ファヴニール
翌朝ライサが立ち枯れの森に入っても、ファヴニールは動きを見せなかった。
その王者の余裕は、挑む者にはある種の慈悲だろう。単独で対峙するライサにとって、仕込みの成否が勝つために非常に重要だった。
手早く魔法陣を設置して、その場を離れる。
「この味、苦手なのよね……」
と言いつつ、ライサは一気に飲み干して、空の瓶をレッグバッグに仕舞い、
手を握ったり開いたりして活性具合を確認する。
「よし、行きますかっ!」
気合いを入れると、
〝白きイナスよ、尊き女神の名を持つ河よ、その御力を一時、我へ貸し給え〟
右手に持った蒼刀を河へ捧げ、魔法陣に触れる。
滔々と流れる水が、河底から突き上げられたかのように吹き上がり、三つの魔法陣へと渦を巻いて注ぎ込む。
「このまま、真っ直ぐ!」
駆け出したライサを奔流が追う。途中途中に設置された魔法陣を経由し、水流は立ち枯れの森を取り囲むよう六本の水柱となって天へ立ち昇った。
「イナスの水を浴びなさい!」
蒼刀を突きつけた先には、
その中心に、逆立つ黒い鱗からボタボタザと水を滴らせた巨大な竜がいた。
ファヴニールは呆気に取られていた。
小さな生き物がうろうろしていたのは分かっていたが、イナス河をぶつけられるなどと、どうして予想できよう。
己を取り巻いていた重過密の魔素は外気からの緩衝材として作用していたのだが、それがイナス河に触れたことですべて水の元素へと変じてしまったことを理解して、激しい怒りを覚えた。
眼前にいる小さきものなど、こうしてくれる!
ライサは襟に挟んでいた羊皮紙を口に咥え、水が引いた泥の空所を走る。この隙を利用して、丸く蹲ったファヴニールの顔の前へ、前脚も尾も届かず、怒りに任せ咆哮をあげたその口で攻撃するしかない場所へと。
竜の頭へたどり着いたと同時に、瞼が動いた。瞳孔がスッと細くなる。
ファヴニールが口を開けた時に一番恐ろしいのは毒だという。肌は爛れ肉は腐れ落ち、正気を保っていられないほどの激痛が全身を襲うのだ。怒りの咆哮と同時に浴びせられることを警戒して、ライサは二振りの剣を構え防御体制を取った。
シュッ、ひょい。
音にすれば、まさにこのような感じで、一瞬でファヴニールはライサを口の中へ捉えてしまう。
ファヴニールとしては毒牙を打ち込んだつもりだった。ところが、目の前の生き物の大きさを見誤ってしまったのだ。こうなっては仕方がないが、竜にとっては些細なことだ。
横たえたままだった体を起こす。太い四肢で泥濘んだ地面を踏み締め、首を高く上げて飲みくだそうとする。
バシュッ。竜の胸から水が吹き出した。
ファヴニールが咆哮か悲鳴かわからない声を上げながら、ライサを吐き出した。空中で体制を整え、双剣を構え着地し、すかさず地面を蹴って前方へ、竜の両前脚の間へと飛び込む。リンドドレイクよりも分厚く固い外皮と鱗を裂いて、胸から血が一筋流れている。
そこを目掛けて、二振りの剣を突き立てた。
(穿て!)
剣の先から、水が噴流となって竜の体内へ迸った。
ファブニールが前脚を闇雲に振り回し、胸を掻き毟る。
瞬時にライサは後へ飛んで避ける。
ファブニールで最も気を付けるべきは棘のある長い尾だ。
しかし、竜が胴を逸らし前脚を振り上げて攻撃を仕掛けるには尾でバランスを取るしかないため、警戒度はかなり下がる。
ファブニールと対峙するならば、正面から前脚と胸への攻撃が鉄則だと、かつての英雄たちが教えてくれた。
ヴァルナルであれば、ファヴニールの鱗を打ち砕き、外皮も切り裂くことができるかもしれないが、いくら魔法で強化しようとライサの骨格と筋肉ではそこまでの
(リンドドレイクで実証済みだしね。唾液まで毒だってのは、ちょっと予定外だったけど)
咥えていた羊皮紙を離す。これのお蔭で喉を焼かれずに済んだが、もう必要ない。
混乱する竜が大きく仰け反る。
泥濘みに深く後脚が取られ、バランスを崩し上半身が傾く。本来の固い地面の上ならば、さほど問題はなかっただろう。
だが、今ここは泥の海だ。倒れまいと踏ん張り足掻くほど、自重でズブズブと沈む。
ぐらりとファブニールの巨体が倒れた。
ライサはすかさず胸の傷へ、深く剣を突き入れ、引き下ろす。
竜は前脚を振り回し、ライサを爪で引き裂こうとするが、それを交わしながら、何度も何度も傷へ剣を突き立て、切り裂き、魔法を撃ち込む。
咆哮をあげて全身をくねらせ、ようやく起き上がった竜の胸は深く裂け、胴には何ヶ所も穿孔があり、鱗は剥がれ血が流れていた。
ライサも泥まみれではあったが、喰らったのは先ほど振り払われた際の一撃くらいで、鎧のお陰で大きなダメージはない。
だが、持久戦が不利なことは最初から理解している。
一方の竜にも焦りが生じていた。
あの小さな生き物が爪を立てる度に、腹の中に嫌な痛みが走り、本能が警告を発する。
地面は乾かず、土の力より水の力が満ちたままなのも気に入らない。
怒りに任せ、長い尻尾であたりを薙ぎ払った。
「ギィギャアアア!! (イライラする!!!)」
ばっしゃあああっ!
竜の大咆哮と共に泥と水の飛沫があがる。
このタイミングで尾を振ってくるとは思っていなかったライサだったが、泥水と一緒に足元へ押し流されてきたものに目が止まる。
(……行ける?)
蒼刀の切先で掬いあげ、ファヴニールの胸の傷へと向ける。
「今一度、力を! イナスよ、滾れ!!!」
周囲の水を根こそぎ集め轟音を立てて魔法陣から白い水柱が迸り、竜の胸を抉って胴体を貫いた。
カッと見開かれたファヴニールの目から、生気が消える。
長い首がグラグラと揺れ、どさりと固い音を立てて地面へ落ちた。
そこから何かが、ぽぽぽっと浮き上がる。見る見るうちに辺り一帯からも小さな光の粒が浮き上がり、陽光を受けて七色に輝く。
〝
「え、何? 歌?」
それはどんどん数を増しながら空へと昇って、ついには巨大な虹になった。
〝讃えよう!
そう聞こえた瞬間、虹は光となって四方八方へ飛び去り、すっかり乾いた広大な空所に、巨大な竜の亡骸が横たわっていた。
(
蒼刀の先から千々と破れ散る羊皮紙は、イナス河から水を誘導した魔法陣のひとつだ。
「白きイナスに心からの感謝を……。あーーーーーっ! やってやったわっ!!」
そう剣を突き上げて叫んだライサは、そのままひっくり返った。極度の緊張状態が解けて、力が抜けてしまったのだ。
(いいよね、ちょっとくらい……)
この日、大陸各地で大勢の人が精霊の声を聞いたという。
〝
conteRecanto《コンテ・レカント》 ー厄災の英雄ー 青海 一 @makoto_ohmi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。conteRecanto《コンテ・レカント》 ー厄災の英雄ーの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます