アアラの森にて

 アアラの森の位置はおおよそでしか知らなかったライサだが、リンドドレイクたちが暴走してきた痕跡を辿るだけで着けそうだった。

 この辺りの森は日当たりのいい川沿いに色取り取りに紅葉したカンバや楢などの広葉樹が群生しており、奥へと進むにつれトウヒやアカマツの針葉樹へと変わっていく。50mにもなる真っ直ぐな幹の上の方に枝葉が茂っているので、薄暗くはあるが、時々リンドドレイクに踏み折られていない下枝や低木を払うくらいで、さほど苦労することもなく進むことができた。


 しばらく進むと枝葉の間から空が見えたので、方角を確認しようと向かうと一気に視界が開けた。見える限りの、ほとんどの木が立ち枯れて、枝葉を落としてしまっているのだ。まだ温もりを残す風の月8月の陽光を浴びていても、その光景は鬱々とした嫌な空気を孕んでいた。


「毒か瘴気か。いずれにせよ、やっかいね」


 手近な木の樹皮に手をかけると、グズグズと崩れる。


「これじゃ木材にもできない。アアラの木は含有魔素量が多くて良質だったのに。地面まで腐らされる前に何とかしないと」


 ベルトポーチから取り出した単眼鏡で周囲を窺う。豊かな森は騒がしいものだ。虫や鳥の声がし、生き物が活動する気配に満ちている。

 しかし、今は何の音もしない。生態系の頂点であるリンドドレイクですら逃げ出し、木々さえ枯れ果て、ここに生あるものはライサしかいないのだ。おそらくは向こうもライサに気がついているだろうが、ちっぽけな命ひとつに、絶対強者が気に留めるはずもない。


「その傲慢さ、助かる」


 立ち枯れた木々のさらに奥で、10mはありそうな何かがズルズルと動いた。焦点を合わせる。それは黒い鱗に覆われた尻尾だった。先端部にはスパイクのような突起がいくつも付いている。軽く一振りしただけで、あたり一帯が根こそぎ破壊されてしまうだろう。


「ということは、頭はこっちの方か」


 尻尾のおおよそ2倍見当の位置で単眼鏡を覗くと、額から長く角が突き出した顔がこちらを向いた。これ見よがしに欠伸をしてくれたので、口の中が少し確認できた。上顎から大きな牙が二本生えていて、他の歯は小さく細かい。

 首は長く、太い前足が胴体のやや下側から伸びているところまでは見えたが、少しの身動ぎで霧がかかったように視界が悪くなった。


「重過密の魔素で霞んでしまったようね」


 竜の王エンシェント・ドラゴンの顕現は生態系や環境を崩壊せしめる大災害であるが故に、多大な犠牲を払っても必ず討伐されてきた。出現率の低さに相反して、竜の王エンシェント・ドラゴンに関する情報が多く残されているのはそのためだ。

 魔法王国の大図書館には大陸中から集められた〝竜退治〟に纏わるありとあらゆる話が納められており、常に研究がなされている。ライサが単眼鏡をしまって代わりに取り出したのも、そんな研究書のひとつ(写し)だ。ページを素早くめくりながら、今見た特徴と照らし合わせる。


『額には一本角、逆立つ鱗は黒く、翼は持たず、蛇のごとき胴に四肢が生え、尾の先には棘を有する。これすなわち土の竜ファブニールなり』


 間違いなく竜の王エンシェント・ドラゴンだ。



 一旦立ち枯れの森を離れ、川沿いの少し開けた場所へでたライサは、今日はここで野営することに決めた。万が一ファヴニールに襲われても、河へ飛び込めば逃げることが可能だからだ。

 この世界は火・風(気)・水・土の四大元素から出来ていると考えられおり、単一の元素のみがこごったと云われる竜の王エンシェント・ドラゴンは、他の元素が混じることをひどく嫌うのだという。霧のように重濃度の魔素が取り巻いているため、小雨くらいでは痛痒も感じないだろうが、人間ひとりを追うために川へ飛び込むとは考え難い。


 レッグバッグから野営用の結界杭ペグを取り出し、五カ所へ打ち込む。念を入れて水の力を借りることにし、河に一番近いペグを頂点に地面に五芒星を描けば、大抵の魔獣は避けられる野営地キャンプの出来上がりだ。

焚き木を拾って火を起こし、塩漬けの豚肉とチーズを炙ってパンに乗せたオープンサンドを齧りながら、研究書(写し)のファヴニールの項を読み返す。


「ファヴニールは発現率が比較的高いから、各地に記録があるのよね」


 緑豊かで大地の力が強いズパ大森林帯に接する、大陸北西部地域での発生が多いようだ。大量の攻城兵器を投入したり、延べ5千人もの騎士団を動員して討伐を行った記録がある。魔法がなくとも何とかなるということだが、どれだけの日数と費用が掛かったかは定かではない。大国だからこそ、波状攻撃での力押しができたのだろう。


