じゃあ、あの人が愛したこの町の人々と練習していた僕の演奏を聴いていたなら、これから演る曲もわかるね?」


 左手で白鍵を撫でる彼は、彼女に微笑みかえる。

 物腰柔らかな老人の笑みは、彼女の目に溜まった涙を一滴、白鍵に落とした。


「もちろん。私が一番好きな曲ですもの」

「じゃあ、始めようか。これで最期さ。これで本当に……」

「まだ、向こう側で一緒ですよ」

「そうだね」


 年老いた彼は、ぽろぽろと涙を零す彼女の頬に左手をあてがい、親指で彼女の涙をすくう。


「泣かないで。もう、一人にしないからさ」

「約束ですよ」

「うん、約束だ。絶対に破らない。だって、君は約束を守って迎えに来てくれたから」

「私が約束を破るわけないじゃないですか……」


 彼女もまた手を彼の皴だらけの頬にあてがって、いとおしそうに彼の目元を撫でる。

 ただ、明けの光が防潮林の中にギラりと光ると、彼女は焦りながら両手をピアノに向ける。慌てる彼女を、彼はニコニコと見つめる。


「それじゃあ、演ろう。約束通り」

「はい」


 二人はかくして演奏を始める。

 白鍵と黒鍵は二人の手の動きに合わせて旋律を奏でる。

 音は宙を舞う。

 音は風に運ばれ、アカマツ林を抜ける。

 旋律は漁港を包み、穏やかな海と透き通る空に消え行く。

 そして、美しく、眩い朝日の輝かしい光が旋律と混じり合う。



×××××××××××××××

  


 松笠勝也氏が亡くなってから四十九日後、漁港と浜を見下ろせる丘の上に立つお屋敷から聞こえるようになったピアノの音は、令和五年のよく晴れた四月のある日を境に聞こえなくなった。

 T町の住民の多くは彼が成仏したのだと言った。

 ただ、漁港で彼の最期の演奏を聴いていた漁師たちは、彼は、彼が生涯大切にしていた妻と成仏したのだと言う。それは彼らが最後に聞いたピアノの演奏が、普段と異なっており、二人で奏でているように聞こえたためである。また、彼の妻が生前の姿のまま、お屋敷へ向かう坂道を登っていく姿を見た漁師もいた。だからこそ、漁師たちは、彼は一人で成仏したのではなく、妻と成仏したのだと町の話に注釈を入れた。



 ×××××××××××××××



「そういやあ、最後に聞いた曲ってなんだけか?」


 五月のある晴れた日、一人の中年漁師は明け方の海を見つめながら、傍らで漁網を片付けている若い青年の漁師に問いかけた。


「あれはリストの曲で、『愛の夢』」

「おめえ、物知りだなあ……」


 手持無沙汰に海を眺めている漁師は、忙しなく仕事に従事してる他の漁師を他所にぼうっと呟く。


「馬鹿言ってねえで、早く片付けて」

「あーい」


 そして、若人に怒られた漁師は渋々仕事を始めるのであった。

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