 一方、少人数での竜退治の話も伝わっている。こちらは、騎士あるいは剣士に魔術師がいる組み合わせが多い。いわゆる英雄と呼ばれる人々の物語だ。そのため、誇張や現実的ではないことが含まれているものの、参考になりそうな記述がいくつかあった。

 そして、魔法王国にもひとつの御伽話が伝わっている。500年ほど前、森を荒らすアースドラゴンの前に立ちはだかり、領民を守ったエールリンという女領主がいたという。アースドラゴンというのは当時の呼称で、残されている絵からファヴニールであったと推察される、との注釈がある。

 ライサが叙される爵名は、その女傑のものだったのだ。


(確かに慢心してたとこはあったわよ。宮廷内の政治的なトラブルなら、多少の暴力を伴っていても、私なら対処できるって。それがシームルグだなんて、本当……参ったわ。魔法も使えずにニーナ様を攫われてしまった。今の私は、ちっともエールリンの名に相応しくない)


 最後のかけらを口に放り込み、苦い思いと共に飲み込んだ。


「さてと、出来る限りのことをやっておくとしますか」


 ライサは膝にこぼれたパンくずを払って立ち上がり、プレートアーマーを外していく。

 基本が剣士であるライサは、皮装備(ダブレット・乗馬用ジョドパーズパンツ・ブーツ)の上に、胴鎧キュイラス肩鎧ポールドロン籠手ガントレット足鎧グリーブを着けている。この鎧はミスリル製で、高名な鍛治師が1年掛けて仕上げた特注品だ。

 鉄よりも軽く鋼よりも強く、美しい光沢を持つこの金属の特徴を聞けば、ニーナであればチタンだと答えるかもしれない。加工が非常に難しく高価なので飾りや模様などはなく、外観は平凡でシンプルなアイアンアーマーに見える。

 しかし、内側にはいくつもの魔法術式が刻まれていて、体に接触していれば恒久的に効果を発し続ける。筋力強化に俊敏性向上、疲労や衝撃の軽減、他にも急激な温度変化を緩和したり毒を防ぐなど、支援系魔法を掛け直す手間と隙を省き、戦闘に集中できるようにしてあるのだ。


 鎧を外すと、今度はベルトポーチから金属製の杖のようなものを取り出す。長さは15cmほどで、片方の端がしずく形に膨らんでる。これは、ペン先のついた軸でインク壺に蓋をして携帯できるようにした、ペンナーという道具だ。インク壺には魔素が充填されたインクが入っている。

 魔法陣や魔法術式は、正しくさえあれば発動するが、このインクを使えば得られる効果が高いこともあり、フィールドワークに出ることがが多い魔術師たちに愛用される逸品である。

 10cm四方に切り揃えられた羊皮紙の束に次々と魔法術式を描き出しては、鎧の内側へ、刻まれている術式を避けて貼り付けていく。これで同時に発動する支援魔法は10種類以上。開幕に未知の攻撃を仕掛けられても、即撤退という事態は免れるだろう。


(呼吸も確保しておく方がいいかしら? あの魔素の霧は、生物にはもはや毒だろうし)


 そう思って描き足したものの、胴鎧キュイラスにはもう貼る場所がなかった。迷った末に、取り敢えず着ているダブレットの襟へ差し込んでおくことにする。


 次は剣だ。リンドドレイクの体液や脂で汚れていないか、改めて確認する。

 一見するとただのアイアンソードだが、こちらも特注品だ。やや細身の剣で、空から降ってきた鉄から切り出されている。

 刀身は魔力と通すと色が変わり、赫刀かくとうには「火と風」、蒼刀そうとうには「水と土」を表す神代文字が刻まれていて、それだけで陣も式もなしに魔法が撃てる。魔術師の杖と同じような性能を持つが、一流の鍛冶屋が鍛えた剣は粘り強く武器としても扱いやすい。


(やっぱり剣で戦う方が性に合ってるのよね)


 皮鞘にもオイルを塗って拭きあげ、剣をしまう。

 あとはベルトポーチとレッグバッグの中身を確認して、薬品類を入れ替えておく。戦闘中に使う余裕などはないだろうから、気休めみたいなものだ。

 これで装備の方は整った。

 ここからは戦略を考える時間だ。ファヴニールは無策で当たれるほど甘くはない。焚き火から手頃な枝を1本抜き取り、地面に何かを描き始める。


「重過密の魔素、あれを……。ここと、ここに道を作って、ああ、違うな……」


 消してはまたガリガリと地面に線を書いて、何度もシミュレーションを繰り返す。相手は自然界の頂点を超えて顕現する竜だ、こちらの想定通りに動いてくれるとは限らない。納得いく解など出るはずもないが、対峙した時に動揺して判断を誤らないよう、あらゆる事態を想定しておくしかない。

 夜は長く、時間はまだあるのだから。

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